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英語慣用句(8): パリと東京でのオリンピック序曲
2024年7月26日に始まって8月11日に幕を閉じたパリオリンピック終了より早一週間。
日本勢大活躍で日本の方は大満足だったのかもしれませんが、競技以外のことで多くの物議を醸した大会でもありました。
しかしながら、パリ大会が格別に異彩を放っていたわけでは決してなく、オリンピック史をたどれば問題多き近代史が如実に映し出されるほどです。
ヒトラーを党首に戴いていたナチス党主導のもとに、ナチスのプロパガンダ的に開催された1936年のベルリンオリンピック
第二次大戦のために幻となった1940年の東京オリンピック
中東戦争停戦中(第三次と第四次中東戦争の合間)、イスラエル・パレスチナ間の緊張が高まる中、最悪のテロが発生。オリンピック史上最悪の悲劇と呼ばれた、パレスチナゲリラによるイスラエル選手宿舎を襲撃によって、十人を超える選手たちが結果として殺害された1972年のミュンヘンオリンピック
冷戦のさなか、ソ連のアフガン侵攻を受けて、日本を含めた大量の西側諸国がボイコットした1980年のモスクワオリンピック
次の1984年ロスアンジェルス・オリンピックでは、ボイコットの報復として、ソヴィエトに倣う東側諸国はロス・オリンピックには不参加
これらはわたしがぱっと思いついたものを書きだしただけですが、民族の祭典の舞台が華やかで輝かしいほどに、光に照らされた舞台裏では不気味な影が闇を深くしているのがオリンピックなのです。
オリンピックの黒歴史
レニ・リーフェンシュタールによるベルリン五輪記録映画「勝利の意志」は戦後プロパガンダ映画として弾劾されましたが、芸術的に素晴らしい映像作品でした。
ヒトラー総統(当時)の姿も映像に含まれているので、その後を歴史を鑑みれば、あまりにも生々しい20世紀の証言として貴重なものです。
選手たちの活躍よりも、当時の世界政治を思わずには見ることができない作品。
ミュンヘン・オリンピック事件は、ユダヤ人映画監督スティーブン・スピルバーグによって2005年によって映画化されています。もちろんイスラエルが被害者として描かれている映画。
パレスチナ・アラブは弱者の虐げられている側なので、このようなプロパガンダ映像作品が芸術的に製作されないことは不公平に思えます。
パリ・オリンピックは、昔も今も変わらぬユダヤ(イスラエル)とパレスチナの対立が最大級にエスカレートしてる中での開催でした。
ハマスの完全壊滅(つまり民族浄化)を成し遂げることまで殺戮をやめない(であろう)イスラエル国が送った選手団は、オリンピックに正式な参加国として承認されて、旧西側諸国によってウクライナ侵攻を非難されたロシアとベラルーシは参加を認められないという図式。
イスラエル=パレスチナ問題は旧約聖書の昔から延々と解決されることなく存在し続けた問題。恐らくこの両民族が地球上の存在し続ける限り、終わることのない問題です。
今回のパリオリンピックでは、フランス革命を指示した民衆たちの間で愛された流行歌
「イ・サラ:Ah ! ça ira, ça ira, ça ira」
がヘビーメタル歌手によって絶叫される中で、女王マリー・アントワネットの生首が登場するというものでした。パリオリンピックを象徴する出来事。
フランス革命前のアンシャンレジームの不平等世界や、フランス文化において、長く精神的に国民を支配してきたカソリック思想などの宗教を否定し、LBGTQの性的マイノリティの権利を最大限に肯定する現代フランスのリベラリズムが世界的に表明されたわけです。
ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のパロディをキリスト教以前の祝典の神であるディオニュソスを配することでも表現。
過去の否定、革命精神こそが現代フランスの精神というわけです。またはキリスト教以前の多神教の世界を現代フランスに蘇らせたいのか。
革命時代の流行歌「イ・サラ」は、リドリー・スコット監督の大作「ナポレオン」の冒頭に鳴り響いた曲でもありました。
「イ・サラ」を日本風に解釈すると、幕末日本の「ええじゃないか」なのかもしれませんが(笑)。
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異国が鎖国していた日本の扉を
無理やり押し開いて
徳川幕府は死に体になり、
庶民は先の見えない未来への不安から
「ええじゃないか」と働くことをやめて日本各地で踊り狂ったのでした
幕末の混乱が生んだ集団発狂状況
フランス革命の殺戮も
なんとなく似ていますが
日本の踊り狂った人たちは
殺し合うことはなかったのでした
こうしてフランス精神に巣くう虚無を見せつけられると、世界的感染症のために無観客開催という異例の事態の中で行われた前回の東京オリンピックが懐かしく思えました。
パリオリンピックのリベラル思想が開会式に体現されていたとすれば、東京オリンピックはどうだったのでしょうか?
2020年(2021年)の東京オリンピック
憶えていらっしゃいますか?
東京オリンピック開会式は、現代日本が世界に誇るサブカルチャーの祭典でした。
東京オリンピック開会式は日本が世界に誇るロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」の有名な序曲で開幕しました。
2016年のリオオリンピックの閉会式は、スーパーマリオに扮したコスプレ安倍首相(当時)が登場してオリンピックを東京に受け綴というものだったので、筋が通っていますね。
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パリオリンピック開会式と比較されて、日本のオリンピックは子供っぽかったなどと言う声も多く聞かれましたが、世界的に日本という国は
アニメ
ゲーム
におけるクオリティの独創性と多様性、個性において、他の国の作品の追随を全く許さないわけで、実際にそう認知されているのです。
昭和歌謡曲の時代から半世紀以上の作曲家人生を送られたすぎやまこういち氏の偉大な作曲によるファンファーレによって、東京オリンピックが開催されたことは素晴らしいことでした。
続いた音楽はファイナルファンタジーなどの他のゲーム音楽でしたが、一番最初に鳴り響いて最も大きなインパクトを世界中の聴衆に与えたのはドラクエ序曲。
21世紀の日本は、古い日本のイメージのフジヤマ・ゲイシャ・サクラよりも、アニメ・ゲームで代表されるにふさわしいという正しい認識に基づいているといえるでしょうか。
パリオリンピックの方が芸術的という意見には、わたしは否といいたい(わたしは美術館巡りが好きな美術が大好き人間ですが)。
ドラクエ序曲をたかがゲーム音楽というなかれ。
私がこれまでのオリンピックソングとして最高だったと評価するのは、映画音楽の大家ジョン・ウィリアムズによる1984年のロスアンジェルスオリンピックにおけるオリンピック序曲でしたが、すぎやま氏によるドラクエ、決して勝るとも劣るものではありません。
ちなみに、とても素晴らしいスポーツ賛歌である「炎のランナーChariots of Fire」は特にオリンピックの音楽というわけではありません。
1981年のイギリスの映画の音楽でした。
2012年のロンドン・オリンピックでは使用されたのでしょうか?
わたしは当時は幼児二人を抱えて子育てに忙しくてオリンピックどころではなかったので全く記憶にはありません。
すぎやまこういち氏の音楽
子どもの頃にはゲーマーだったので、ドラクエびいきなのは間違いないのですが、歌謡曲の作曲家すぎやまこういち氏が、「たかがゲームのBGM?」などと見下されていたゲーム音楽の世界にやってきたことは歴史的な出来事でした。
8ビットのファミコンのために三和音しか鳴らせない(!)という制約の中で生み出した音楽。
同時に三つの音しか使えない中での作曲であれだけ味わい深い音楽を書き上げたのでした。
すぎやまこういち氏は2021年、つまり東京オリンピックの翌年に90歳で大往生されましたが、ゲーム音楽の地位を格段に向上させた功績は言葉に尽くしがたく、こうしてオリンピックで日本を代表する音楽にまでみなされたのでした。
最晩年のすぎやまこういち氏(89歳)がオリンピックで流れる自作の序曲を生きている間に聴くことができたことは本当に良かったですね。
すぎやまこういち氏はクラシック音楽を知り尽くしていた人物です。そのうえで歌謡曲を書いていたのです。
おもえば、わたしは小学校に上がる前からすぎやまこういち氏はの音楽に親しんでいました。
大好きだった「帰ってきたウルトラマン (1971)」の主題歌もすぎやま氏作曲(後年、そのことを学びました)。
わたしはアラフィフですが、今でもこの歌の歌詞をすべて覚えていて、今でも完璧に歌えてしまう(笑)。子供時代の刷り込みはすごいものです。
昭和の終わり、テレビでの再放送を夕方によく見ていたことを覚えています。
すぎやま氏の歌謡曲としては「ザ・ピーナッツ」の人気曲の数々なども。
ここでは「恋のフーガ」の英語版をどうぞ。わたしは2008年のNHK朝ドラ「だんだん」からこの曲を知るようになりました。
他にも「亜麻色の髪の乙女」など(1968年の作曲が2002年にカバー曲として歌われて21世紀になって大ヒット)、数々のヒット曲があるのですが、
やはり氏の最高傑作は五十歳を過ぎてから芸能界を離れて、ゲーム音楽のために捧げた第二の人生の中で書かれた「ドラクエ」音楽の数々。
そんなすぎやま氏の書かれた冒険の旅を出て世界を救う勇者のための音楽の東京オリンピックの日本。
それに対する「(貴族代表である)女王をぶち殺せ」と歌うパリオリンピック。
「イ・サラ」は「うまくいく」という意味ですが、革命起こして国家元首で国の象徴の王様(ルイ16世)・女王様を殺してもうまくいくという意味が歌には込められています。
わたしは心からフランスに生まれなくてよかったなとしみじみと思えるのです。
わたしはラモー・クープランなどフランス古典音楽が大好きで、フランス印象派絵画もとても好むのですが、フランス文化は学べば学ぶほど、自分には異国の文化なのだと思えて仕方がない。
フランス詩などは自分には全く異質なものに感じる(ドイツ語が好きなわたしはドイツに親近感を抱いているからでしょうか)。
フランスワインなどは大好きですが、確かにフランスが世界に誇る高級ワインは革命以前はほぼ貴族の独占物でした。
ワインを庶民に開放して(流通させて)、革命で失職した料理人が宮廷料理を大衆に広めて(庶民のためのレストランが生まれました)フランスは濃厚で不健康なソースのグルメの国になったので、200年経っても革命万歳?
というわけで、いまさらながら、談合問題やオリンピック担当作曲家の変更など、さまざまな問題もありましたが、パリオリンピックより東京オリンピックの方がよかったのでは、と三年前の出来事を振り返るのでした。
フランスは急進リベラル、日本はアニメとゲーム(オタク)の国、それが世界に発信された、それぞれの国の在り方、そして彼の国々の未来志向。
わたしは命を縮めるほどに過酷なトレーニングをするスポーツには無縁な人間なので(わたしは音楽を死ぬまでやっていたい人間です)オリンピック競技そのものは全く他人事なのですが、やはりオリンピックで繰り広げられた愛憎物語はなかなか興味深かったと思うのです。
ここからはドラクエ6(リメイク・英語版)について。
コンピュータゲームや英語に関心のない方はここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここで読むことをやめて、スクロールダウンして一番下のスキだけ押していただけると嬉しいです(笑)。
以下はゲームと英語のお話です。
ドラクエ6という大作
さて、ドラクエ6を始めた動機は、前作ドラクエ4とドラクエ5をプレイした経験があまりにも素晴らしかったため。
天空三部作の最後の作品と称される続きの本作にも、自然と取り組んだわけです。
ドラクエ4とドラクエ5はシリーズ最高傑作としばしば呼ばれるように(ドラクエ3やドラクエ11という意見もありますが)
楽しくプレイできる程よい難易度
感動的な物語が作品の中に真っすぐで貫かれていて
最高のエンタメ映画を見ているような、素晴らしいストーリー展開のために
ゲームをしたことのない人にさえ、勧めたくなるような素晴らしいゲームでした。
もうすでにドラクエ4とドラクエ5については自分なりの言葉で以前に解説していますので、ここでは作品については書きませんが、日本人ならば人生、一度はドラクエやるべきですよ。
人は自分の知らないジャンルの遊びをしたり経験したりすると、普段していることからは得られない学びを得ることがよくあります。
知らない土地に旅に出たり、知らない作者の本を読んだり、まだ知らない人と出会ったり。
未知と出会うが大事。
ドラクエをしたことのない人には、ゲームそのものが未知で、ゲームの内容も未知の世界の探索なのですから。
ドラクエにはたくさん作品がありますが、わたしのお勧めはドラクエ4とドラクエ5、ひとつだけならばドラクエ5です。
さて、こうしてわたしの書いた文章をここまで読まれると、ドラクエ6は前作ほどには優れてはいないという印象を受けることでしょう。
ベストセラーとなった前作のふたつの名作に続くドラクエ6は、前作を超えないといけないというプレッシャーの中で製作された作品だったために、いろんな新機軸が盛り込まれて野心作だったのですが、個人的には作品内容があまりに複雑になってしまったことが残念でした。
ネット上でもやり込むことがたくさんある世界観の大きさが大好きだという肯定的意見と、興を削ぐほどに複雑すぎて難解すぎる駄作という否定的意見があり、評価は全く割れています。
ネタバレしたくないので詳細は語りませんが、夢と現実の世界を行き交い、最後には二つの世界に分裂してしまった自分とはなんであるかを探し出して、世界分裂の元凶である魔王を倒すというシナリオ。
前半部分は仲間を集めて魔王を倒しに行くのですが、ようやく倒した魔王は実はラスボスではなかったというのはよくあるパターンかもしれませんが、ドラクエ6の場合、そこから自分が誰であるのかを探す自分探しの旅が始まったことには戸惑いました。
どこへ行って何をすればいいのかわからなくなったわけです。
ここからゲームの自由度が上がって、自由過ぎて広いゲーム世界をほとんどヒントもなしに彷徨う羽目に。
また転職制を導入したために、当初は個性的だったキャラたちの特徴が薄れてしまった点も大失敗だったことでしょう。
ですが、ラスボスを探し当てて戦闘後にエンディングを迎えると、ドラクエ4やドラクエ5のハッピーエンディングとは異なる、なんともいえない、もの別れの寂しさあふれるエンディングになるのです。
苦難の上にラスボス(めちゃくちゃ強い!)を倒したのち、凱旋してある村の立ち寄ると、村人から
これから本当の人生が始まるのだよ
といわれて、名作アニメ「葬送のフリーレン」を思い起こしました(フリーレンは本作に影響されたのでしょうか)。
人生は若い頃の冒険を終えた後の方が長いのです。
ゲーム的には現実世界に戻って頑張りなさいということでしょう。
ゲームの世界こそが夢の世界。
夢の世界の体験を現実に持ち帰って現実世界を豊かに生きよということでしょうか。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」もまた、そのように結ばれましたね。
ゲームのエンディングは仲間たちとの切ない別れがとても印象的。
次々と去ってゆく仲間たち。
王城に帰り着くと最後の一人の仲間も彼女の世界へと帰ってゆく。
ドラクエ4でも仲間の別れがありますが、ドラクエ4は仲間たちは平和になった世界で楽しく生きてゆけると思える希望にあふれていて「またねー」といいたくなるような明るいエンディングでした。
対照的にドラクエ6は最後には一人ぼっちなるという、なんともいえぬ寂しいエンディング(その後にさらに続いて、それなりの希望は残るのですが)。
というわけで、このエンディングを見れただけでも、60時間を超える時間を費やしてプレイした甲斐がありました(前作では40時間ほどでした)。
音楽に関しては、すぎやま氏の音楽も幾分レベルダウンな感が否めませんでした。
前作で毎回発見した音楽の斬新さはなく、ドラクエ音楽としてはあまりに平凡でいささか残念な出来でした。
前作に比べるとまったくマンネリ。
しかしながら、ドラクエ6の最後のエンディングの音楽だけは違いました。
別れの寂寥感を盛り上げる哀愁の音楽は、本ゲーム中の最高傑作といえるもので、この点においては最高のゲームエンディング体験でした。
すぎやま氏の音楽はやはり素晴らしかった。
エンディングは「時の子守唄」と題された、悲劇感あふれる勇壮な音楽。
本編からは村の音楽である「木漏れ日の中で」も佳作といえるでしょう。
カジノで流れる「ハッピーハミング」も続けて演奏されます。
こういう音楽は何度聴いても聴き飽きない。耳タコができるほどに聴いても飽きない(でもドラクエ4やドラクエ5の音楽ほどには好きになれなかったし、一部のドラクエ6のマンネリ音楽には残念ながら飽きを感じました)。
何度聴いても飽きることのない音楽を書けることは偉大な作曲家の証です。モーツァルトやバッハのように。
ドラクエ6の英語
さて、英語版で出会った面白かった英語を紹介いたします。
まずは英語のダジャレ!
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夜の雌馬のことを考えてると悪い夢を見てしまうよ
これすぐに笑えると英会話上級者レベルかも。
Mare /mɛər/ は無理やりカタカナで書いて「メア」。
自然から遠いところに住んでいる人には無縁かもしれませんが、かつて馬車が活躍していた時代には当たり前の日常語でした。
雌馬という意味。
これと悪夢 /ˈnaɪtˌmɛər/(ナイトメア)をかけているわけです。
That mare at night gives me nightmare!
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それを見つけるのがお前たちだ
われわれは腕力だけではなく頭脳を持った兵士を求めているわけだ
これはBrainとBrawnで韻を踏んでいて、なかなか洒落ています。
with brains as well as brawn
ブレインとブローン
Brawn /brɔ:n/ は筋力、腕力という意味。
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ピカピカの報酬を受け取ってください
Fair and square は語呂がよい慣用句。
こういう韻を踏んだ表現は好まれます。
次の表現も面白い。
Rude Healthでどんなことを思い浮かべますか?
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健康ではちきれんばかりです
Rudeだから悪い言葉なようですが、Rudeの語源は「磨かれていない、ありのままの」という意味なので、とんでもなく健康、頑強だという意味。
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わたしたちは全く感謝いたします
Under your hats で秘密にしておくという意味。
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…Have seen better days も慣用句。
「かつては良い日を見ていた」(知っていた、経験していた)とは、つまり「古くなって衰えた」という意味。
とても英語的な言い回しですね。
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I don't give a fig / care a fig / give a Flying fig / give two figs これらはどれもかまわない、心配しないという意味。
I don't give a (名詞) … で「気にしない、かまわない」という口語フレーズなのですが、どうしてFig(イチジク)なのかはよくわかっていません。
英語の権威であるオックスフォート英語辞典によると、これらの言い回しは15世紀にはあったそうなので、シェイクスピアよりも古い。
そのために、本来の語源がもはや理解されないで今でも使われているということです。
以上がドラクエ6の英語でした。英語的には方言だらけの前二作ほどには面白みがなかったわけですが、その分ずっと読みやすい英語でした。
今年11月にはドラクエ3のHD‐2Dリメイクが発売されるそうなので、自分に時間があるようならばやってみたいものです。
ドラクエ1とドラクエ2もまた来年にリメイク版が発売されます。
ロトシリーズはファミコンサウンドで作曲された音楽でしたが、あまりに質の高さにすぎやまこういち氏の名を高らしめた作品で、音楽目当てだとしてもぜひ遊んでみたいゲームです。
子供の頃にプレイした作品でしたが、内容はほとんど忘れているのでリメイク版では新鮮な気持ちで遊べそうです。
日本からでも英語版はダウンロードできるのでぜひともトライてみてください(英語アカウントを取得しましょう)。
トレーラーから見れる本当に美しい新しいスタイルのヴィジュアル。
本当に待ち遠しいですね。
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