マヨルカ島のショパンのヘ長調
フレデリック・ショパンの生涯はわずか39年7か月。
病弱で何度も死にかけていたショパン。
39年も生きたことは立派だったと伝記を読むたびに思うのです。
というのがショパンの毎日。
そういう人の書く音楽が他の誰とも違ってしまうのは当然のことだったことでしょう。
夭折した伝説のピアニスト、ディヌ・リパッティ (1917-1950) は人生最後の数年、死を覚悟してレコーディングに臨んでいました。
大作曲家フランツ・シューベルト (1797-1828) もじわじわと肉体を蝕んでゆく梅毒症状と共に生きて、いつだって死を想いながら作曲していました。
けれどもショパンの場合、病弱は先天的なものだった。
抗生物質が発明される前の時代。
風邪をひいても命とりだった。
特にショパンのように病弱な肉体しか与えられなかった人には。実際に同じように病弱だった文学少女の妹のエミリアは結核に罹患して14歳で亡くなっています。
病気や怪我の人生とは無縁な自分は、ショパンに心から共感することはないし、ショパンに人生に親しみを覚えることもほとんどありません。
ショパンのような人生は想像でしか思い描くことができないのです。
肉体的にボロボロな状態でも「英雄ポロネーズ」みたいな壮麗な音楽が書けたショパンの音楽には、ショパン自身の実生活を反映していないとはよく言われることですが、それでもショパンのメランコリーは、やはりショパンの病弱な人生感なくしてはあり得ないものだったはず。
ショパンも時には明るい音楽も書いた。
とくにまだ十代のワルシャワ時代には。
けれども、そのショパンの音楽が想起させる明るさは、現実逃避的な非現実な明るさ。
どこか人工的で、足元が地面についていないような明るさ。
何度聴いても全然好きになれない名作「バラード第三番変イ長調」作品47などは、そのような刹那的なショパンの夢想の音楽の最良の例なのだと思うのです。
1950年代のソフロノツキーの録音はとても遅いテンポで歌うよりも語るように奏でるピアノ。
遠い幻想世界の音楽のよう。
こういうオーソドックスとは程遠い録音ならばバラードも悪くない。
ピアニスティックに華麗に豪快にピアノを鳴らし切る演奏は嫌い。
明るいショパンだけれども、バッハやハイドンのような健全な精神の上に根付いている人生肯定の明るさの音楽とは全く違う。
ピアノの高音域の音が極度に半音階的な音で駆使されて、それでいて左手の低音があまりに離れていることが原因なのではと考察しています。
音が暖かいという感じがしない(わたしは豊かなハーモニーの音に暖かみを感じる。構造が透けて見えるような音楽は冷たく感じる。後年のモーリス・ラヴェルの音楽のように)。
ショパンは青や水色の寒色系の音楽?
ショパンの人生
ショパンの生涯は
ワルシャワ時代(生誕1810年3月1日:生まれつき病弱だったけれども、両親の庇護と家庭的幸福に包まれていた時代)
1830年(二十歳):ポーランド出国(11月)するも、数日後に勃発した「ポーランド11月蜂起」鎮圧される。ポーランドは完全にロシアの属国に。
パリまでの放浪時代(ウィーン・ミュンヘン・シュトゥットガルト)
パリ時代+(ドレスデン・ライプツィヒ・ロンドン)
マヨルカ島(20代終わり:1838年11月ー1839年2月)
女傑として知られた小説家ジョルジュ・サンドの庇護下に置かれていた安定時代(冬はパリ・夏は避暑地ノアン)
ジェーン・スターリングの支援による英国旅行。
パリ(終焉:享年39歳、1849年10月17日)
のようなタイムラインとして書き出すことができます
わたしが最も興味を持っているのは、プロフェッショナルなキャリアを歩み始めてしばらくあと、人生の転機となる地中海のマヨルカ島への旅。
ショパンの芸術的創作のスタイルは、若い頃からあまりに完成されていたので、ベートーヴェンのように、
には明確に分けられませんが、三か月弱のマヨルカ島滞在はバッハを徹底的に勉強したという意味では後期の始まりです。
作風が特に変わるわけではありませんが、この頃を境にして作曲語法が深まりました。
マヨルカ島以降の作品は顕著なほどに対位法的になるのです。
弱弱しいショパンと感受性の高い二人の子供を船に乗せて連れていったジョルジュ・サンドによると、マヨルカでの生活は
だったそうです。
でも舟歌と聖歌を含んだ『作品37の二つのノクターン』はマヨルカ島体験なしには絶対に生まれなかったし、ショパンの全作品の中でも最も大切な作品の一つである『24の前奏曲集』もマヨルカ島体験の産物でした。
マヨルカ島の前奏曲集
『24の前奏曲集』は、ショパンの音楽をあまり好まないわたしがショパンの音楽の中でも最も親しみを感じて愛している音楽です。
20小節にも満たない短さの音楽から、練習曲集にも匹敵する難易度の音楽まで、ショパンの持てるありとあらゆるタイプの音楽が混在している作品集。
前奏曲とは、曲の核心となる部分を導くための前座の音楽です。
模範となったバッハの『平均律クラヴィア曲集』の「前奏曲」は、曲の核心である「フーガ」のための前半部でしたが、ショパンの場合、これから何かが始まると暗示させて、前奏曲の続きが存在しないという音楽。
だからどこか、下の句が存在しない俳句のような趣の、音楽的構造においては中途半端な音楽ばかり。
物語が始まってもどれも終わりに至ることのない短編小説集のようなもの。
または24のばらばらなショートフィルムがつなぎ合わされたようなオムニバス映画。
マヨルカに到着したショパンとジョルジュ・サンドと子供(ソランジェ、モーリス)たちは、島で最も多くの人が集まっていたパルマに最初は滞在しますが、やがて雨期になるとじめじめした風土があっという間にショパンを弱らせてしまいます。
日本の梅雨みたいな不快な気候でした。
島の医師たちはショパンはいつ「くたばってもおかしくない」と匙を投げるなか、サンドの献身的な看病のおかげで体調を持ち返します。
他人に依存していないと生きてゆけない人生。
ショパンはどれほどにおのれの肉体の脆弱さを呪ったことでしょうか。
その後、小康状態を得たショパンはヴァルデモザの僧院に移り、ここで『24の前奏曲集』のほとんどを書き上げます。
第15番変イ長調
有名な第15番「雨だれ」をサンドは
と小説家らしい言葉で言い表しています。
この曲もまた、僧院由来の音楽なのです。
マヨルカの雨期の雨の音よりも、葬列の歩みと呼ぶ方がこの曲の本質にふさわしいとわたしは個人的に思うのですが、冬季のマヨルカは雨ばかりの雨期だったので「雨だれ」というニックネームは確かにお似合いです。
シトシトと降り続く雨の中の修道僧たちの幻影でしょうか。
「雨だれ」はもちろんショパンの命名ではありません。
ショパンは文学的な名称を付けることを嫌う人でしたから。
音のイメージは言葉を超えているというのがショパンの思想。
言葉で言い表せない想いを伝えるのが音楽。
「24の前奏曲集」はモデルとなったバッハの作品とは全く異なり、24編の小さな詩を編んだ詩集のような作品だと書きましたが、一曲が一分にも満たないけれども、性格の異なる短い曲がどんどん入れ替わってゆく情景は、死んでゆく人が死の直前に見るという走馬灯のようにも思えてしまう。
ショパンがバッハのように前奏曲で始まってフーガで完結する完璧な構成を持つ音楽を書かなかったのは、フーガという形式が流行らなくなってしまったからよりも、移ろいゆく情景のような曲集を描き出したかったからなのかも。
ショパンはバッハを心から尊敬してバッハの技法を学んでも、バッハになるとなしなかった。「19世紀のバッハ」というあだ名がふさわしいフェリックス・メンデルスゾーンとは全く違うのです。
第23番ヘ長調
一曲一曲のどれもが夢のような移ろいゆく情景の断片。
だから一曲だけ取り出して語るのもノンセンスなのかもしれないけれども、わたしが最も好きなのは第23番ヘ長調。
ショパンの24曲は、ハ長調からハ短調、嬰ハ長調、嬰ハ短調、ニ長調と半音違いで主音の同じ長調と短調を並べたバッハの「平均律クラヴィア曲集」とは異なり、循環五度で曲は並べられています。
ハ長調の次は平行短調のイ短調、ト長調、ホ短調という具合で♯調から最後に♭一つのヘ長調とニ短調へと辿り着く構成です。
最後におかれた最も巨大で豪快なニ短調のための前座のような、小さなたった23小節の演奏時間一分にも満たない曲が23番「ヘ長調」ですが、この短い音楽にはショパンの最も明るくてユーモラスな夢想が詰まっている。
超絶技巧な最後のニ短調を演奏する前の息抜きみたいな音楽かもしれないけれども、ここに病弱でいつ死んでもおかしくなかった男の軽やかな白昼夢な現実逃避が完璧に音化されている。
ドイツ人は音を言葉にしたがる
ちなみに全24曲に詩的な題名を考えた人たちがいました。
ドイツ人のハンス・フォン・ビューローと極めてドイツ人的な精神性を持っていたフランス人アルフレッド・コルトーです。
ショパンは自作の変奏曲の各変奏に詩的なイメージの言葉を添えたローベルト・シューマンに
と不快感を示したことはよく知られています。
ショパンは音から受けた感興を具体的な言葉にしてしまうことを最も嫌った人でした。
ショパンの音楽とは水と油のように対照的な音楽を書いた、高い文学的教養を持っていた「無言歌」の作曲家フェリックス・メンデルスゾーンはお姉さんのファニーと一緒に子供の頃から音楽を聴くと詩的な題名をつけることをして遊んでいたと伝記には書かれています。
ファニーとフェリックスの二人が無言歌というジャンルを創設したのも当然だったのでした。
メンデルスゾーン姉弟には全ての言葉のない音楽は無言歌でした。
ファニーは自作のピアノ曲を
と呼びました。
ショパンは決して「言葉のない歌」は書かなかった。
「言葉にならない歌」を書いたのがショパン。
いずれにせよ、ショパンは抽象的なピアノ音楽に詩的な題名をつけることを嫌いました。
だからメンデルスゾーンやシューマンのドイツ音楽と「ピアノの詩人」ショパンの音楽は決して通じ合うことがない。
19世紀と20世紀をそれぞれ代表する二人の大ピアニストは次のようにヘ長調前奏曲を命名:
ハンス・フォン・ビューロー: A Pleasure Boat(愉しいボート:舟遊び)
アルフレッド・コルトー: The Capricious Butterfly(気ままな蝶々)
でもショパンのヘ長調はやはりヘ長調の音楽という抽象的で具体的な言葉を持たないままの方がよくはありませんか?
楽曲分析
ここでは2005年のショパンコンクールの圧倒的覇者だったポーランドのラファウ・ブレハッチの演奏をお聴きください。
物凄い超絶技巧の演奏家なのに、この小さな歌を子猫をあやすかのように優しく撫でているような演奏。
あまりに詩的で儚い音の波。
この曲の理想的な演奏です。
メロディを奏でるのが右手で、分散和音で伴奏する左手というのが普通のホモフォニーの音楽です。
歌+伴奏という形の音楽のことです。
けれども、この曲の場合、右手と左手の役割が逆さまになっているのがユニーク。
右手は規則正しく一拍を四分した十六分音符によるバッハの音楽ような無窮動曲。
実はこちらが伴奏部分。
おどけた歌の部分は左手にあるのです。
右手の分散和音はピアノの右端の高音域を駆け上がってゆく。
曲は転調もしないで、ずっとヘ長調のドレミファソラシドばかりの音でできている音楽なのだけれども、ほんの少しだけ、ショパンにしか書けない素晴らしい半音階の動きがある。
第三小節目の第二拍でG#とB♮が唐突に出てくるのですが、これはすぐに半音上がって解決されてしまう。ほんの一瞬だけ、音が陰るのです。
解決は調性音楽のルール。
全ての和音はドミソの三和音という「家」に帰る。
どんなに遠くまで出掛けても、最後には「家」に帰る。
この場合は次の和音はイ短調の和音なので、G#とB♮はヘ長調のviの和音の減七の経過和音。
G#はすぐ隣の半音上のAに、B♮はCへと戻る。
半音階に陰る部分があるとないとでは、音楽の印象は激変します。
きっとショパンの場合は弾いてみて、指の自然な動きから隣の音を鳴らしたら美しかったので、こう書いたのでしょうね。
頭ではなくて、指で音楽を考えるショパンらしい音。
他の場所で出てくるB♮の音は、ドッペルドミナントという和音の一部。
バッハが愛した借用和音。これは特に珍しいものでもない。
もう一つのヘ長調ではない音は後半に。
曲最後から二小節目、つまり21小節目の第三拍目の変ホ(Eb)。
この音は12小節目の左手にも出てくるけれども、21小節目での使い方は大天才の筆の冴え。
ヘ長調の音階は
これ以外の音は不協和音を作り出すのです。
でも、何でこんなところにヘ長調と全然関係のない変ホ=ミ♭(E♭)が?
右手はファラドファで完全なヘ長調のトニック。第四拍の音も完全に同じで最後の小節のファへと途切れずにヘ長調を締めくくる。
けれども左手は
という異質な音を密かに仕込んでいる。
普通ならばこの和音は副属音(サブドミナント)を導く和音で
という解決が予測されるのだけれども、ここでは
と移り変わって中途半端なまま、和声は解決されない。
これもまた、三十一字の和歌に対する十七字の俳句のように下の句が存在しないような終結で、なんとも中途半端なのだけれども、この解決しない感じがなんとも儚くて淡い余韻を残す。
これをわたしは奇跡の変ホ(Eb)だと思うのです。
もしこの変ホがハ音(つまりド)だとすれば、
となってただのヘ長調の三和音でしかなくて、ヘ長調の音が繰り返されるだけの平々凡々な音楽となるのだけれども
ここに一音、変ホが含まれているだけで、音楽が全く別次元のものとなる。
まさにフレデリック・ショパンは数百年に一人の大天才だと、ショパンの音楽をあまり好まないわたしも唸らざるを得ない。
隠し味の変ホの音。
ほとんどドレミファソラシドだけでできている音楽だからこそ、ほんの少しだけ含まれている、こうした小さな音がこのたった22小節の音楽を輝かせている。
何度聴いても演奏しても、この音が出てくるたびにハッとする。
生きているだけで毎日が奇跡だったフレデリック・ショパンには、毎日の小さな変化さえも人生の一大事のように印象的で意味深いものだったことでしょう。
そんなショパンだからこそ書けた音。
ロマンティックな古典主義者メンデルスゾーンはいかにして古典的で格調高くて大きな音楽を作り出すかに苦心していたけれども、フレデリック・ショパンは小さな小さな世界のほんの少しの変化の中に新しい美を見出していた。
「ピアノの詩人」という唯一無二の二つ名、ショパンに本当にぴったり。
『24の前奏曲』をショパンの最高傑作と呼ぶショパン愛好家はほとんどいないと思うけれども、ショパンのピアノ音楽作曲家としての生涯のほぼ真ん中の頃に書かれた「24の前奏曲」は「ピアノの詩人」の最も美しい詩句の集まりです。
故郷ワルシャワで家族に囲まれて幸せだった子供時代のショパンよりも、サロンで世俗的な成功を求めなくてはいけなかったパリ時代の孤高のショパンよりも、マヨルカ島のショパンに惹かれます。
風土が合わなくて死にそうになったショパンはマヨルカ島をとても好きになったとはいいがたかったと思うのだけれども、サンドの献身と愛らしい子供たちに囲まれていた、エギゾチックなマヨルカ島への生涯最大の大旅行の中でショパンは「ピアノの詩人」として覚醒したのだと思います。
終わりのない詩のような24曲の前奏曲はどれも独特で語るべきことがあるけれども、ショパン嫌いのわたしの最愛のショパンの音楽は、たった22小節の第23番のヘ長調なのです。
白い絵画の中に場違いな色を一色垂らすだけで、絵画の印象が激変するように、音楽においても、たった一音が全てを変えてしまう。
地中海マヨルカ島のショパンを聴いて、南太平洋タヒチのポール・ゴーギャンを連想するのは飛躍が過ぎるでしょうか。
奇跡の変ホ(E♭)の音のお話でした。
毎日投稿、今日で節目の90日目でした。毎日読んで下さる愛読者の皆さま、本当に毎日ありがとうございました。