もっと知られるべき古典的名作:ファニー・ヘンゼル(メンデルスゾーン)の序曲ハ長調

二か月もかけてじっくりと読んでいたラリー・トッド著『ファニー・ヘンゼル:もう一人のメンデルスゾーン』(英語・邦訳なし)をようやく読了。大変な労作で、作曲家ファニー・ヘンゼル(フェリックス・メンデルスゾーンの姉)の生涯と作品の素晴らしさに圧倒されました。

女性であるがために芸術家としての社会活動に制約され、欧州有数の大資産家の令嬢であるがために、社会的に出版して作曲家として高名になることは許されなかったファニーだけれども、ベルリンの全ての文化人に知られた欧州最大の日曜サロンを作り上げて、自分や弟フェリックスの現代作品、バッハやモーツァルトなどの知られざる古典音楽を演奏して、アマチュアであるにもかかわらず、彼女の音楽活動は間違いなく、欧州一と呼んでも差し支えないものでした。

伝記の冒頭にも少し書かれていたことですが、彼女の僅か42年の生涯は、19世紀という激動の時代を大きく二分する分水嶺である1848年の革命の一年前に終わっています。

音楽史に親しい人は前期ロマン派、後期ロマン派という区分を知っていると思いますが、その境目は王政を崩壊させて共和制を生み出した2月革命です。フランスの2月革命は国境を越えて全欧州の在り方を変えました。社会的に抑圧されていて現実逃避していた個人はロマンティックな幻想に耽り、非現実な崇高や理想の世界を愛してやみませんでしたが、革命ののちには現実主義的な国民主義が文化的に台頭して、ヴェルディの愛国オペラやヴァーグナーの国粋主義が芸術創作の世界を支配するようになります。

この極端な文化区分は、日本史の明治維新や太平洋戦争敗戦の前と後では文化思潮が全く変わってしまったことにも似ています(昭和後期から平成令和では文化的な差異は未だ見られません。大きな社会変化に乏しいからです。緩やかな変化ばかりで平成令和日本は文化的に停滞しています)。

メンデルスゾーン姉弟が死んだ翌年、生き残ったショパンやベルリオーズはパリを抜け出してロンドンへ逃亡。時代に取り残されたドイツのシューマンは自殺さえも試みます。

ファニーは間違いなく弟と同じくらいの大天才でした。彼女の音楽には初期ロマン派音楽を特徴づける夢想や人生の儚さや彼岸への憧れなどの全てが高貴な歌の中に込められていて、弟フェリックスのような楽天的な理想世界への憧れにも事欠きません。

素晴らしい音楽だけれども、彼女の死後、世界はあまりにも変わり、死後に認められるべきだった彼女の遺産は時代の潮流からは取り残されてゆきました。彼女の芸術の復権は20世紀の終わりまで叶わないのでした(序曲ハ長調は1990年代になって初めて知られるようになりました)。

女性だったから作曲家として社会的に認められなかったことは間違いないのですが、それ以上に彼女の音楽はあまりに革命以前の音楽でありすぎた。

ラリー教授の力作伝記を読み終えて、ファニーの音楽はあまりに19世紀前半という時代の空気を誰よりも体現した芸術だったのだと理解して感慨深いです。

今回紹介するのは、ファニー唯一の管弦楽序曲ハ長調。序曲というコンサートを開始させる小さな交響曲には聴く者を元気づける音楽要素の全てが詰まっています。わたしはよくロッシーニやベルリオーズやハイドンの序曲だけを取り出して聞くことが多いのですが、朝これから仕事を始める前に聞くのに最高の音楽です。

弟フェリックスとは似て非なるファニーらしい抒情が素敵な音楽。「女性作曲家」の作品としてではなく、19世紀前半期最高のオーケストラ序曲の一つとしてもっと親しまれてほしいです。曲の詳細はまた次回に。

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