長命種族と短命種族(4): 不老不死と人類との共存
浦沢直樹の「Pluto」アニメ版全八話を楽しめたので、浦沢直樹の別のスリラー「Monster」のアニメ版全74話も鑑賞しました。
原作に忠実なアニメ名作でした。2003年の作品。
原作に親しんだのは連載中の2000年頃でした。
随分と前のことで、詳しい内容は忘れていて、新しい作品のようにこの名作を楽しめました。
こうして二十年ぶりに作品に再会すると、主人公のドクターテンマよりも若かったわたしは、今では彼よりも年上で、やはり以前とは別の感銘を作品から得られたのでした。
後の作品であるPlutoの物語との関連性親近性も見いだせて、非常に興味深いアニメ鑑賞になりました。
Monsterで「こんなことはあり得ない」と特筆して語られることが、Plutoのロボットの犯罪者は可能にしていたのでした。
二つの作品の類似性は興味深い。
自身の加齢に合わせて違った読み方観方ができることも魅力です。
カセットテープレコーダーで音声を録音して、ブラウン管型のコンピュータモニターで1.44MBのフロッピーディスクがデータを保存する時代で、コードレスではなかった電話の時代。電話ボックスが普通に街中にあった時代。
わたしが若かった頃のとても懐かしい風景の世界でした。
しかしながら、文明力(インターネットなどの通信や送信技術)が変化しても、人の本質は変わらない。
ここに古い作品を読む価値、観る価値がある。
名作は時代を超えて読み継がれるべき、鑑賞されるべき。
題名のMonster(怪物)とは、人間の心の中に誰でも持っている闇のこと。
その闇を人に覚醒させる育成施設における人体実験(つまり洗脳)が全体主義国家の東ドイツで行われていたという、半分現実で半分架空の世界の物語。
ナチスドイツはアーリア人優秀論を若い世代に教え込んで、ヒトラーユーゲントなど、強度に洗脳された集団を作り上げました。
ソヴィエト軍が攻め込んできたベルリンで最後の最後まで抵抗したのはユーゲントで育てられたエリート少年兵たちでした。
ヒトラーユーゲントのことは手塚治虫の名作「アドルフに告ぐ」に詳しいです。
ナチスはまた、次の世代の育成として、容姿の優れた青い目にブロンドのアーリア人(ドイツ人)を娶せて、優秀なドイツ民族を作り上げるという計画も実際に行わせていました。
身体的に優秀なアーリア人を集めてきて(合法にも非合法にも)同じ場所に住まわせて、ドイツ帝国の将来を担う優秀な人材を人為的に作り出そうとナチスは本気で考えていたのです。
原作には書かれていませんが、Monsterはこうした事実から触発された物語に違いありません。
真実に裏打ちされた嘘ほどに信憑性の高いものはない。
だからMonsterはとてつもなく恐ろしい物語で、戦後も共産圏の東ドイツでは、そういう洗脳教育が続いていたというのが物語の趣旨。
20世紀の東ドイツではオリンピックのためにドーピングが行われていて、強化人間ならぬ強化アスリートが養成されていました。
東ドイツなどの当時の東欧圏がオリンピックで大活躍した所以です。
Monsterの物語の洗脳の内容は、共産主義を発展するにふさわしい歯車となる、機械のように感情を持たない人間を育成するというものでした。
この事実は物語後半まで明かされないのでネタバレですが、もう二十年も前の名作なので、内容はご存じなものとしてお話します。
でもですね、物語はこの事実になかなか辿り着かないので、内容を知っていても、謎解きの過程を楽しめます。
洗脳は、子供たちに愛を与えない教育を共同体の中で施すること。
親から引き離して、思想改造の専門家たちが演じる疑似家族を作らせて、愛のない規律と規則の生活を子供たちに与える。
そういう思想を盛り込んだ絵本を読ませる。
すると、愛を与えられないで成長した子どもは笑わないし、成長しても他人を愛することはできない。
だから虫を殺すかのように罪悪感も抱くことなく人殺しだって平気でできてしまう子供さえも生まれてしまう。
子どもが蟻の行列を蟻を潰して弄ぶように人殺しを楽しめてしまう。
現実世界では、こういう人たちは虐待などの特殊な環境からしか生まれないのだけれども、現代社会でも
いつ死んでも構わない、
他人のことなどどうでもいい、
自分を公正に扱わなかった世間を恨み、
復讐したい、
という人は、限りなくモンスターに近づいてしまう。
連続殺人鬼などと呼ばれる人のほとんどは、失うものは何もない、または失ってはならないものを失って自暴自棄となった人たちです。
だからもう何をしても構わないと嘯く。
こうして「無敵の人」は生まれてしまう。
浦沢直樹のMonsterのヨハンも無敵の人。
でも自分を知っていた人間を全て抹殺することで「完璧な自殺」を行おうとすることから、自分が無条件にどうなってもいいというわけではない。
自分が消えてしまっても構わないという点では同じだけれども、自分を記憶している人間がこの世には残っていてほしくはない。完全に消えてなくなりたい。
彼には自分なりの美学がある。
つまり「無敵の人」が無敵でいられるのは自分大切にしようと思っていない時だけのこと。
死刑の存在意義として、凶悪犯罪の抑制が掲けられることが多いのだけれども、自分が無条件にどうなってもいいと思っている「最強の人」は死刑さえも厭わない。
死刑宣告は抑止力にはならない。
生きていても意味ないと思っているので、自分自身が殺されること、死刑宣告を受けることにも恐怖しない。
愛する人がいないので、愛された経験がないので、他人に共感はできない。
逆に親など、自分をこんなにしてしまったと彼らが考える人たちに対しては、復讐の意味合いを込めて彼らに迷惑をかけるために凶悪犯罪を犯すのです。
Monsterは魔法ファンタジーの体裁を取らない、極めて現実的なスリラーなのだけれども、洗脳された彼らは、怖いもの知らずで死を厭わない、ある種の不老不死みたいなものなのです。
「最強の人」になる不老不死
ダークファンタジーの世界では、不老不死となった人は死ねない苦しみに当初は苦悩しても、やがては不老不死である自分自身をあるがままに受け入れて、新しい生き方を見つけます。
八尾比丘尼のように何度も結婚して人並みの暮らしをそれでも続けてゆこうとする心の美しい人ばかりが世の中にいるわけではありません。
不老不死という究極の肉体を得たならば、それを最大限に利用して、死ぬ定めにある普通の人たちの社会的規範など無視した生き方を選ぶということもごく自然。
弱者である有限の命を持つ相手の命を、それこそ蟻の行列を邪魔する子どものように弄ぶ。
フィクションの世界には、そういう怪物が本当にたくさん存在することは周知のとおり。
代表格ヴァンパイアはまさに「無敵の人」。
人生の退屈を紛らすために人間を弄ぶのです。
自分が殺されることは望まないけれども、同じことを相手にしても罪悪感は抱かない。
人間を食料とするという設定は、彼らが人間を襲うための動機づけのようなもので、襲わなくてはならない理由を与えることで、彼らに憐れみを覚えさせる手段のようにも思えます。
不老不死の怪物になった人には、弱々しい人間なんて虫みたいなもの。
いてもいなくてもどうでもいいものでしょう。
人間が食料ならば、人間が絶滅すれば、やがては自分が困ってしまうので、根絶やしにはできないのかも。
ドラキュラのモデル
ブラム・ストーカー (1847-1912) のゴシックホラー小説「吸血鬼ドラキュラ Dracula」は、異教徒であるトルコ人兵を串刺しにして晒した実在のルーマニアの英雄(ヴラド三世 1431-1476)にインスピレーションを得て生まれたと言われています。
ヴラドは漫画にもなっています。
敵兵に対してあまりに非道な行いをしたヴラドは、後世、敵側の資料から伝えられた残虐性ばかりが語り継がれて、血に飢えた不老不死のドラキュラの原型になったのでした。
敵のオスマントルコ側からすれば、まったく彼は吸血鬼のような存在でしたが、日本の戦国時代の織田信長や豊臣秀吉を知るわたしには、ヴラドが行った残虐行為は信長や秀吉のそれと五十歩百歩なようにも思えるのですが。
ヴラドだけが特筆されるほどに残虐なわけではないでしょう。
為政者は覇権確立のために恐怖政治をときには行う必要があるのですが、よりフィクションの吸血鬼に近いのは「血の伯爵夫人」エリザベート・バートリ(1560‐1614)かもしれません。
ハンガリー人なので、日本の名前のように、姓名の順で名前は記憶されるべきですが、欧米式ではこの順序です。
彼女の伝説、興味のある方はご自分でお調べになってください。
ここでは引用しませんが、彼女の悪魔的な猟奇的殺人を芸術的に映像化したフランス映画「Contes immoraux(英語名:Immoral Tales)」は驚愕すべき映画です。
彼女はハンガリーの貴族でしたが、ハンガリーの大作曲家バルトーク・ベラはグリム童話やペロー童話に採られた残忍な「青髭」の物語をオペラ化しています。
血塗れの青髭の秘密の部屋はバートリを思い出させて仕方がありません。
教養人バルトークが知らなかったはずはないので、オペラ青髭城のイメージはやはり吸血鬼の元ネタのバートリなのでしょう。
オペラ「青髭の城」は名作揃いのバルトークの作品の中でも、最も優れた作品の一つです。極度にホラーな音楽なので何度も聴きたい作品ではありませんが、忘れ難い美しさを持つ名作オペラ。
いずれにせよ、残虐非道で血を欲するという意味で、吸血鬼ほどにフィクションの世界で繰り返し語られるにふさわしい怪物は他にはいません。
そして面白いことにいろんなタイプの吸血鬼が世界には存在しています。
ここからは、そうした不老不死について考察してみます。
最強の怪物である吸血鬼
ヴィクトリア英国文学の元祖ドラキュラは、キリスト教文化を背景に生まれただけに、聖なる十字架が苦手などの特徴があります。悪魔と同一視されているわけです。
新訳が近年になっても出版されるほどに、日本語版のいろんな翻訳があるのは「ドラキュラ」は小説として読んで面白いから。
視覚情報が言葉から伝えられるだけなので、想像力を駆使して読む分、読む人次第ですが、映画よりもずっと恐怖的だと思います。
夜行性で日の光に弱く、食料として血を欲するのですが、処女の血を求めるのも、キリスト教の処女性崇拝のためでしょう。
若鶏や子羊肉が我々にとってジューシーで美味しいように、若い女性の血は捕食者には美味しいのでしょうか。
吸血鬼に人らしい倫理観や愛情が欠けているのは、不老不死なので子孫を作らないから。
後継者が必要なければ、誰のことも愛さないでしょう。
子孫とは自分の分身なので、どんなに利己的な人でも子孫だけはかわいがる。
日本のマンガで最も有名な捕食者型の吸血鬼は、やはり「ジョジョの奇妙な冒険」のディオ・ブランドーでしょうか。
大長編の物語第一部は、やはりヴィクトリア英国から始まります。
コロナ禍が猖獗を極めていた頃に大流行した「鬼滅の刃」も吸血鬼のお話。
不老不死にされた鬼が人ではなくなってしまった悲しみを持ち合わせていることが、この作品の面白さでした。
吸血鬼である鬼の出生の哀しさを描写することで、鬼の哀れさが見事に表現されていました。
敵側の事情を書くことは、近年の探偵小説が殺人犯の犯人に感情移入させるために、犯人側の同情を引くような背景に焦点を当てるのと同じ手法です。
不老不死の哀しい存在である吸血鬼
無敵の不老不死になっても、人類に敵対しないで、彼らから隠れてひっそりと暮らすという吸血鬼もいました。
ひそかに人類の社会に溶け込んでいるタイプの全てが凶悪でないとすれば?
非常に古い漫画ですが、かつて一世を風靡した昭和の少女漫画「ポーの一族」(1972-1976) はそうした物語でした。
人間の社会に溶け込んで、自身の特性を隠して暮らす吸血鬼という図式は、呪われた血統または種族と呼ばれるのに相応しい。
最近の物語で感銘を受けたのは、性的衝動に苦しむ思春期の少年少女の内面世界を描くことに大変に秀でた押見修造の「ハピネス」です。
ネタバレしたくないので、詳細は伏せますが、ゴッホの星月夜のような美術世界における現代日本の不老不死の吸血鬼物語。
グロな表現があり、読み手を選びますが、不老不死になってしまった男子中学生の哀しみと、不老不死の彼を思い続けて寿命を全うして死んでゆく、かつては少女だった女性との関係が心を打ちます。
これも呪われてしまった人間という「ポーの一族」に似た悲しみの物語。
「無敵の人」のような怪物となって人類に敵対しようとはしないで、ひっそりと不老不死を生きてゆく。
きっと不老不死ってそんなものだと思います。
読んで元気にはなれませんが、沈んだ時に同じような暗い世界を共有することで自分一人ではないと思えるような、そんな作品。
作者の代表作の「悪の華」よりも、ずっと好きな作品です。
吸血鬼の物語の存在意義
「ドラえもん」の作者藤子不二雄Fの大人のためのSF短編に「流血鬼」という作品があります。1978年の作品。
体質偏差して吸血鬼になってしまうウイウスが世界的に流行して、普通の人類が少数派になってしまう。
すると少数派の人類は抵抗する。
この物語では新しい体質を得た吸血鬼が新人と呼ばれて、旧人である普通の人間は新人を襲う流血鬼と呼ばれるのですが、旧人は新人という異種を拒み、新人は自分たちと殺し合おうとする旧人を新人にしようとするのです。
短編なので、その後の世界は描かれてはいませんが、とにかく自分とは違う人種とは共存できないのが、ホモ・サピエンスなのだなと思い知らされます。
ちなみに本作品は昨年NHKにおいて作品発表より半世紀を経て実写化されました。
まさに名作は時を超えて、スマホやインターネットのない世界の物語であっても、いつまでも変わることのない人間の真実を伝えてくれる好例です。
肌の色の違い、人種の違い、文化の違い、宗教の違い、性別、世代差、外交的内向的などの特性の違いで、人は他人と一緒にいることに生きづらさを感じる。
不老不死の吸血鬼とならば尚更です。
「亜人ちゃんは語りたい」という、吸血鬼やサキュバスやデュラハンなどのモンスターが特殊体質を持つ人間として世界に溶け込んでいるという世界観の漫画もありましたが、あれはリアルさのないファンタジー。
面白い世界観だけれども、人間の本質は自分とは異なる体質を持つ他者を排除すること。
だからあまりに異人種が平和的に共存しているこの世界、現実味に乏しい真実味のないファンタジーにしかわたしには思えないので、その点は物語に深みが足りないのだけれども、女の子たちは掛け値なしに可愛い。
なので、そういう目的で読むならば名作。
人種体質の違いを超えて誰もが共存できている世界、こういう世界であってほしいという作者の願いが込められているのかもしれませんね。
ちなみに高校生の彼女らは寿命の話などしないようなので、寿命差が存在するのかは不明です。
不老不死の逆説
ヴァンパイアやエルフの物語を読んだり観たりすることに深い意義があるとすれば、自分と同じ価値観を共有できない他者とは人はなかなか生きてゆけないということ。
寿命が違い過ぎれば、同じ人間同士でも自分たちは同じなのだと思えなくなる。
エルフやヴァンパイアというフィクションの不老不死の存在は人の本質を赤裸々に映し出してくれる鏡のような存在ですね。
19世紀英国由来の怪奇小説は、恐怖を読ませるという現代のホラー作品の元祖なのですが、漫画を含めた優れたホラーには人間の悲しさと本質が克明に描き込まれているのだなと改めて発見した次第です。
四回にわたってフィクションの世界に描かれた不老不死を取り上げましたが、これが最終回です。
結論は、不老不死なんて求めないで今ここにある時間を悔いないよう精一杯生きてゆきましょうということでした。
読了ありがとうございました。