バッハを未来に伝えたメンデルスゾーンの「お祖母さん」と「大叔母さん」
大作曲家フェリックス・メンデルスゾーンが1829年3月11日に、世間的には全く忘れられていた、大バッハの大作「マタイ受難曲」を百年ぶりに演奏して、バッハを蘇らせたというお話はご存じでしょうか。
「マタイ受難曲」はバッハ畢生の大作。
大規模な作品なので、現代においても生半可な準備では上演はできるものではありません。
たくさんの合唱歌手とソロ歌手と管弦楽団に、大曲を演奏できる会場、そして音楽の全てを理解している音楽監督が必要。
上演を宣伝して観客を呼び込む、協力者たちも不可欠。
メンデルスゾーンは僅か二十歳の年齢にして、たくさんの人たちを動かして、歴史的な復活上演を実現したのでした。
「マタイ受難曲」は、現代では音楽愛好家から全てのクラシック音楽の中の最高傑作にしばしば選ばれるほどの作品なのですが、バッハの生前にライプツィヒの聖トマス教会で数回演奏されて以後、完全にお蔵入りしてしまい、聖トマス教会においても忘れ去られていた作品でした。
「マタイ受難曲」を作曲したバッハという大作曲家を蘇らせたことは西欧音楽史上では最も重要で有名なエピソードのひとつ。
もしご存じないのであれば、知っておいても損はない、偉大なる歴史的事件です。
メンデルスゾーンの名前ばかりが特筆されますが、このように大それた上演は二十歳の青年ひとりの力で成し遂げることができるはずはありませんでした。
若いカリスマ音楽家メンデルスゾーンの周りには、数多くの彼の才能と実力を信じて支えてくれる人がたくさんいたからこそ実現したのです。
忘れられていた過去の巨匠バッハ
18世紀や19世紀の初めまでは、過去の巨匠の音楽を聴いて楽しむという文化は欧州にはなくて、音楽を楽しむとは、現代に生きている作曲家の現代の作品を愉しむことが基本でした。
バッハが世間的には忘れられてしまっていたのはそのためです。
例外はイギリスのヘンデル (George Frideric Handel : 1685-1759)。
死後も記憶されて、作品が上演され続けたのは英国の特殊事情のためでした。
英国は国産の大音楽家には恵まれませんでした。
百年前のクロムウェルの清教徒革命 (1639-1660) が行った文化大革命がそれまでに存在していた音楽文化の伝統を完全に破壊した結果であると考えられています。
それ以来、英国では音楽を外国から輸入する文化を一般的なものにしていたために、ドイツから英国に移住して帰化したヘンデルは、ほぼ唯一の国産大作曲家として、死後も英雄として崇められて演奏され続けたのでした。
しかるにバッハの場合、一般的にはメンデルスゾーンの快挙までは忘れ去られてしまいます。
大バッハを崇拝していた、ほんのごく一部の人たち以外には。
ヴィヴァルディの場合
アントニオ・ヴィヴァルディ (Antonio Vivaldi :1678‐1741)の作品は、20世紀初頭まで、遺産を受け継いだ遺族がある僧院の書庫に百年以上秘匿していたために、20世紀の初めまでほぼ二百年、文字通り忘れ去られていたというのは事実でした。
女子孤児院の司祭をやめて、人気オペラ作曲家となっていた後半生のヴィヴァルディは劇場経営に破綻。
借金取りの催促をかわすために故郷ジェノヴァを着の身着のままで逃げだしたのでしたが、頼りにしていた皇帝レオポルト六世は逝去。
後ろ盾を失ったヴィヴァルディは神聖ローマ帝国の帝都ウィーンで客死します。
モーツァルトがそうであったように、庶民用の共同墓地に葬られて、正確な墓所の場所は分からないまま、忘れ去られてしまい、19世紀から20世紀初頭まで、ほぼすべての人がヴィヴァルディの作品を知らなかったのでした。
ヴィヴァルディ・リヴァイヴァルについては次の本が詳しいです。
なんともスリリングな楽譜の行方を追う推理小説仕立てのノンフィクション。
お勧めです。音楽を知らない人でも楽しめます。
バッハの場合は、ヴィヴァルディとは事情が異なりました。
バッハには、たくさんの息子たちと弟子たちがいたのです。
バッハの息子たちや弟子たちは、バッハが住んでいたザクセン選帝侯国のお隣の新興国プロイセンの音楽狂いのフリードリヒ大王のもとに集います。
王の宮殿は郊外のポツダムにありましたが、プロイセンの首都は現在のベルリン。
いまでこそ、ベルリンは欧州の大国ドイツの首都である巨大都市ですが、18世紀の当時は欧州の中心ウィーンやパリから遠く外れた地方都市の一つでした。
彼らはプロイセンの首都ベルリンにおいて、バッハの作品を伝えてゆくのですが、中にはバッハの作品をこよなく愛した女性たちがいました。
今回は彼女たちの活躍についてのお話です。
バッハを復活させた人として歴史上特筆されている、フェリックス・メンデルスゾーンの「お祖母さん」と「大叔母さん」のお話です。
ベルリンのバッハたちとユダヤ人のお嬢さん
過酷な労働にも不条理な上司の叱責にも負けずに、他界するまでの27年間もの長きにわたり、ライプツィヒ市当局管理下の聖トマス教会の音楽監督を務めたのがヨハン・セバスチャン・バッハ (1685-1750) 。
バッハの務めた聖トーマス教会は全くブラックな職場でした。
あれほどの激務を精力的にこなしていたにもかかわらず、職務怠慢さえも言い渡されたりもしました。一日十数時間の労働も当たり前。
さすがのバッハも市当局を飛び越してザクセンの王様に作品を捧げて待遇を改善してほしいと懇願したりもしましたが、結局のところ、新しい勤務先は見つかることはなく、バッハはブラックな職場で死ぬまで頑張って勤め上げたのでした。
そういう事情にあるためか、ヨハン・セバスチャン・バッハは音楽一族の長として、数多くの息子たちや弟子たちを職業音楽家として育てて、彼らをドイツ各地の教会や宮廷などに就職させてやることに尽力しました。
18世紀は戦争の世紀(張本人は軍事国家プロイセン)で、社会秩序はますます変化し、音楽家一家であっても、職場を世襲させてやれるような時代ではなくなっていたのです。
フリーデマン・バッハとサラ・レヴィ
バッハが最も手塩にかけて育て上げて寵愛した長男ヴィルヘルム・フリーデマン (1710-1784) は、そのような18世紀の理不尽さを誰よりも体現した一生を送った音楽家でした。
ザクセンの首都ドレスデンからプロイセンの大都市ハレの教会に音楽監督として就職するも、不当な理由から懲戒処分を受けたり、叱責されます。
お父さんの死後、親の七光りは失われて、さらには協調性のない性格が災いしてか、次の仕事の当てもないまま、辞職してしまいます。
ハレのフリーデマンは不幸でした。
何度も求人広告に申し込むも、思わしい返事を得られませんでした。
父親の遺産である楽譜を売るなどして、糊口をしのぎます。
おかげでかけがえのない大バッハの作品の多くが散逸してしまいます。バッハのカンタータ作品の多くが失われてしまったのは、フリーデマンのためなのです。
おかげで歴史的に不肖の息子のレッテルを張られて二百年になります。
やがてはプロシアのフリードリヒ大王 (1712-1786) の妹であるアンナ・アマリア皇女 (1723-1787) に拾われます。
フリーデマンは父親譲りの対位法と即興演奏の大家として知られていましたが、そんな作風が古楽をこよなく愛する皇女の趣味に合っていたのです。
弟のカール・フィリップ・エマニュエルが兄のフリードリヒ大王に仕えていて、大バッハの弟子アグリコラやキルンベルガーなどもベルリンにいました。
バッハに影響を受けた音楽家たちがバッハの音楽をプロシア宮廷に伝えていたのでした。
そういう縁のためにフリーデマンはベルリンに移住。
1774年のことです。
フリーデマンは感謝の意を込めてフーガ集を作曲して皇女に献呈します。
八曲の中の悲壮感あふれる「ヘ短調」は、のちにモーツァルトがフーガ技法習得のために弦楽三重奏曲に編曲することになる名作です。
K.404aの第六曲です。
なのですが、皇女付き宮廷楽長キルンベルガー(やはりバッハの弟子)はそのようなフリーデマンを自身の地位を脅かす存在であると恐れたらしく、献呈の後、皇女からの援助を絶たれてしまいます。
世の中、うまくゆかないものです。
キルンベルガーは大バッハを誰よりも尊敬していて、もちろんフリーデマンのこともよく知っていましたが、宮廷楽長の地位はひとつだけ。
仕方がないので、個人教授で生計を立てなくてはならなくなりますが、幸運なことに、ユダヤ人銀行家一族の令嬢サラ・イツィヒ(1761-1854: 結婚後はレヴィ)とベラ・イツィヒ (1749-1824: サロモン) の姉妹にチェンバロ演奏を教えることになります。サラは当時13歳。
イツィヒ家は、大バッハの音楽を崇拝するほどに古い時代の音楽を愛する一家でした。
十年もの間、作曲やチェンバロ演奏など、自身が持てる音楽的知識の全てをサラに与えたのち、ヴィルヘルム・フリーデマンは他界します。
フリーデマンは実力に見合った世間的な地位を得られずに貧困の中で死んで行きましたが、サラに出会えたことで、あまりにも満たされることがなかったフリーデマンの人生は報われたのでしょうか。
可能な限りの最良の教育を子供たちに与えるというユダヤ人の伝統ゆえに、サラは、大バッハから音楽的英才教育を受けたヴィルヘルム・フリーデマンのおかげで偉大な音楽家へと成長したのでした。
フリーデマン仕込みの優れたチェンバロ演奏家であるサラは、当時はほとんど忘れ去られていた大バッハの音楽を、彼女が定期的に開いていた音楽サロンで好んで演奏します。
サラの開いたサロンは、古い巨匠の音楽を演奏し合う非常に特殊な音楽仲間の演奏会場となったのでした。
1789年にベルリンを訪れたモーツァルトは、サラに面会を求めて会見しています。
モーツァルトのベルリン旅行は実りのない悲しい旅でした。伝記を読んでいても、たいていはモーツァルトの人生のどん底の時代として描写されます。
プロシア皇女フリーデリケのためにピアノソナタの作曲依頼を受けたとか、締め出しを喰らった事実を隠すために奥さんに嘘をついたり、チェロを弾く王様のためにチェロが活躍する弦楽四重奏曲を書いてもお金にならず、王様のチェロ教師のデュポールに媚びを売ろうとデュポールの主題で変奏曲を書いたり。
サラもまた、借金まみれでうらぶれた落ち目のモーツァルトに手を貸すようなことはしなかった模様です。
ナポレオン全盛時代の1808年には、大バッハの忘れ去られていた「ブランデンブルク協奏曲第五番」の公開演奏を行って、チェンバロ・ソロを演じています。
1808年といえば、ウィーンでベートーヴェンが交響曲第五番「運命」と第六番「田園」を初演して、ピアノ三重奏曲第五番「幽霊」を書いていた頃。
チェンバロという旧式な楽器をベートーヴェンがもはや相手にしなくなっていた時代に、ベルリンのサラ・レヴィはなおもチェンバロを弾いていたのでした。
彼女が大バッハをいつまでも偏愛していたのも頷けるわけです。
ベラ・サロモンに影響を与えたアンナ・アマリア皇女
サラの姉であるベラ・サロモンもまた、バッハの音楽を偏愛しました。
フリーデマンにレッスンを受ける以前に、ベラはバッハの弟子キルンベルガーからも音楽教育を与えられていた音楽的素養の備わった女性でした。
裕福なサラとベラの一家は大家族で数多くの兄弟がいたのですが、特に音楽好きだった二人は、結婚後も精力的に音楽活動を続けて、ベラの場合は主に鑑賞することを愉しみ、バッハを含めた古い時代の音楽の収集家となります。
収集家ベラには模範となるべき存在がいました。上述のフリードリヒ大王の妹である皇女アンナ・アマリアです。
アンナ・アマリア皇女 (1723-1787) は兵隊王として知られるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(1688‐1740)の末娘でした。
後継者の息子フリードリヒや長女ヴィルヘルミーネの音楽愛好を邪魔して虐待した父王は、幸いにも(?)アンナ・アマリアが17歳の時に崩御。
兄フリードリヒが国王となり、アンナ・アマリアは晴れて楽器を習うことができるようになります。17歳の時のこと。
幼少時から音楽教育を受けてこなかったことは、のちに作曲家として知られる人物には珍しい。
それ以来、兄である国王の援助のもとで生きてゆきますが、1755年には中世来の由緒正しいクヴェードリンブルク修道院の院長となり、経済的に兄から独立。
兄に依存しなくてもよくなった皇女は大バッハの高弟のキルンベルガーを皇女付き宮廷楽長として雇い入れます。こうしてアンナ・アマリアは音楽に人生を捧げる生涯を送るのでした。普段の住まいはベルリンのままで。
修道院長なので生涯独身でした。
アンナ・アマリアは、オペラさえも作曲した楽才ある姉ヴィルヘルミーネを模範にして作曲も行いましたが、バッハの薫陶を受けたキルンベルガー仕込みだったためか、時代遅れな古楽をこよなく愛するという不思議な音楽文化を彼女の宮廷に作り上げるのでした。
膨大な量の古い時代の音楽を収集し、のちのベルリン音楽院(Berlin Singakademie)に通じる王立図書館の礎を築くのです。
カール・フィリップ・エマニュエル (1714-1988) の死後には、彼が管理していた父ヨハンセバスチャンの音楽的遺産が競売などの紆余曲折を経て、王立図書館に収められることになります。
バッハの遺した未出版楽譜のほとんどは、このようにしてベルリンに集まったのでした。
フリードリヒ二世(大王)そして大王の甥の後継者フリードリヒ・ヴィルヘルム二世治下のベルリンでは、モーツァルトやハイドンが活躍していた帝都ウィーンとは全く異なる音楽文化が育まれていたというわけです。
バッハの音楽は決して忘れ去られていたわけではなかったのです。少なくとも、バッハの弟子や息子たちの影響を多大に受けていた、アンナ・アマリア皇女の宮廷や、サラとベラ姉妹のサロンにおいては。
ベラ・サロモン、メンデルスゾーンの祖母になる
1809年には、同じく裕福なユダヤ人銀行家メンデルスゾーン家に嫁いでいた、ベラ・サロマンの娘レアが男の子を出産。
フェリックス・メンデルスゾーンの誕生です。
こうして、ベラはフェリックスの祖母に、サラは大叔母になります。
フェリックスと姉のファニーにもまた、ベラやサラ同様に、最高の家庭教師によって、最高のユダヤ的教育が与えられます。
経典の民ユダヤ人の伝統的な教育方針は特筆に値します。
ユダヤ式教育の基本は経典(旧約聖書)の丸暗記。
江戸時代の教養人が論語などの漢文古典を諳んじたことに通じます。全ての子供にあうわけではありませんが、優秀な知性を持った子供には、最適な英才教育です。
フェリックスは母国語のドイツ語の他にも、ラテン語や英語、フランス語など、数か国語を完璧に喋り、乗馬や水泳も得意、絵筆をとってはプロ顔負けの文武両道の天才少年でした。
メンデルスゾーンの師ツェルター
フェリックスに作曲を教えた音楽教師は作曲家カール・ツェルター(Carl Friedrich Zelter :1758-1832) でした。
大文豪ゲーテとも知り合いだったツェルターは、自分よりも遥かに音楽的才能を持った、僅か九歳の子供の弟子をゲーテに紹介して、フェリックス少年は老ゲーテに大変に可愛がられることになります。
フェリックス少年は老ゲーテに、ベートーヴェンの交響曲第五番を「ピアノで」演奏して、聴かせています。
初めて聴いた、例の「ダダダダーン」という第一楽章の過激さに、ゲーテが大変に動揺したことが、ゲーテの言動を記録したエッカーマンの言葉として伝えられています。
ツェルターはベルリン音楽院の院長として優れた教育者でした。
古いバッハの音楽をこよなく愛していたのは、アンナ・アマリア皇女が充実させた音楽院に収められたバッハの楽譜に容易に近づくことができたからでしょうか。
ツェルターは音楽院においてバッハの音楽を精力的に演奏。弟子メンデルスゾーンにもバッハを教え込みます。
バッハの声楽曲を歌う合唱団を組織していたツェルターは、フェリックスやファニーも合唱団に参加させます。大叔母サラも合唱団を後援します。
のちの大作曲家メンデルスゾーンの古典主義的嗜好はこのように養われたわけです。
したがって、メンデルスゾーンは初期ロマン主義の作曲家なのに、非常に古典的な形式を重んじる作曲家となります。
フェリックスは子どものころから、大バッハやバッハの息子たちの作品をツェルター先生やサラ大叔母さんやベラお祖母さんを通じて親しんでいたわけです。
ツェルターは今ではほとんど忘れ去られた作曲家ですが、わたしはドイツ・リートが好きなので、不世出の大バリトン・ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの歌った彼の歌に親しみを持っています。
個人的に親交を持っていたためか、ゲーテの詩に作曲したものが多いです。シューベルトが同じ詩に作曲したものと比べると面白い。
ゲーテはシューベルトのあまりに美しすぎる音楽が詩の魅力さえも凌駕してしまうような印象を得たために、シューベルトの歌曲を認めませんでしたが、ツェルターの歌曲は音楽的には凡庸で、詩が主役となる歌。
きっとゲーテ先生はこれらの歌曲を好んだことでしょう。
ゲーテ「ファウスト」第一部の有名な「トゥーレの王」はなかなかの名曲。シューベルトやグノーの名作にも劣るものではありません。
「トゥーレの王」のことはこちらで以前言及しました。ご参考までに。
おばあちゃんからの誕生日プレゼント!
さらにメンデルスゾーンとバッハを繋ぐ系譜があります。
メンデルスゾーンの父方の祖父であるユダヤ神学者モーゼスもまた、バッハの弟子キルンベルガーの弟子だったのです。つまり孫弟子です。
フリーデマンを退けたキルンベルガーには、たくさんの弟子がいたのです。
このように、バッハの大曲を復活させる土壌がメンデルスゾーン少年の周りにしっかりと培われていたからこそ、歴史的快挙は可能だったのです。
歴史的快挙は起こるべくして起こったといえるでしょう。
しかしながら、「ローマは一日にしてならず」といいますが「マタイ受難曲蘇演も一日にしてならず」。
ここでフェリックスのおばあちゃん登場。
バッハの音楽が好きということで通じ合っていた孫と祖母。
1824年(または1823年)、15歳になったフェリックス・メンデルスゾーンは、バッハ大好きなベラおばあちゃん (1749-1824) から特別なプレゼントをもらうのでした(おそらく誕生日祝い)。
それが大バッハの大作「マタイ受難曲」の全曲譜のコピーだったのです。
プロシア王室図書館には大バッハの世界で唯一の楽譜が数多く収められていたのでしたが、誰でもアクセスできたわけではありませんでした。
全曲譜を入手していたというのは、収集家であるベラさんの楽譜収集への熱い情熱の賜物でしょう。
出版されていないので、印刷されていません。
全て手書きで、美しく浄書された写譜。
おそらく、ベラさんは孫のために特別な写本を作らせたのでは。とても素敵な筆記体。
メンデルスゾーン少年は合唱団でツェルター先生の選んだ「マタイ受難曲」のいくつかは歌ったことがあったようなのでしたが、全曲譜を見たのは初めてのことだったことでしょう。
孫はおばあちゃんの贈り物にどれほどに驚き、そして喜んだことでしょうか。
きっと祖母のコレクションの貴重さを理解していたであろう、15歳のメンデルスゾーンは、いつの日か、三時間も上演に時間がかかるという大曲を上演しようと心に誓うのでした。
しかしながら、これまで私が以前の投稿で書いてきたように、バロック音楽の楽譜には表情記号が皆無。
フォルテもピアノもクレシェンドも何も書かれていないのでした。その他のアーティキュレーションなど、当時の演奏方法や修辞法や演奏慣習は書かれていないのです。
つまり、そのままでは上演不可能。
バロック音楽は、楽譜に書かれていない演奏上の決まりを知っていて、それて初めて演奏できるものなのです。
百年も昔のバロック時代の演奏方法はすでに失われていたために、ツェルター先生の手を借りても、上演のために長大な楽譜を校訂することは大変な作業でした。
またオーボエ・ダモーレというバロック楽器は、クラリネットと取り換えられることになります。
メンデルスゾーン版はクラリネット入りの「マタイ受難曲」なのでした。
モーツァルト版ヘンデルの「メサイア」も同様の方法で編曲がなされていましたが、メンデルスゾーンはモーツァルトの編曲を知っていたでしょうか。
でもこうした地道な努力を続けることができたことが大天才メンデルスゾーンの面目躍如たるところ。
天賦の才をさらに育てることのできる、努力できる才能を持っていることが天才の証です。
17歳で「夏の世の夢」序曲や弦楽八重奏曲のような、19世紀音楽史上に燦然と輝くような名作を書きあげた早熟な才能は、伊達ではないのです。
やがて足掛け五年もかけて、十代のメンデルスゾーンは楽譜を19世紀のロマン派の時代にふさわしい楽譜へと書き換えます。
こうしてツェルター先生の助けも得て、弱冠二十歳のメンデルスゾーンは、大幅なカットを加えて二時間ほどの上演時間に短縮した楽譜を完成させたのです。
十九世紀に復活した、十八世紀のバッハの大傑作
弟子の才能が遥かに自分を上回っていることを認めていたために、完全に補佐にまわった謙虚な院長先生ツェルターの全面協力のもと、150人から200人にも及ぶ大合唱団を二つに分けて、プロとアマチュアの混成管弦楽団を鍛え上げます。もちろんベルリン音楽院のリソースの全てを大活用して。
公演内容は事前に広く伝えられて、上演当日、欧州中から集まった満場の聴衆を前にして、メンデルスゾーンはバッハ時代のチェンバロではなく、ピアノ(フォルテピアノ)を使って弾き振り。
ロマンティック様式によるバッハの畢生の大作の百年ぶりの再演は、空前の大成功を収めたのでした。
聴衆は音楽のあまりのすばらしさに感動したと同時に、これほどに偉大な音楽を書いた作曲家が過去に存在したということが現在では知られてはいなかったという事実にショックを受けたのでした。
シュペリングによる録音
メンデルスゾーンは1835年にライプツィヒに移住。1841年に「マタイ受難曲」をバッハゆかりの聖トマス教会で再演。
教会の前にバッハを顕彰する銅像(記念碑)を建てるための慈善演奏会のためでした。
二度目の上演のために、メンデルスゾーンは独自の解釈を込めたメンデススゾーン版「マタイ受難曲」の楽譜を新たに作成。
メンデルスゾーン版の楽譜は1992年にクリストフ・シュペリング (1959-) によって演奏されて、録音が作られています。
バッハはオリジナル楽器で演奏することが「正義」という風潮の中での画期的な録音でした、
バッハのオリジナルになじんでいる耳にはとても興味深い録音です。
いろいろと楽器編成のバランスが異なり、福音史家の語りがいろいろと変更されています。
よほどマタイ受難曲に親しんでいないと違いは分からないかもしれませんが、古楽器演奏に比べると、テンポがずっと遅くて、とてもロマンティック。
第二部の「憐れみたまえ」。
この録音からは、どのようにメンデルスゾーンがロマン派時代の聴衆にバロック音楽を演奏して見せたのかが如実に理解できるのです。
しかしながら、サラお祖母さんは孫フェリックスが演奏する「マタイ受難曲」を聴くことは叶いませんでした。
彼女は1824年3月9日に亡くなっていたのです。
おそらくフェリックスにバッハの楽譜を贈ってしばらくのちのこと。
孫にバッハの楽譜を与えたのは1823年か1824年なのか、定かではないのですが、彼女が孫に与えた最後のプレゼントの一つだったことでしょう。
未来のために年老いた人ができる最良のことは、若い人たちに大切な何かを贈ることなのだと思います。
これからの世に伝え続けてほしいと願って、忘れられようとしている過去の偉大な巨匠ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽を音楽の天才である孫の手に委ねたのです
美しい行為だと思います。
メンデルスゾーンのキリスト教改宗
キリスト教のエッセンスとも、新約聖書のクライマックスともいえる、最も大事なキリスト復活の場面が「マタイ受難曲」に全く含まれていないのは、聖金曜日のためのキリストの死を悲しむための音楽だからです(復活のお祝いは日曜日に)。
なのですが、メンデルスゾーン家は本来はユダヤ教徒のユダヤ人。
しかもフェリックスの祖父(父方)のモーゼスは、歴史に名を遺した、高名なユダヤ教神学者でした。
つまり筋金入りのユダヤ教徒。
ユダヤ人生まれのメンデルスゾーンがキリスト教の音楽をこれほど精力的に復活させようとしたことは、ナザレのイエスを救世主として認めない立場のユダヤ教徒には全くおかしなことなのですが、メンデルスゾーン家の子供たちはじつはフェリックスが7歳になったころの1816年にルター派キリスト教に改宗していたのです。
父アブラハムがキリスト教改宗を選んだのは、やはりユダヤ人であることはキリスト教社会で生きてゆくには苦しいからだったといわれています。
メンデルスゾーンはその後、キリスト教に歌詞集下にもかかわらず、キリスト社会においては元ユダヤ教徒として、さまざまな差別に直面することになります。
メンデルスゾーンのバッハ再演への情熱は、自身はキリスト教徒であると公に知らしめる目的があったことも忘れてはいけません。
そののち、バッハに深い影響を受けたメンデルスゾーンは生涯を通じてオラトリオの作曲に情熱を注ぎます。
メンデルスゾーンの遺作は、新約聖書に基づくオラトリオ「キリスト」作品97でした。
「キリスト降臨・キリスト受難・キリスト復活」という三部作となるべき大作でしたが、第一部と第二部の部分だけしか作曲できませんでした。
メンデルスゾーンは「キリスト教徒として」、僅か38歳で他界します。
しかしながら、それにもかかわらず、1847年のメンデルスゾーンの死後、ユダヤ嫌いのリヒャルト・ヴァーグナーはメンデルスゾーンのユダヤ性(こじつけと誹謗中傷)を攻撃する論文を書き、反ユダヤの20世紀のナチス・ドイツはメンデルスゾーン作品の上演を禁止するのでした。
何はともあれ、メンデルスゾーンは大バッハの音楽を19世紀ロマン派の時代に復活させて、ショパンやリストやシューマンやブラームスなどのバッハ愛好家をたくさん生み出させる原動力となったのでした。
あまりに古典音楽への教養がありすぎて、音楽が格式張りすぎることが玉に瑕なメンデルスゾーンなのですが(フランスのサン=サーンスと同じです)わたしのように古典形式的な音楽が大好きな愛好家には、形式にとらわれすぎるという欠点も含めて、メンデルスゾーンは最愛の作曲家です(わたしはソナタ形式が大好きなのです)。
メンデルスゾーンの音楽
メンデルスゾーン作曲の音楽のことは以前にも書きました。もしよろしければ以下の投稿をお読みになってください。
スコットランド交響曲と歌曲「歌の翼に」について。
そして「夏の世の夢」の劇伴音楽を含めて、シェイクスピア喜劇の魅力について書いた記事。
バッハのような厳格な形式を重んじたロマン主義者、フェリックス・メンデルスゾーン。
そんな彼だからこそ、バッハを蘇らせることができたのでした。
でも彼の偉業も彼一人の力で成し遂げられたものではありませんでした。
メンデルスゾーンに、よいお祖母さんと大叔母さんがいてくれてよかった!
いつの時代にも、最良のSDGs = Sustainable Development Goals は、これから育ってゆく若い世代のために実りある贈り物をすることです。
才能ある若者への教育的(経済的)援助。
わたしもベラおばあさんのように、これからの未来を担う、前途洋々たる若者の人生を変えるような贈り物をしてみたい。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。