もっと評価されて欲しいカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ
音楽の世界には、先祖代々の音楽家としての技術を次の世代へと受け継いでゆく伝統がありました。職業選択の自由が許されてはいなかった近世以前には当たり前のこと。よほどのことがない限り、パン屋の子は親の職業であるパン屋の仕事を継いで、パン焼き職人になり、木こりの子供は木こりになるものでした。
18世紀のクープラン一族やバッハ一族、19世紀まで続いたプッチーニ一族はよく知られていますし、スカルラッティ父子も有名。祖父や父親が音楽家であるベートーヴェンもモーツァルトも音楽家家系出身であると言えるでしょう。
十指に余る音楽家を輩出したバッハ一族
中でもバッハ一族は、音楽の父と称えられるヨハン・セバスチャンを筆頭に、数多くのバッハが音楽史上に知られています。
しかしながら、現代の音楽愛好家に、大バッハ以外のバッハの作品が知られていないのは残念です。
インターネットの無料動画や配信のおかげで、探そうと思えばいくらでも無料で視聴できますが、あまりにも大量の音源に容易にアクセスできるので、何を聞いていいのかも分からないのが現状です。
ですので、わたしの大好きな大バッハの次男で、生前には父親以上の名声を誇ったカール・フィリップ・エマニュエル (1714-1788) を紹介いたしましょう。
ドイツ語風カタカナでは、カール・フィリープ・エマヌエルですが、わたしは英語風で呼び慣れていますので、カール・フィリップとここでは彼を呼びます。
プロイセンのフリードリヒ大王の伴奏者
大バッハが晩年に、長男のフリーデマンを伴って、フリードリヒ大王自身の吹くフルートの鍵盤楽器伴奏者として雇われていた次男のカール・フィリップ・エマニュエルの勤務するプロイセン王の宮殿に招かれ、即興演奏を王より求められた史実はよく知られています。
大バッハの死の3年前の1747年5月7日のことでした。
次のような再現動画も存在します。
とても楽しい動画、フリードリヒ大王に謁見するエピソードは、王に与えられた主題を用いて後に作曲された大傑作「音楽の捧げ物」が書き残されたという事実においても裏付けられています
また楽聖バッハの波瀾万丈とはほど遠い暮らしの中では際立った出来事ですので、別の動画も作られていたりもします。六声のフーガを即興演奏してみよと命じられ、I need preparation「殿下、準備が必要です」と恭しく答える姿は上記の動画よりも真実に近いものであると思われます。
さて、これらの動画で父親の脇に控える脇役カール・フィリップ・エマニュエルの生前における名声は、父のそれを格段に上回るものでした。父バッハは知る人ぞ知る、通好みの作曲家でしたから。彼の名声は限られた音楽愛好家の中だけのものでした。
後世において覆された名声において、現代における知名度は父親の足元にも及ばぬものですが、息子のカール・フィリップは間違いなく18世紀最良の音楽家の一人。
父親を作曲の師として、壮年期の父親の助手なども務めた彼は、父親の楽譜を写譜したりもしました。お陰で若い頃の作曲の一部は父親の作品であるとされていたこともありました。父親に最も親しんだ彼は、音楽家となった四人の息子の中で誰よりも父親を尊敬したのは彼でした。
画家となった息子に父親と同じ名前のヨハン・セバスチャンと名付けたのはカール・フィリップ・エマニュエルだけです。
ヨハン・セバスチャン2世は残念ながら、父よりも早くに亡くなり、息子の死は老いていたカール・フィリップ・エマニュエルを深く悲しませたのでした。
大バッハ作とされた名作フルートソナタ
大バッハの名曲として知られる、フルートと鍵盤楽器またはリュートによって奏でられるシチリアーノは、実はカール・フィリップの作曲。哀愁溢れる単旋律による美しい調べは多声音楽の達人の父には似合いません。
同様に大バッハの作曲整理番号が与えられている、ト短調のフルートソナタも、息子カール・フィリップの作曲。
それぞれ大バッハの作品整理番号BWV1031とBWV1020が与えられています。
でも大バッハの作曲ではないと判明した途端、現代の演奏家たちからレパートリーから外されてしまったのは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第六番などと同じ事情なのです。シチリアーノが含まれた変ホ長調のソナタさえ、バッハのフルートソナタ集というアルバムからしばしば割愛されています。
わたしはフルート奏者ですので、これらの曲は非常に馴染み深いものです。
また、フルート奏者で知らぬ者のいない、カール・フィリップのイ短調の無伴奏フルートソナタは名曲です。こちらは大バッハの息子の作品としてよく知られています。
ジャズになった大傑作ソルフェジエット
というわけで、カール・フィリップの傑作が全く知られていないわけではなかったのですが、一般的にカール・フィリップの知名度は父に比べると非常に劣ります。
そんなカール・フィリップの作品の中で最も知名度の高いのは次の曲。1766年作曲のソルフェジェット Solfeggietto H220、Wq. 117-2。
声楽の練習曲にソルフェージュというものがありますが、これは鍵盤楽器で音階を学ぶための教育目的の楽曲。でもなかなか聞き応え、弾き応えがあるのです。ソルフェージュのように単旋律で、鍵盤上で両手の音が重なる部分がほとんどないというのがユニーク。
後で述べますが、音楽史上においてはカール・フィリップは、バロック音楽の完成者である大バッハと古典主義的音楽の開発者であるハイドンをつなぐ大事な作曲家。
前古典主義などと曖昧な呼称で呼ばれることが多いのですが、カール・フィリップの音楽は、多感主義と呼ばれる音楽のムードが激変するスタイルが際立つ個性的なもの。
別名は疾風怒濤主義。そんなカール・フィリップらしさが全開のこの曲、ピーバップ・ジャズの大ピアニストのバド・パウエル (1924-1966) が録音しています。
後半はカール・フィリップの主題を用いて自由にアドリブしています。知らなければ、パウエル作曲の曲と聴き間違えてもおかしくないというほどの楽曲。ジャズのアクセントを与えるとジャズに聞こえてしまうところがバッハ親子の偉大さ。
バド・パウエルの演奏したソルフィジエットを普通にクラシック的に演奏するとこうなります。11歳のリオ君の演奏でどうぞ。そんなに技術的に難しい音楽ではありません。音階とアルペッジョを楽しく学べる音楽。速弾きすると楽しい。
多感様式 empfindsamer Stil (sensitive style)
このような鍵盤音楽のスタイルは、多感主義と呼ばれて一世を風靡しました。
後年には幻想曲と呼ばれるようになる細かい32分音符が高速で弾かれて、そして対照的な二分音符などか沢山の拍が対比されるような音楽は、それまでにはあまりなかったもので、躁鬱病のように激しく動き回り、また次には瞑想するように音楽が沈静化する。こういうスタイルをカール・フィリップは生涯をかけて探求したのです。
父親ヨハン・セバスチャンの多声音楽とは全く違った世界とも言えるでしょうか。
父バッハにも似た音楽がありますが、この方向性を極めたのが、息子カール・フィリップだったのかもしれません。
リズミカルに規則正しく踊ったりするよりも、劇詩を語るように突然速くなったり、抑揚をつけて遅くなったりする音楽。
異なる楽想やテンポが対比されて劇的世界が展開するのです。19世紀のベートーヴェンやシューマンのような発想の音楽。
名作ヴュルテンブルクソナタ
カール・フィリップの比較的初期音楽のヴュルテンベルク伯に献呈されたソナタなどに、後年のカール・フィリップらしさの萌芽を聴き取ることが出来ます。
グレン・グールドの録音が有名。
リスト弾きとして高名なシフラの録音、ロ短調ソナタも素敵です。
大変な鍵盤楽器の名手と知られたカール・フィリップなのですが、チェンバロではなく、モダンピアノの前身であるクラヴィコードやフォルテピアノをより好んだそうです。
そういうカール・フィリップの鍵盤音楽はもっとモダンピアノで弾かれても良いはずです。
ハイドンへの影響
後に交響曲の父として知られるハイドンは、若かりし日にカールフィリップの鍵盤音楽の楽譜を入手して夢中になって研究したのだと言われています。
ハイドン中期の疾風怒濤時代と呼ばれる短調の交響曲群にはカール・フィリップ的な影響が見て取れます。
激しい楽想とそうでない楽想の対比や歌う旋律と跳躍する音型など、多感主義的。そしてこうした音のドラマは次の世代のヨーゼフ・ハイドンに継承されたのです。
大バッハのブランデンブルク協奏曲やヘンデルの合奏協奏曲を思わせるバロック合奏協奏曲風な交響曲を書いていた若いハイドンは、中期の疾風怒濤な交響曲を書くにあたって、疑いなくカール・フィリップ・エマニュエルを意識していました。
(映画アマデウスの衝撃的な冒頭を飾った、モーツァルトの小ト短調交響曲K.183のモデルとなったハイドンの交響曲第39番ト短調は、カール・フィリップ的な疾風怒濤の音楽)
モーツァルトへの影響
7年戦争を引き起こしてハプスブルク帝国の宿敵となったプロイセン王国の首都ベルリンのバッハ「カール・フィリップ・エマニュエル」は18世紀最大のバッハとして、父親を上回る名声を勝ち得たのでしたが、7年戦争終結後の1767年、大作曲家テレマンが亡くなったためにベルリンを去り、テレマンの住んでいたハンブルクに移り住み「ハンブルクのバッハ」と呼ばれるようになります。
その後も、モーツァルトに大バッハやヘンデルの楽譜を紹介したり、ベートーヴェンに第一交響曲を献呈されるなど、18世紀後半の数多くの作曲家を支援したファン・スヴィーテン男爵や、イギリスの音楽史家チャールズ・バーニーなどといった当時最高の音楽愛好家とも交流しながら、父親を上回る74年にも及ぶ長命を生きたのでした。
モーツァルトの死の年の1791年まで、あと三年という1788年まで生きたカール・フィリップ・エマニュエル。
父の死後には父の遺産である自筆譜を管理したり、たくさんいた兄妹たちを経済的にも支援するなどもした、生涯を音楽に捧げた偉大な人物でした。
幼いモーツァルトがイギリスを訪れた折に、カール・フィリップの弟の大バッハの末子であるヨハン・クリスティアンと会い、大変に影響を受けたことが知られていますが、11歳のヴォルフガングはヨハン・クリスティアンではなく、兄のカールフィリップの鍵盤曲を協奏曲の習作を書くために引用しています。
まずはカール・フィリップの原曲。
そして11歳のモーツァルトのピアノ協奏曲第三番のフィナーレ。練習用におそらく父親のレオポルトから協奏曲を当時の大家と言われた作曲家の作品を編曲することで、モーツァルトは協奏曲を書く練習をしていたのでした。習作であるにも関わらず、秀逸な作品です。
二十七曲も書かれることになる、モーツァルトが得意としたジャンルのピアノ協奏曲もまた、偉大なバッハから始まっているのです。1765年の作曲。
このプレスト、後年のモーツァルト自身の作曲した協奏曲のフィナーレに通じるスピリットを感じさせます。バッハの遺産は、このようにモーツァルトの中にも受け継がれているのです。
1788年まで生きた最後の偉大なバッハ一族の音楽家
ここに紹介したように、わたしの思い浮かべるカール・フィリップの作曲は、悲壮的な曲想の短調な音楽が代表作とされる作品には多いのです。モーツァルトが引用したようなロココ的な音楽も確かに存在します。でも明るく底抜けに能天気なロココな音楽はあまりカール・フィリップらしくない。
わたしの知っているカール・フィリップの楽曲の多くは、暗く激しい情感を求める、革命で王を断頭台に送るような狂気といった18世紀音楽の別の一面を照らし出すようなもの。
ロココ文化を代表するフリードリヒ大王が建てさせたフランス風宮殿サンスーシに長年伺候しながらも、ロココ的な同僚クヴァンツやグラウンとは一線を画したような音楽を作曲し続けたカール・フィリップ。
だからでしょうね。戦場にまで楽器を持っていったというフルート吹きのフリードリヒの宮廷での一番高級取りな音楽家は、フルート教師のクヴァンツであり、伴奏者だったカール・フィリップの給料はクヴァンツの半分にも満たないものだったとか。
前古典主義と呼ばれる大バッハとハイドン円熟期の音楽の時代の間にあった、不当に過小評価されている時代の最良の音楽こそが、大バッハの息子カール・フィリップの音楽であるとわたしには思われるのです。
カール・フィリップの作曲は、鍵盤楽器の作曲において最も高く評価されていますが、父親と異なり、教会音楽家ではなかった彼の声楽を伴う作品はそれほどには多くはありません。
そんなカール・フィリップの宗教音楽としては、ベルリン時代のマニフィカトが特に知られています。この曲もまた、もっと聴かれてほしい音楽です。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。