どうして英語ってこんなに難しいの?: (13) I love you よりも深い愛情表現、I love thee
また古い英語の話です。
Noteで英語の記事を書かれる方は、実践的な英会話や英語術を学ばれたいという方がほとんど。
英語の実用的ではない知識や教養にはあまり興味を持たれないかもしれませんが、そうした話題こそは最高の雑談のネタ。知っていてもすぐには役立たなくても、英語で話をしないといけない時に持ち出すと、相手に一目置かれるようになること請け合いです。
英語文字の移り変わりについて前回書いたのですが、今回は人称代名詞の話です。
Thou, Thee, Thine
英語以外のヨーロッパ語を学ばれた方は必ずご存知ですが、インド・ヨーロッパ語圏の多くの言語には性(Gender)というものがあります。
フランス語ならば、「あなた」と呼びかけるのに tuとvous。
文法が英語によく似ているゲルマン語の兄弟のドイツ語ならば、DuとSieとを使い分けますね。上の立場の人にはSie、家族など親しい人にはDuというわけです。
さらには Du, Dich, Dir, Deinといった具合にどの文脈で使われるかで格変化します。
主語に使うときには Du。
Du liebst mich(英語では You Love me)
目的語として使うときには
Ich liebe dich (I love you) または
Ich gebe dir einen Apfel (I give you an apple)
所有格も
Ich mag deinen Apfel nicht (I don't like your apple)
というような格変化を用いて文意を明確にします。さらには名詞にも性があるので、所有格はさらなる変化を行います。
現代英語では全てYou, 所有格も Your, Yours で非常に便利、ともいえますが、英語の曖昧さという諸悪の根源でもあります。
現代英語のYouは複数形さえも兼ねています。
ドイツ語では、Ihr, euch, euch を二人称の複数形として使い分けています。複数形は一種類だけ。
英語も昔はドイツ語と同じように二人称単数代名詞の使い分けは存在していました。英語もまた、ヨーロッパ語の仲間だからです。
次のミームがややこしい二人称人称代名詞の歴史的変遷を見事にまとめてくれています。
古い英語においては「あなた方」はYe。
ジェームス王聖書などに出てきます。
17世紀の初め、シェイクスピアの時代、またはジェームズ王聖書が編纂された頃の英語は現代英語とはかなり違いますが、日本の明治時代に現代日本語の基礎が確立されたように、近代英語の形態が作り出され、この時代の英語は拡張高い英語として特別な英語であるとみなされています。
つまり、英語世界の文人の教養です。
平安時代の源氏物語や方丈記の文体で文章を書けなくても、古文を読めたり、百人一首を何首か暗誦できるということは、日本人として大事な教養(私はそう思います、こういう教養を尊重しないと、日本語は滅びます)。
シェイクスピアのソネットを理解できるのは、万葉集を理解できるということにも似ています。
万葉集を知らなくても日本の日常生活は普通に過ごすことができますが、知っていると世界の幅が広がります。
さて、そろそろ本題に入ると、ヨーロッパ語の二つの「あなた」は、Formalと Informal という具合に使い分けられて、Thouが現代英語からなくなってしまったことが、英語には敬語がない、という勘違いを英語初学者の間に感じさせてしまう理由の大きな一因ですね。
日本語でも、自分を呼ぶのに「俺」という言い方を使うと、相手も自然と「おまえ」になり、言葉が荒っぽくなります。「わたし、わたくし」だと「あなた」や「〇〇様」といった風に丁寧な口調に自分の言葉が自然と規定されるのです。
人称代名詞の選択肢を失って、幅のなくなった英語。
Youは本来、目上の人や知らない人に使うべきものだったのに、Thouの消滅のため、Youに本来は伴われていた敬意は一切感じられないですね。
残念な限りです。
そして英語世界で呪文のように繰り返される I love you。
あまりに頻繁に使われているので、まるで挨拶であるかのようにさえ思えてしまうこともあります。
気楽に笑顔で I love youと異性に対して使う人がいますが、そこにはドイツ語の Ich liebe dich やフランス語の Je t'aime のような本当の親密の情はない(とわたしは思います)。
恋人同士の I love you も、言葉だけでは足りないとばかりに、それ以上の親密さをボディコンタクトで示さないといけない。やり過ぎがなんだかよそ目には痛々しい。
英語では本当の愛を語れないのか笑。
シェイクスピアのソネットには深い親愛が込められた人称代名詞として、theeがしばしば用いられました。ここでは有名な第十八番をあげておきます。第百十四番も良いですね。
Theeの復権
というわけで、この親しい間柄だけで使われたというThouを復活させたいなと、個人的には心から思っています。
ドイツ語やフランス語では、DuやTuを親しくない相手に使って失礼になるという場面もあります。ナチスドイツを描いた映画などでは、強制収容所の囚人に刑吏がDu, Duと激しく罵倒しているのを聞くと、心が痛みます。
でも本当に親しい間の中でのDuやTuやThouは、美しい。
古いジェームス王聖書では、Thou art in heaven という表現を至る所で見つけることができます。「天におわします最愛の方」とか「貴方さま」といった感じの親密で非常に親しみを込めた言い方。
日本語では「汝(なんじ、なれ)」という、今では親しみの薄い古風な言葉が訳語に充てられています。
日本語の汝もまた、目下の人に対して使われる言葉なのですが、日本語では神様に対して、こちらから呼びかけるには、なんとなく抵抗を感じます。
日本古来の八百万の神には畏敬が先立って決して「汝」とは呼びかけない。神と人との関係を親子のような関係であるとするキリスト教の神様の特殊さですね。
さて本当に親しい間柄だけでThouがつかわれるのは古い時代での英語ばかりではなく、この言い回しは方言としてしばしば地方には残されていて、スコットランド英語にはよく聞かれるもの。
I love thee
1943年の映画「ラッシー」を見て、
という表現を先日聞いて驚きましたが、スコットランド方言では長らくThouという二人称は廃れないで、20世紀になっても、この表現は失われていなかったそうです。
スコットランドなどの地方は別にしても、現代ではほとんど日常ではシェイクスピア時代の英語は新しい時代の英語に淘汰されてしまっていますよね。特にアメリカ人はこうした表現をほとんど使わないはず。古い英国英語の伝統はアメリカにはほとんど存在しない、多分。
しかしながら、シェイクスピア英語は文語体英語として、アメリカやイギリスの知識人の間では、このtheeは受け継がれ、i love you よりも深い愛の表明の言葉として詩の世界ではいつまでも使われ、愛されています。
モンゴメリ作の「赤毛のアン」では、心の友ダイアナに間違ってお酒を飲ませて、ダイアナの母親に嫌われてお付き合いを禁じられ、別れに臨んで、古風で本式なロマンティックな詩の言葉をアンは語り、次のような言葉をダイアナに告げるのです。
なんとも大袈裟な感じが theeのおかげで醸し出されるのです。
文法構造による詩の違い
19世紀にはTheeはやはりどこかよそよそしくて、古風で大袈裟なものとなっていたのです。赤毛のアンは1880年代の英国植民地時代の仮名だが舞台の物語。
もう少し前の時代のイギリスではどうだったのでしょうか。
特に次の詩はYouでは絶対に成り立たない。
エリザベス・バレット・ブラウニング (1806-1861) のソネット四十三番。
エリザベスは「ピッパが通る」を書いたロバート・ブラウニングの最愛の妻でもあります。
I love theeと言える最愛の伴侶を得られた人は幸いです。
挨拶代わりに I love youと長年連れ添った妻や夫に語る人であるよりも、普段は何も言わないで、時々、I love thee と言える人でいたい。でも叶わぬ願いかも。
愛情を言葉にするとは難しいものです。
日本語においても英語においても。
この詩を日本語に訳してみると、英語と日本語の形容詞句の使い方の違いが明白になります。下に英語の語順そのままによる日本語訳語を示してみます。
Theeは現代日本語で表現するにふさわしい訳語が存在しないので、「あなた」として訳します。時代劇風の「おまえ様」は夫婦間に使われていて良い表現かもしれませんが。Loveは一応「愛してる」としておきます。
明らかに、この訳し方は美しくない。
英語の一語一語を対応する日本語に置き換えているだけだからですが、心の中では英文を読むときにはこんなふうな感じで、わたしは英詩を読んでいます。
この訳文が美しくないのは、日本語の美しい語順を持たないからです。
実際には、わたしは英詩を英語として理解するので、英語の音と英語の詩句において鑑賞するので、これらの言葉はわたしの心を打ち、そして美しく響きます。
日本語に置き換えて理解しようとすると、全くおかしくなるのです。
正しい語順にした日本語に訳すと次のようになります。語順を入れ替えるだけで、翻訳調の理解しづらかった言葉が分かりやすくなるのです。
この詩は以上のように、I love thee to や I love thee withを繰り返してゆきます。
前置詞のToとWithでどれほどに、どんなふうに愛しているかを繋いでゆくのです。形容される内容は文章の後半に続きます。典型的な英詩の形。
I love theeの部分は原詩では大抵、文頭に現れますが、日本語訳だと、必ず最後に来るのです。倒置法を使えば順序は入れ替えられますが、それでは自然な日本語とはいいがたい。
英語においても、形容するフレーズが名詞の前にくることもありますが、ロシア語などのように形容の言葉がどんどん後ろに連なってゆくのがヨーロッパ語らしい美しい姿。
日本語においては、動詞や形容される対象となるものが文の最後に現れるものです。
言語の語順に左右される思考
三好達治の「甃のうへ」は長々とある名詞を彩る情景を描く言葉が連ねられて、最後に体言止めで、この詩で語りたかった対象である石畳が語られます。
ヨーロッパ語ではきっと、春の庭に石畳の美しい情景があると真っ先に述べて、その後に情景の詳細が如何なるものかを描き出してゆく。
ブラウニングの英詩とは詩の構造が明らかに違う。
日本語にもヨーロッパ式に結論を最初に述べることもあるし、ヨーロッパ語にも日本風に最後まで結論がわからないこともありますが、ブラウニングや達治の詩は各々の言語における最も美しい詩の典型なのだとわたしには思えます。
テッドトークに「言語にわれわれの思考は形作られるものなのか」という深い命題を端的に語った素晴らしいプレゼンテーションがありますが、語るべきものを最初に語るか、最後に述べるかも、間違いなく言語の構造によって生み出された思考パターン。
この動画では、オーストラリアのアボリジニの一部族は、左や右という自身を基点とした方角の観念を持たないということが紹介されます。彼らは方向を指す場合には、東西南北の方位を使って表現するというのです。
と問われて、相手は
というのがアボリジニ式。
あの川の右岸の方とは言えないのです。
身近にあるものでも、北東の家とか、東南東の木に、などと表現するのです。ああややこしい(わたしには)。
右や左という言葉、概念がないからです。南南西がどの方角か瞬時に理解できる都会人はほとんどいないはず。
方位を常に意識している生活を送るアボリジニ。太陽基準の人生でしょうか。
こういう人たちは天然の方位磁石のような太陽の位置をいつも意識して暮らしているはずで、時間や季節にもわれわれとは違った鋭敏なセンスを持ち合わせているはずです。
思考は言語の在り方に左右される。数の数え方の概念が違う数多くの民族も知られています。
英語では、11と12は、日本語の十一、つまり10+1や10+2ではなく、Eleven やTwelveという大きな概念であるために (Oneteen, Twoteen, Threeteen=thirteenではない)、英語圏の小学生の中には、このために算数の理解に支障をきたす子供が必ずいます。
10進法ではなく、12進法の名残。かつての大英帝国では1シリングは12ペンスでした。英語の庶民には、ElevenやTwelveのために、この通貨単位が分かりやすかったのです。
英語は数学的な言語ではありません。MillionとかTrillionとか、三桁ごとにコンマを打って数字を区切るのもややこしい。
またカレンダー上の月の名前が数字式でないことはロマンティックでいいのですが、英語圏では、アイデンティティを伝える上で誕生日を伝えるのに、Mayと語ると、店員さんなどは一瞬考えて、May is five (メイという月は五番目)などと言い換えたりする場面によく出会います。コンピュータ画面上の5という数字とメイが同じものであることを確認する必要があるのです。
これも言語が思考をコントロールしている例。
こんな例を英語で日常のほとんどを暮らしているわたしは、いくらでも思い浮かべることが出来ます。
ロベルト・シューマンの美しい歌にもあるように、一年の月の五つめを、5月と呼ぶか、春の女神の名前で呼ぶかで、訪れる季節への思い入れは異なるものです。
「皐月」というやまと言葉は美しいのに、数字の合理性を選んだ近代日本語はこの点では美しくない。
人称語が世界にも稀なほどに豊かな日本語
YouとThouも同様です。
親しい人への呼びかけに違いを持たない英語という言語へのわたしの抱く違和感は間違いなく、「あなた」「おまえ」「君」「貴様」「あんた」などと、状況や相手への思い入れによって言い換えることのできる日本語というわたしの母語の影響。
知らない人に使うYouを、愛する家族にも他人同様に使い続けていて、どこか思いが本当に伝わっていないと思われるのは、わたしばかりではないはずです。
言葉では、本当の思いはどうしても伝えきれないのだなあ、と思う次第なのです。
Theeのない現代英語はどこか寂しい言葉ですね。