ハイフィンガー奏法の悲劇
これまでピアノのバッハのお話を30話+番外編3話を書き続けて、特に知見を深められた点は次のことです。
フォルテピアノがピアノへと変わってゆくにつれて(4オクターヴから7オクターヴまで音域が広くなり)
鍵盤の重さは次第に増してゆき(弦を叩くハンマーアクションが進化したため)
最初期のフォルテピアノから19世紀半ばに完成された現代ピアノに至ると、なんと鍵盤の重さは八倍にもなったということでした(ポップス用の電子ピアノとグランドピアノの鍵盤の重さの違いを思い浮かべてください。楽器屋さんに行けば弾き比べできます)。
ピアノ完成以前の作曲家バッハの書いた、ピアノ演奏を前提とされていない鍵盤音楽作品をピアノで弾くのは物理的に難しく、またバッハを楽譜通りにピアノで弾いても美しく響かないのは、楽器があまりにもバッハの時代のチェンバロからかけ離れてしまったからでした。
バッハをピアノを弾くうえで、チェンバロやフォルテピアノのために特化したトリルや装飾音に違和感が生じてしまうのは自明の理です。
ピアノの鍵盤が重くなったのは、そうする方が弦を打つ鍵盤に連動したハンマーにより大きな力を与えられたからでした。
梃子の原理ですね。
鍵盤のキーが重い方がより大きな衝撃を弦に与えることができます。軽いキーの初期ピアノ(フォルテピアノ)の音が小さいのはそのためでもあります。
しかしながら、鍵盤は更なる重みを得ることで、ヴァイオリンや声楽にも比肩する絶妙な強弱表現(染み入るようなピアニシモに豪快なフォルティシモ)を可能にしたのが新式ピアノ。
楽器サイズも大きくなってピアノ特有の残響もまた、さらに詩情に富んだ余韻を漂わせるのでした。
重い鍵盤を奏でるには、チェンバロやフォルテピアノを弾いていたようなタッチでは無理です。
軽い鍵盤を奏でるには手首を動かさないで指をただ上げて下げるという弾き方で十分でした。
いわゆる鍵盤を叩く、つまり打鍵することでチェンバロでは素敵な演奏ができたのです。
バッハやモーツァルトやハイドンは、きっとそういう演奏方法をしていたはずです。
現代の古楽器演奏者はそのように演奏しています。
モーツァルトの演奏を一度だけ少年時代に聴いたというベートーヴェンは、モーツァルトのピアノは見事だったが、ポツポツと音を切って全くレガートではなかったと後年語ったそうです。
事実だと思います。
モーツァルトのアントン・ヴァルター製のフォルテピアノは、そういう演奏することで最も美しい音を作り出すのですから。
前屈みになって体重を鍵盤に押し付けなるなんて演奏方法は、楽器的に必要はなかったのでした。レガート奏法も。
Eviva, Franz Liszt!
しかしながら、19世紀になるとますます重くなり、重量を増した鍵盤でピアノという楽器を最高の音で鳴らす最適の演奏奏法が考案されるのでした。
新しいピアノ演奏方法を編み出したのは、ピアノ史上、空前絶後の存在で、もっともっと評価されるべき、元祖ヴィルチュオーソの偉大なるフランツ・リスト (1811-1886) でした!
この有名なカリカチュア、ご覧になったことはあるでしょうか?
わたしは大好きです(笑)。
絵の下の文章もなかなかのもの(今回初めて全文を訳出してみて、笑ってしまいました)。
カリカチュアとは風刺、つまり誰かを批判したり馬鹿にしたりするために書かれる漫画のことです。
確かにリストのあまりに風変わりな演奏スタイルを小馬鹿にして描き出した風刺画ではありますが、このカリカチュアには、リストだけが演奏しえた、新しいピアノ演奏方法の全てが描かれています(ショパンやメンデルスゾーンはこんな風には演奏しませんでした笑)。
筆者的にピアノ演奏技術の観点から一枚ずつ解釈すると
お辞儀をして
演奏開始、腕を振り上げ手首を思い切り曲げて、
鍵盤に指が触れる。メロディを奏でると指は自由に上下ではなく左右にバラバラに動いて、さらには腕を思い切り伸ばして、手首は軟体動物のようにクネクネ、
和音を奏でると真っ直ぐに指を伸ばす(西洋式のこぎりでは押して切るのと同じ原理で力を伸ばして込める、日本式は引いて切る)
背中を曲げて、手首はまた大きく曲がり、
背中をそらしても、腕は真っ直ぐに鍵盤に触れている真っ直ぐな指に全体重が注がれる
髪を振り乱して、今度は指を曲げてスタッカート
そしてお辞儀して演奏終わり
お分かりでしょうか?
リストのしていることは、現代の言葉で言うところの重力奏法、自身の体の重さを腕を通じて注ぎ込むという弾き方。
漫画なのだけれども、ピアノ演奏に大事な特徴がすべて盛り込まれています。
注目すべきは手首と伸び切った腕。
手首はブラブラしてゴムマリで跳ねているよう。
またはバスケットボールのドリブルの要領で。
指がまっすぐ伸びているのは、20世紀の偉大なウクライナ出身のピアニスト、ヴラディミール・ホロヴィッツ (1903-1989) そっくりですね。
リストの弾き方は、それまでのピアノの鍵盤が重くなかった頃の、指を丸めて指先で鍵盤を叩く方法とは真逆のやり方。
リストの名言で私の大好きな言葉は
このカリカチュア、この言葉を完璧に体現したものです。
ベートーヴェンにピアノを習ったカール・チェルニーの弟子だったまだ十代だったリストは、パリでの衝撃的な超絶技巧のパガニーニ公演を聴いたのちに、ピアノのパガニーニになると決意。
師のチェルニーから習った (おそらくベートーヴェン直伝の古い) 演奏奏法を独自に改良。
数ヶ月の引きこもり期間を費やして、最後には新式演奏方法を考案したと伝えられています。
こうしてピアノの詩人フレデリック・ショパンさえも驚愕させた脅威の演奏方法を独自に編み出して、大変身したリストはパリ楽壇にデビュー。
ヨーロッパの音楽界を新しいピアノ奏法で一夜にして革新したのでした。
リストの手は常に鍵盤に触れていて、指は立てずに鍵盤に這うように平べったくして、フニャフニャの手首は常に上がったり下がったりして、腕は鍵盤の上に投げ出されるように落とされる。
フニャフニャの手首は当時の常識ではあまりに奇異に映ったので、漫画で風刺されるほど。
指は鍵盤を叩かないで、腕の自重のために鍵盤の上に指が落ちることで音が鳴る。
つまり現代でいうところの重量奏法、または重量奏法。この弾き方の世界で最初の考案者は間違いなくフランツ・リストなのです。
ベートーヴェンが今後50年はこの難曲はピアニストたちを悩ませるだろうと語った、ベートーヴェン屈指の超難曲「ピアノソナタ変ロ長調・ハンマークラヴィアソナタ作品106」をベートーヴェンの予言を覆して、半分ほどの作曲から20数年後に完璧に暗譜で演奏会において弾き通したのが、フランツ・リストでした。
クニャクニャの手首と背中でピアノを弾く(全身の体重を腕に乗せて指先に伝える)演奏方法があってこその快挙。
しかしながら、リストによる世界で最も合理的な新しいピアノ演奏方法は、当時の音楽家たちの理解を遥かに超えていて、あまりに画期的なリストの演奏技術は、ヴァイオリンのパガニーニ同様に語り継がれる奇跡のような伝説となったのでした。
リストは前人未到の数千回を超える演奏会を10年ほどの短期間に成し遂げます。
現代のピアニストでこんなにたくさんの演奏会をこなす人は誰もいません。
まさに超人です。
それが可能だったのも、いくら弾いても疲れない鉄壁の重力奏法のおかげだったのです。
ピアノ練習という苦行
ピアノという楽器は19世紀を通じて大ホールでの演奏に相応しいように響きは改善されてゆき、大きな音を轟かせる鍵盤の重みはさらに増してゆく。
ピアノは指先だけでは弾ける楽器ではなくなってゆくのでした。
19世紀のピアニストたちはスケール練習をメカニカルに行うことで、演奏困難な重い鍵盤のピアノを克服しようとする。
ピアノを演奏することは、こうして筋トレになったのでした。
音楽性などを無視して、ひたすら指を自由自在に動かすための筋肉が運動として鍛えられる。
クララ・シューマンは手紙を読みながらスケール練習をして、ヨハネス・ブラームスは本を読みながらピアノの練習をしました。
筋肉は使っていないと衰えるので、暇さえあればスケール練習(インタヴューされて余暇にはスケール練習をしますと答えた、20世紀の大ピアニストヴィルヘルム・バックハウスを思い出します)。
指を丸めて、硬い鍵盤を指先で弾くという苦行がピアニストへの道。
チェルニーやクレメンティやフンメルらによる「技術習得のためだけの」練習曲が数多く作られて、ベストセラーになりました(チェルニーは練習曲を山ほど書いて大金持ちになりました)。
やがては曲ではなく、音楽性と無縁な、純粋にテクニカルに動く指を獲得するためだけのシャルル=ルイ・ハノン(1819‐1900)による練習曲(1879年出版)もやがて考案されてベストセラーになります。
19世紀とは練習曲の時代でもありました。
誰でも練習すればピアノは上達すると信じられる時代が、幸か不幸か、こうして開始したのでした。
しかしながら、19世紀の音楽院は、軽い鍵盤のための伝統的な古いピアノ奏法を墨守して生徒たちに教え続けていました。
リストが極めた重力奏法は一部の優れたピアニストやピアノ教師たちなど、ごく僅かのピアニストたちにだけが知る最新の技術だったのです。
秘術は秘匿!
ですので、リストの演奏を見た優秀なピアニストたちは、リストの技術を目で盗んで独自に発展させてゆきます。
19世紀ピアノ演奏世界の最重要人物は間違いなくフランツ・リストでした。
フランツ・リストはコンサート・ピアニスト引退後(ショパンが死んだ後)ヴァイマルの宮廷楽長になり(ヴァーグナーの「ローエングリン」などを初演、交響詩というジャンルを設立)その後は僧籍に入ります。
聖職者となっても、数多くの音楽家たちが門弟となりたがってリストのもとを訪れて、寛大なリストは請われるままにピアノを教えるのでした。
ですが、自身の伝説の演奏テクニックの秘伝を教則本として書き残すことは、残念ながらなかったのです。
リストの重力方法はリストの弟子らを通じて今日にまで伝えられてゆきます。
リストの弟子ダルベールの弟子がヴィルヘルム・バックハウス、同じくリストの弟子クラウゼの弟子がエドウィン・フィッシャーやクラウディオ・アラウ。
リストは門弟四千人と呼ばれたほどのたくさんの弟子がいましたが、大成してリストの技法を後世に伝えたのは、ほんの一握りの人たち。
中でも有名なのは、チェルニーの弟子であるテオドル・レシェティツキを通じてロシアに伝えられた演奏方法。
名ピアノ教師レシェティツキはロシアに呼ばれて、十年ほどをかの地で過ごして、アントン・ルビンシテインやニコライ・ルビンシテインなどと共に、ロシア的ピアノ奏法の伝統の礎を築きます
彼等の活動が20世紀ソヴィエトのロシアピアニズムの源流となります。
どうしてロシア式だけがこれほどに有名となったのかは、間違いなく共産主義ソヴィエトの文化政策のため。
ロシアピアニズムはソヴィエト公式のピアノ演奏の伝統となり、鉄のカーテン、東側独自の文化政策において、国家をあげてピアニストの育成が行われたという次第です。
作曲家となる若いドミトリー・ショスタコーヴィチもおかげで国策のために1927年の第一回国際ショパンピアノコンクールに参加しています。
優勝は同じソ連のレフ・オボーリンだったのですが。
ソ連最強でした。
ここでは、ソヴィエト・ロシアピアニズム代表としてマリア・グリンベルク(1908‐1979)の演奏をどうぞ。
わたしがソフロニツキーと並んで、最も評価するソヴィエトの演奏家です。独特の重力奏法が作り出すピアノの音色とタッチが見事。
ハイフォンガー奏法の悲劇
さてここから本日の本題。
今日、ロシア式奏法として一般的に知られている重力奏法は、残念ながら保守的なドイツの音楽教育ではなかなか認知されなかったわけです。
ここで19世紀の我が国、明治日本が登場。
新政府は、鹿鳴館外交を行うなど、文明開化を謳って西洋文化を貪欲に取り入れて、西洋音楽もドイツから輸入します。
国民への西洋音楽教育を義務教育として、滝廉太郎(1879-1903)や山田耕作(1886-1965)をぞれぞれライプツィヒ、ベルリンに留学させて、日本のための唱歌などを作らせたりもしました。
器楽演奏においては、日本初の女子海外留学として津田梅子 (1865-1929) らとともにアメリカに渡った瓜生繁子 (1861-1928) が日本最初のピアニストとして帰国。
瓜生の弟子が日本最初の作曲家幸田延 (1870-1946)。
彼女が19世紀世紀末に作曲したヴァイオリンソナタ、新機軸はないとはいえ、19世紀の音楽語彙を見事に駆使して書き上げた、なかなか意欲作。
明治日本人の学習能力の高さに舌を巻きます。
そして幸田の弟子が、悲劇のピアニスト、久野久 (1886-1925) です。
バッハのピアノから、ロシア式奏法を調べてゆくうちに彼女のことを思い出したために、わたしはこの投稿を書き始めたのでした。
ここまでのリストやロシア奏法の話は、彼女を語るための伏線でした。
わたしが久野久について知ったのは、中村紘子さんの次のエッセイからでした。
読みやすい名エッセイですので、日本のピアノ事情黎明期に関心をお持ちの方には最良の読書ですよ。
中村さんは幸田延にも触れていますが、なんといっても久野久の物語は衝撃的です。
ウィキペディアでも彼女の略歴を学べますが、中村さんのエッセイにはなにゆえに久野久は死なねばならなかったのかの、女性ならではの視点からの秀逸な洞察が書かれていて、読む者の心を打ちます。
わたしが特に関心を持ったのは、ウィキペディアにも書かれている、血染めのピアノ練習。
ピアノを弾いて誰が指先から血を流しますか?
これがわたしが何度も言及している近代ピアノの重たい鍵盤の問題です。
ピアノは19世紀において、練習すれば誰でも弾けるものになったのですが、正しいピアノ演奏法はまだ確立されてはいなかった時代でもありました(現代でも日本の一部ではそうかもしれません)。
軽い鍵盤時代の弾き方である、手を丸くして指先で鍵盤を叩く弾き方は昭和時代の終わりまで、日本中で最も普及したピアノ演奏法でした。
昭和のピアノ教室では、どのピアノの先生も鍵盤の上の手はボールまたは卵を握っているような手で弾きましょうと指導していたのでした。
指を高く上げて鍵盤を叩く、いわゆるハイフィンガー奏法を筆者の中村さんも子供の頃に学び(太平洋戦争後の頃)、のちに留学して外国人の先生に完璧に学びなおさせられたのでした。
明治から昭和終わりまでの日本でハイフィンガー奏法が普及していたのは、古いドイツ教育法をお手本とした明治日本の伝統ゆえなのでしょう。
さて、幸田からピアノを習った久野久でしたが、久野久はほぼ独学でピアノの基礎を学んだらしく(というか、まともなピアノの先生など、明治時代には日本にはいなかったのです)ヴァイオリンを最も得意としていた、立派なヴァイオリンソナタを作曲するほどの幸田もまた、重力奏法的なピアノ奏法を理解していなかったようでした。
つまり、久野久は、正しくない演奏法でひたすら練習に励んだのでした。
努力と情熱の人である久野の流血しながらピアノを弾く弾き方を、指導教員であるヴァイオリン専門の幸田は正しく矯正することはできなかったようなのは残念なことでした。
それにもかかわらず、久野は大正日本において、国産ピアニストとして初めてベートーヴェンソナタを公開演奏。
成功だったと伝えられていますが、当時の日本でどれほどの人間がベートーヴェンのソナタを聴いたことがあったことやら。
正しい評価など誰も下せなかったはずです。
そして、舞台上で指を血みどろにさせながらの演奏。
重たい鍵盤を女性のか弱い指先で、一日に何時間も練習してフォルティシモすれば、指もどうかなってしまいます。
しかしながら、明治生まれの女性は強く、久野久は日本において最初のピアニストとしての地位を確立。
音楽院の教授にも任命されると、今度は日本政府は久野久の意思を全く無視して、彼女をヨーロッパへと派遣します。
そういう時代でした。
いやいやながらも久野久は音楽の本場ドイツの首都ベルリンへと向かいます。
ここでフランツ・リストの高弟エミール・フォン・ザウアー (1862-1942) に師事します。
ちなみにザウアーの最も高名な弟子の一人が、わたしが最も大好きなベートーヴェン弾きのエリー・ナイ(1882‐1968)です。
ユダヤ嫌いのナチス支持者だったために、戦後はレコード会社かられ冷遇されました。
ですので、ドイツ国外の愛好家の間での知名度は生前には高くはならなかったのですが、彼女の直情径行で超硬派な男性的なベートーヴェンは、時折19世紀風ロマンティックな表情を垣間見せる、鍵盤の師子王と呼ばれたバックハウスの世紀の名演に勝るとも劣らないものです。
20世紀最強のベートーヴェン弾きは、バックハウスでも、グリンベルクでも、ケンプでも、シュナーベルでも、リヒテルでもなく、エリー・ナイだとわたしは思います。
リストの高名な孫弟子たち、アラウ、バックハウス、ナイらは、リスト伝来の完璧な重力奏法を身に着けた20世紀最良のピアニストたちです。
さて久野久ですが、ザウアーは久野のハイフィンガー奏法をダメ出しします。当然のことですね。
着物姿で東洋からはるばるやってきた小さな体の久野を思いやり、これまでの弾き方を一切改めさせるために、ザウアーは彼女に子供が弾くような練習曲を与えて一からピアノを学ぶことを命じます。
日本一のピアニストとして国費留学してきながらも、彼女の演奏は完全に否定されて、通訳を通じて交わされた会話のために、久野の技術は本場のドイツでは全く通用しないことが狭いドイツの日本人社会に瞬く間に伝わります。
久野は深く恥じ入り、ベルリンを逃げるようにして去り、彼女の最愛のベートーヴェンの街であるウィーンに向かうのでした。
恥を重んじるのが我々日本人の美徳。
久野はどれほど悲しかったことでしょう。
辛かったことでしょう。
悔しかったことでしょう。
久野はウィーンにて、当時新進ピアニストとして売り出し中だった若いワルター・ギーゼキングの演奏会に接します。
ドイツ人の両親を持つフランスのピアニスト・ヴァルター・ギーゼキング (1895-1956) は、19世紀的なロマンティックではない、主情的な解釈を配した即物的な解釈をする新しいタイプのピアニストとして一世を風靡していました。
ギーゼキングの演奏もまた、ハイフィンガーとは無縁な重力奏法でした。
重力奏法はピアノという重い鍵盤の楽器を最も合理的に鳴らす奏法ですが、利点の一つは自身の全体重をピアノの注ぎ込むために、強弱の表現の幅を大変に大きくできる点で、ギーゼキングは19世紀のロマン派的な演奏ではない新しいピアニシモを奏でたといわれています。
ギーゼキングはのちの代表盤、史上初のモーツァルトピアノ全曲演奏という快挙とドビュッシーの前奏曲録音など感銘深い録音を通じて今日まで記憶されていますが、これらの世紀の名演はハイフィンガー奏法では絶対に真似できない端正なピアニシモに彩られた演奏です。
ギーゼキングの生演奏を耳にした久野久、どれほどのショックを受けたことでしょうか。
一生かかってもギーゼキングのピアニシモを奏でることができるようにはなれないと久野久を絶望させたのでは。
あまりにも違うギーゼキングの演奏方法とピアノの音色。
目立つ和服姿の久野は、ギーゼキングの演奏会のその夜、宿泊していたウィーンのホテルの屋上から身を投げます。
両足をひもで結び、靴も飛び降りた場所にしっかりとそろえられていたそうです。
日本初の国産プロピアニスト、異国にての決意の上での自死。
まるでプッチーニの「蝶々さん」そのもの。
わたしが中村さんのエッセイを読んだのは、二十歳前後のもう三十年も前のことになるのですが、いまだに衝撃的で忘れがたい悲劇の記録です。
ドイツ語も英語もできないでドイツに国費留学させられて、ピアノに全ての生涯を捧げたために(大正時代の感覚では)嫁に行き遅れた、ピアノにしか取り柄のない、日本初のピアニストとして将来を嘱望されていた久野久という女性。
あまりにも音楽の神様は無情です。
享年39歳。
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。。。
。。。
インターネットのおかげで久野久の唯一の録音をYouTubeから聴くことができます。
1922年の録音。
つまり102年前の録音なので、当時の未発達な録音技術のために、音は全く良くありません。
ピアノの音は歪んでいますが、久野久が得意としたというベートーヴェンがどのような感じだったのかは掴めます。
19世紀的なロマンティックな演奏ではなく、楽譜をそのまま音にしたような,
非常に20世紀的なザッハリヒ(Sachlich 即物的)な演奏。
機械仕掛けのように表情が全くない。
強弱の起伏と躍動感がないのは拍子感がゼロなため?(録音のため?)
フォルティシモが何度も鳴り響く、月光ソナタのフィナーレのような難曲を指を立てて弾いてはどれほどの痛みを感じたことでしょうか(ピアノを弾くことは苦行なのか?)。
ピアノとは、手首を固定しないで、指先ではなく指の腹の部分で弾くものです。リストのようにクニャクニャの手首で。
指先の演奏はスタッカートなど、特殊な音を出したいときだけにするべきもの。リストのように背中を折り曲げて音を刻むために。
指先だけの打鍵が奏でるベートーヴェン。
貧しい録音の向こうからポツポツと刻まれる音は、明治女性の苦しみの音のようにもわたしには思えます。
中村さんのエッセイをずっと昔に読んで、今こうして初めて、久野久の演奏を聴けたことは本当に感慨深いのですが、血染めの鍵盤のベートーヴェン録音はあまりにも切ないです。
ピアノは、指先ではなく、手先でもなく、背中で弾く(体重移動すると背中に圧力がかかって筋肉痛になります)。
日本のクラシック音楽黎明期の大先輩、久野久にこの言葉を教えてあげる人が彼女の周りには誰もいなかった。
そういう時代でした。
クラシック音楽愛好家の教師時代の宮沢賢治 (1896-1933) が月給のほぼ全てを費やして、毎月クラシック音楽のレコード収集(SPレコード)をしていたというのが1920年前後。
ちょうど久野久が月光ソナタをレコードに吹き込んでいた頃。
賢治は久野久の悲劇を聞き知っていたのでしょうか。
軽い鍵盤をもつチェンバロ・オルガンを奏でていたヨハン・セバスチャン・バッハは、きっとハイフィンガー的な演奏をしていたのだと思います。
重力奏法なんて必要なかった時代なのですから。
バッハの時代の楽器にはそれで十分だった。
演奏者の全体重を傾けた重力奏法すると、チェンバロやオルガンは壊れてしまいます。
リストは演奏会に何台ものピアノを用意させていました。調整に合わせた別々の調律のピアノだった可能性もありましたが、長身のリストの全体重がのしかかった遠奏のために何台ものピアノの弦はブチ切れてしまうことも珍しくなかったからです。
19世紀の発展途上のピアノはそれほどにやわでした。
バッハやモーツァルトが死んでしまったのちの世界で、彼らが知らない間にどんどん重くなっていった鍵盤。
重い鍵盤を「正しく」奏でる弾き方は、いまではピアノを弾くすべての人たちに知られているのでしょうか。
ピアノ演奏は全身を酷使する過酷な運動です。
音楽演奏は正しい姿勢で。
最も美しい音を楽器に演奏させる肉体の使い方、しっかりと学んでおきたいものです。
正しい重力奏法を学べば、一日八時間ピアノを弾いても疲れません。
ましてや、指の痛みなど決して感じやしません。
そのかわり、背中が痛くなるのですが。
背筋を鍛えてください。
久野久の悲劇、すべてのピアノ弾きに伝えてゆきたいものです。
参考文献:
岡田暁生「ピアニストになりたい!19世紀 もうひとつの音楽史」:ピアノ演奏発達史を詳細に綴った本。ピアノの世紀だった19世紀のあまりにも滑稽な裏側の世界を学ぶうえでこれ以上の良著はあり得ません。
目から鱗の意欲作。ピアノ好きな方には大推薦です。
浦久俊彦「フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか」:題名はふざけているようですが、極めて真面目でリスト入門には最高の読みやすい名著。
音楽を知らない人にも楽しめる読書でしょう。
福田弥 「リスト (作曲家・人と作品シリーズ)」:ピアニストとして活躍した以降のリストの生涯がよく理解できます。後半生に作曲された宗教曲の数の多さに圧倒されます。
初心者向きではない専門書。
もちろん中村紘子さんのエッセイは必読ですよ。