アニメになった児童文学から見えてくる世界<11>:心の闇を描く「わたしのアンネット」
1983年(昭和58年)の世界名作劇場作品「アルプス物語・私のアンネット」。
子供の頃にテレビ放送で毎年続けて見ていた世界名作劇場だったのですが、この作品は当時は途中から興味を失ってしまい、最後まで見ることができなかったものでした。2022年になってインターネットで39年ぶりに見ることができました。
ちなみにアンネットという名前、英語版原作ではAnneteで、英語圏ではよく知られたアネットという名前。アンネットの舞台となるスイスのロシニエール村や大都市ローザンヌはフランス語圏ですが、ドイツ語風だと確かにアンネットですね。
「アルプス物語・私のアンネット」
当時はテレビ全盛時代で、日本中の子供が一日に何時間もテレビを見ていたものでした。バブルと呼ばれる異常な好景気が始まる少し前のことです。
人気テレビ番組を見ていないと次の日には学校で話題の輪の中に入ってゆけなくなるようなこともあり、社会全体に共有される情報というものがあったのです。子供たちにとってのアニメはそういったものでした。
もう40年も前もことになり、全く隔世の感がありますが、「アルプス物語・私のアンネット」(以下「アンネット」)は毎年放映されていた世界名作劇場としては一風変わった作品でした。
原作「雪のたから・Treasures of the Snow」は、英語圏のキリスト教徒の間でよく読まれていたキリスト教児童文学。スイスが舞台ですが、キリスト教宣教師である作者が以前住んだことのあった場所がスイスだったのです。
こういう宗教色の強い作品が選ばれたのは驚きですが、信仰の有無を別にしても優れた児童文学です。
奇しくもアニメと同じ1983年に実写映画が制作されています。日本化されたアニメ版とは相当に異なる、より原作に忠実な映画です。数多くのYouTube視聴者さんは絶賛していますので、英語版ですが、ぜひご覧になってください。144分全て無料で鑑賞できます。
スイス人ヨハンナ・シュピリの「ハイジ」も同様にキリスト教文学要素が非常に濃厚で、やはり罪と許しというキリスト教メッセージが込められていたのですが、アニメ版では、原作における嫉妬に駆られてクララの車椅子を壊してしまうピーターのエピソードが完全に削除されています。ピーターは後に全てを告白して許されるのです。
子供アニメで描かれる罪と赦し
そのためでしょうか。「アンネット」では「罪と許し」こそが作品の核として物語られていて、心の闇とどう向き合うかがメインテーマ。
罪を犯した十二歳の少年ルシエンは良心の呵責に苦しめられて、心から赦しを請いますが、少年が衝動的に大怪我を負わせてしまった五歳のダニーの姉ルシエンの同級生のアンネットは、ルシエンを決して許しません。
しかしながら、歩行不可能となったアンネットの幼い弟への愛はルシエンへの激しい憎悪へと変わります。負の感情は復讐心となって、今度は逆にルシエンが全身全霊を込めて創作した馬の木彫りの作品を故意に壊してしまうのです。
今度はアンネットが罪の意識に慄く番となり、誰もが罪を犯してしまうことを悟ります。
物語の後半には、ルシエンの命がけの行動が贖罪へとつながり、大団円を迎えますが、ここまで書いたように、アンネットは他の世界名作劇場のヒロインたちとは相当違うのです。
大きな不幸を背負って生きる他のヒロインたち(セーラ、カトリ、ポリアンナなど)が苦しむのは、必ずしも自分が悪かったわけでもない。身に降りかかった不幸は他人の意地悪や運命の不運によるもので、本人にはほとんど何の過失もないのです。
セーラやカトリやポリアンナは運命とけなげに戦い、耐えて乗り越えるのですが、アンネットは自分自身の犯した過ちと向き合うという過酷な試練が与えられるのです。
しかしながら、アンネットこそが等身大の普通の女の子なのだと私には思えます。セーラやカトリやポリアンナは、どんな世界でも優等生で模範生になれる、類まれなる優秀な子供たち。
でもアンネットはそんな風には描かれていない。少し気の強い、当たり前の女の子。
だから心の闇の問題を赤裸々に描き出す「わたしのアンネット」は子供のころには怖かったのかもしれません。自分自身の心の奥が映し出されているようなのです。
テレビでは放映されなかった主題歌歌詞の二番はこのようなもの。作品の本質を言い当てていると言えるのでは。
等身大の少年と少女
忍耐強いセーラには視聴者は応援して、彼女をいじめるラヴィニアやミンチン先生にブーイングすることができます。一生懸命なカトリやポリアンナにも、周りにいる善意の人たちのように支えてあげたくなります。
でも「アンネット」で描かれる内面の葛藤。ルシエンやアンネットの苦しみを観て、視聴者はどれほどに共感したのでしょうか?
見ていて辛くなるのは、主人公が理不尽にいじめられるからではなく、シェイクスピア悲劇の主人公たちのように、自身が撒いた種から生まれた悲劇を苦しむからです。26作あると言われている世界名作劇場で、こういう作品は他にはありません。
「アンネット」を観ていて、彼女と暮らす信仰深いクロードおばあさんの言葉がは、まるで名言集から取られた深い言葉ばかりです。
素敵な言葉は他にもたくさんあります。キリスト教的な言葉というよりも、もっと普遍的な人生の知恵のような人生の真理をついた言葉。こういう言葉は他の作品ではなかなか出会えなかったものです。
「クラウス」に込められた想い
あと注目したいのは、ダニーがクリスマスの日に雪の降る中に外に置いておいた靴の中で見つけたオコジョ(イタチの仲間)の赤ちゃん。
原作にも書かれているエピソードで、世界名作劇場の多くでは必ず主人公か主人公に準じる人物がペットを飼うのが決まりのようですが、ダニーが見つけるクリスマスプレゼントの「クラウス」の存在は作者によって意図されたもの。
実は原作では白い子猫なのですが、オコジョへの変更は日本独自解釈。でもどうしてオコジョなのか?
オコジョは日本にも生息するそうです。毛皮のコートのために乱獲されたミンクなどと同じイタチの仲間。素晴らしい毛皮を持ち、日本の一部の山に生息するオコジョは保護動物に指定されています。ペットとして飼うことは法律で許されてはいません。
アニメでも飼いならすのは難しいと語られますが、調べてみると、歴史的にペットとして飼われることもしばしばあったそうで、泰西名画には何度もオコジョは登場します。
ご存知のように、欧州の名画の多くは寓話性を持ち、あるオブジェクトが書き込まれると、必ず象徴的な意味合いを持つのです。
オコジョは英語ではErmineと呼ばれ、有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画や英国女王エリザベス一世の肖像画の中に見つけることができます。
英国の処女王エリザベスにも寄り添います。1585年のニコラス・ヒラードの描いた肖像画。こちらのオコジョの大きさは現実的。女王様用のコートを作るには、何頭のオコジョを犠牲にしないといけないのでしょうか。
「アンネット」にオコジョが登場することは、どこか象徴的です。
「ロミオの青い空」のオコジョ
アニメでは原作にはないペットをしばしば演出上登場させるのですが、1997年放送の「ロミオの青い空」のピッコロは「アンネット」同様にオコジョ!。
「ロミオ」原作の「黒い兄弟」には主人公にはペットはいません。アニメ版の創作ですがオコジョの持つ象徴的な意味合いは意図されたものでしょうか。
ダニーやロミオに寄り添うオコジョたちは、やはり少年たちの心の純潔の象徴なのかもしれません。
アンネットの弟のダニーは母親のいない5歳児としては非常に聴き分けがよく、本当に良い子なのです。心の闇を抱えるアンネットやルシエンと非常に対照的。
ロミオもまた、現代においては児童虐待にあたるような過酷な煙突掃除の仕事に従事しながらも、決して心は汚れず、犯罪にも手を染めず、人に対して悪意を持たぬ善意の塊のような少年。
ルシエンとは真逆な、現実離れした良い子のロミオやダニーの傍らにオコジョがいつも一緒にいることは当然のことでしょうか。
完全なる善の存在のセーラの勧善懲悪物語や、努力家カトリの成功譚は見ていて本当に面白いものです。「赤毛のアン」のアンや「ペリーヌ物語」のペリーヌもカトリに似ています。
前半部でルシエンとアンネットは本当に「喧嘩するほど仲がよい」友達同士。でもだからこそ、物語の大半を占める仲たがいしている頃の中盤のエピソードは見ていて辛くなる。
ペギン爺さんという、傷ついた心のルシエンを支える隠遁生活を送る老人が登場しますが、ペギン爺さんの回心物語は、「ハイジ」のアルム爺の感動的なハイジ帰還による回心のように劇的ではありません。ほんとうに辛く長い旅なのです。
現代にこそ観られるべきアニメ
ウィキペディアの「アンネット」の項目に面白いものを見つけました。
子供アニメとしては非常に深刻な要素を含んだ「アンネット」は放送時にはあまり人気のない作品だったそうです。当然でしょうか。楠葉監督は、アンネット放映より数十年後の21世紀を「希望のない現代」と表現しています。
ウィキペディアで見つけた言葉を読んで考えさせられました。「アンネット」が本当に現代にこそふさわしいアニメなのでしたら、是非とも出来る限り多くの方に見て頂きたいです。