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「アヴェ・マリア」:知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(5)

作曲家メンデルスゾーンはユダヤ系でしたが、父アブラハムは子どもたちを1816年、つまりファニーが11歳、フェリックスが7歳の時にルター派キリスト教会で洗礼を受けさせています。

アブラハムたちがユダヤ教を棄てて、キリスト教に改宗した背景には、ユダヤ人への迫害と差別の存在がありました。

中世以来、決して緩むことのなかったドイツにおけるユダヤ人への偏見と迫害は20世紀のナチスドイツの反ユダヤ主義時代に猖獗を極めることになります。

長男フェリックスが生後すぐにユダヤ教徒の証として行うべき割礼を受けていないことは、アブラハムがキリスト教への改宗を相当以前から考えていたためだと考えられます。

ファニーとフェリックスはルター派クリスチャンとして育ち、二人ともキリスト教的な音楽を作曲しています。

彼らがヨハン・セバスティアン・バッハに特別な親近感を寄せたのも、同じルター派キリスト教会に属していたからでもありました。

子どもの頃の二人は教会の合唱団に入り、毎日曜日には聖歌を歌っていたのです。バッハの合唱音楽はファニーとフェリックスの日常の音楽でした。

バッハの音楽が死後忘れ去られたまことしやかに語られる伝説は、バッハの遺産が受け継がれたベルリンでは全く事実とは程遠いものだったのです。

メンデルスゾーン姉弟がどれほどの信仰を持っていたのかを探るのは興味深いことで、実際に研究書も複数あるほどですが、ファニーとフェリックスの宗教にまつわる愉快なエピソードがあります。

今回はファニーの生涯に焦点を当てて、そのエピソードを紹介してみましょう。

イタリアのファニー

1829年10月(フェリックスの歴史的バッハ「マタイ受難曲」蘇演の半年後)、24歳のファニーはプロイセン王の宮廷画家ヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚します。

ちなみにフェリックスがピアノから指揮した「マタイ受難曲」上演には、ファニーは女声合唱団の一員として参加しています。

上述したように、彼女は合唱歌手としての長いキャリアを持っていました。

ルター派キリスト教会が合唱を重んじたのは、信者の誰もが同じように歌えることに意義を見出した点でした。

ファニーやフェリックスがどのように優れた歌手であったとしても、皆と同じような歌い方で歌い、全員が一体となってハーモニーを作り出さないといけません。

合唱の中では一人だけ傑出してはいけないのです。

だれもが合唱の中では平等です。

キリスト教共同体の理想「全ての人が等しく一緒になること」が、合唱という音楽演奏形式の中には込められているのです。

ヴィルヘルム・ヘンゼルはファニーの初恋の相手でした。

貧富の差を超えて8年越しの恋愛を成就させて、貧しい宮廷画家に嫁いだ大富豪のお嬢様ファニー。

二人の結婚までの道のりは文字通りロマンティックなもので、非常に興味深いものです。

詳細に解説してみましょう。

1821年のこと。

ヴィルヘルムは肖像画家として世に出ようとしていた若者でしたが、優れた腕前のためにベルリンで経済的に裕福な人たちに好まれて、社交界に出入りすることが許されていました。

写実的に描くばかりではなく、人物の性格まで絵の中に描き込むと言われるまでの評判でした。

そこで出会ったのがベルリンどころかドイツ有数の大銀行の令嬢ファニー。

けれどもファニーは知られざる天才音楽家でしたので、大抵の男性とは釣り合うはずもありませんが、偉大な画家になりたいと真摯に願う若いヴィルヘルムは、芸術家同士ゆえに次第にお互いに心を通じ合わせるようになるのでした。

肖像画家という職業は、カメラがなかった時代に家族などの姿の思い出を画像として残す役目を果たしていました。カメラが普及する以前には肖像画家が社会的にとても重要だったということは容易に想像できますよね。

そこで腕の良いヴィルヘルムはプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の宮廷から奨学金を得ることに成功して、1823年にイタリア遊学へと旅立ちます。

ヴィルヘルムは熱心にイタリア芸術を学び、ラファエルの名作「キリストの変容」を見事に模写したのだそうです。

これを完璧に模写できたとすれば
ヴィルヘルムの画力は相当なものです
ラファエル最晩年の超名作

しかしながら、ヴィルヘルムのイタリア遊学はなんと5年にも及び、ヴィルヘルムが最終的にベルリンに帰国したのは1828年のことでした。

その間、ヴィルヘルムとファニーはお互いに手紙を書き続けて遠距離恋愛を続けていたのだそうです。

五年間も!

帰国後、二人の仲は急速に進展して、結婚を願うようになりますが、ファニーの父アブラハムは愛し合う二人を容易には祝福しようとはしません。

経済格差が最大の関門でしたが、幸いなことにヴィルヘルムはベルリン帰国後、プロイセン宮廷の肖像画家として雇用されることとなったのです。

王族や王族に近い裕福な人たちの肖像を描くという、当時の画家としては最も安定した地位を得たヴィルヘルム。

ヴィルヘルムの経済力は大富豪メンデルスゾーン家に遠く及ぶはずもありませんでしたが、ヴィルヘルムがファニーの音楽活動を結婚後も全面的に支持する相手となるであろうことを理解しすることで、二人はようやく結婚を許されるのでした。

「ヴィルヘルムとファニー」
この肖像画のファニーの顔がなんだか丸いのは
結婚して幸せになって太ったということでしょうか(笑)
ヴィルヘルム・ヘンゼル作
https://blogs.loc.gov/music/files/2015/09/Fanny-and-Wilhelm.jpg

ファニーはヘンゼル姓を名乗り、ファニー・ヘンゼルとなります。

翌年には一人息子を出産します。

セバスティアン・ルードヴィヒ・フェリックス・ヘンゼル

と命名。

もちろんファニーがこよなく愛した三人の偉大な大作曲家由来。

ヨハン・セバスティアン・バッハに、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、そして弟フェリックスの名前を組み合わせたのです。

しかしながら、あまりに偉大な三人の作曲家の名を与えられたセバスティアンは音楽家とはならずに、父親ヴィルヘルムと同じ肖像画家となる生涯を歩みます。

ファニーは時代の要請に従って家庭を守る女性の役割を果たしますが、四人姉弟の最年長として典型的な長女気質をもった世話焼きで責任感が強い女性だったためか、メンデルスゾーン家が主催したベルリン屈指の文化人サロンを主宰、日曜日の夕方ごとに演奏会を開催する生活を十年近くも続けるのでした。

当時には珍しく、子どもがただ一人だったのも、ファニーのこうした多忙な音楽活動への影響を考慮してのことだったことでしょう。ヴィルヘルムは良い夫でした。

大きな転機が訪れたのは1839年8月のこと。

ヴィルヘルムが新たな南国イタリアへの大旅行を計画したのです。

旅行は11か月にも及ぶ大旅行でした。

ヴィルヘルム二度目のイタリアへの遊学が大義名分でしたが、同伴した妻ファニーと幼い息子セバスティアンには人生初の長期のイタリア旅行。

家族三人はイタリアでの時間を大いに楽しみます。

三人はスイス経由でルツェルンからアルプスを越えて、北イタリアのミラノ、水の都ヴェニス、花の都フィレンツェから、永遠の都ローマへと到着。

目的地はローマでした。

ここでイタリアでの時間の大部分を過ごし、また一時期は南方のナポリまで足を延ばしています。

旅行の翌年1841年に完成する彼女の代表作となるピアノ曲集

Das Jahr(一年)」

はイタリア旅行から生まれた創作の最高の結実です。

ファニーの名作ピアノ曲集

ファニーがイタリアで過ごした一年(正確には11か月)の情景を音にしたピアノ音楽の大作が「「Das Jahr(一年)」。

一月を一曲とした一年分の曲集。

最後には一年を振り返るエピローグつき。

同じコンセプトでのちにロシアのピョートル・チャイコフキーが12ヶ月を描いたピアノ曲集「四季」作品37a(1876年)を発表しますが、チャイコフキーはファニーの傑作曲集を知りませんでした。

出版されなかったためです。

ロマン派作曲家ファニー・メンデルスゾーンの音楽をただ一曲で代表するならば、多くの方がこの名作ピアノ曲集を選ぶことにも頷ける、ファニーらしさの全てが含まれているドイツロマン派音楽屈指の名作なのに。

さてファニーの作曲した十二か月の音の情景。

「一月」は厳しい冬の情景なのか、厳かに始まり、音楽は壮麗にまるで序曲のように展開されてゆきますが、曲はそのまま次の「二月」へと休みなく流れ込み、ここで音楽はテンポを変えて、まるでソナタのようなドラマを現出させるのです。

「一月」は交響曲の序奏部分で、「二月」は交響曲の第一楽章ですね。

バッハのようにリズムが強調される色鮮やかな音の織物の世界。

ベートーヴェン張りの両手の指全てを使って豪快な和音で締めくくられます。ドイツ音楽の粋!

「三月」は長調と短調が目まぐるしく移り変わる、ファニーらしい「ピアノの歌」のスタイルによる大傑作。

「四月」と「五月」は春らしく、明るい希望がいっぱいの抒情溢れるロマンティックな歌。

「六月」と「七月」は短調の無言歌。特に「七月」は遅いテンポによる悲しみの歌。左手の重い不気味な和音は不安を煽る深い表現が独特です。

「八月」は舞曲。

「九月」は悲歌。

フェリックスの作品にはない、暗く閉ざされた想いで彩られた心象風景。

バッハ的な左手のアラベスクの雄弁さもまた印象深い。

「十月」はローベルト・シューマンを思わせる弾けるリズムが小気味よい佳品。

「11月」は全曲のリズム動機を受け継ぎながらも短調の色調で音のドラマが展開されてゆきます。

ピアノの鍵盤の広い音域が使われるダイナミックな一片。

華麗な音の乱舞の「十二月」。最後の三月がどれも舞曲なのも、交響曲の第四楽章を思わせる構成です。

フェリックスの代表作「イタリア交響曲」のフィナーレは超高速のイタリア舞曲サルタレロで締めくくられます。造りがよく似ていないでしょうか。

でもこのまま全曲を締めくくる壮大なフィナーレとはなりません。

ファニーの曲集にはもう一曲、エピローグが付けられていて、イタリアでの一年を回想するかのような瞑想的な一曲が添えられています。ファニーのイタリアの一年はこのように静かに幕を閉じるのです。

スコットランド交響曲もフィナーレは舞曲ですが、エピローグ付き。やはり姉弟の作品はどこか共通点があるように思えます。

「Das Jahr(一年)」の特徴は最初から最後まで、音の織物として流麗に流れてゆく「歌」であること。

各曲はシューベルトやショパンのような三部形式ではないこと(中間部が設けられていて、主部と対比される音楽が含まれる音楽)がメンデルスゾーン姉弟に共通する創作スタイルです。

全曲は序奏から始まって壮麗な音楽で世界が幕開けると、美しい歌や物思いが流れてゆき、最後は舞曲的な音楽となって、エピローグで結ばれるという構成なのです。

交響曲のように完璧な起承転結のプロポーションをもつ長大なピアノ曲集。

イタリアの情景からインスピレーションを得ているにもかかわらず、具体的な情景描写ではなく、見事に抽象化された作曲者ファニーの心象風景へと音世界は昇華されています。

通俗的なチャイコフスキーとは全く次元が違う音楽です。

チャイコフスキーの場合…

実はチャイコフスキーは依頼を受けてお金のために、有名なピアノ曲集「四季」をいやいやながらに書いたのだそうです(笑)。

人に頼まれるとNoとは言えないチャイコフスキーらしいエピソード!

舟歌の「六月」など、ピアノ学習者にはいまでも人気曲ですが、全身全霊を込めて書かれているファニーの大傑作と比べると、全く深みがありません。でも参考までに引用しておきます。

チャイコフスキーのピアノ小品はメンデルスゾーン姉弟の無言歌の直系の様式を受け継いだ音楽です。

フェリックスが無言歌の作曲でそうしたように、技術的に容易に演奏できるように意図的に書かれているために、初心者も頑張れば演奏できることには価値があります。

メディチ邸のローマ賞作家シャルル・グノーとの出会い

ローマでの最も面白い出来事は、若いフランスの作曲家シャルル・グノーとの出会いでした。

フランスには「ローマ賞」と呼ばれる芸術家のための奨学金がありました。

17世紀のフランス王ルイ14世が画家や彫刻家を育てるために創設した、フランスで最も権威あり由緒正しき若い芸術家のための登竜門の「ローマ賞」。

19世紀になると皇帝ナポレオンは「ローマ賞」の門戸を音楽家にも広げ、さらにはイタリアを占拠したナポレオンはメディチ家が所有していた、有名なメディチ邸を買収して、フランス学士院の「ローマ賞」受賞者の宿泊施設としたのでした。

受賞者には一年間の無償ローマ留学を与えられました。

お城のようなメディチ邸に何不自由なく一年も滞在することが許されて、文化遺産の街ローマの文化を満喫しながら、創作活動に専念することができたのです。

Villa Medici

「ローマ賞」の受賞者には

  • トマ

  • ベルリオーズ(代表作「ローマの謝肉祭」はまさにローマ由来)

  • ビゼー

  • マスネー

  • ドビュッシー

  • リリー・ブーランジェ

などという名だたるフランスの作曲家たちが名を連ねています。

ちょうどファニーたちがローマを訪れた1839年の受賞者は、後年大オペラ作曲家と知られることになる21歳のシャルル・グノーでした。

ヘンゼル一家がメディチ邸に招待された詳細はよく知られていませんが、ドイツ有数の大富豪メンデルスゾーン家の令嬢なので、滞在が許されたのでしょうか。

世の中はコネさえあれば何でもできてしまうものなのですから。

若いグノーはこうしてメディア邸を訪れたファニー(ヘンゼル夫人)と出会い、生涯に忘れられないほどの深い影響を受けるのでした。

フランスのグノーはドイツのバッハの音楽を全く知りませんでした。

それもそのはず、フェリックスが世間的に忘れられていたヨハン・セバスティアン・バッハを蘇らせたのが1829年でした。

それからわずか10年後の1839年では、まだフランスではバッハの音楽はほとんど知られていなかったのです。

メディチ家別荘に宿泊したファニーは、若いフランスの作曲家に弟フェリックスの作品、そしてヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品を暗譜で次々とピアノで弾いて聴かせたのでした。

驚嘆したのはシャルル・グノー!

バッハのフーガやコンチェルトなど、ファニーの奏でるバッハ演奏はあまりにも鮮烈で衝撃的なものでした。

生まれて初めて聴いた、いにしえのバッハの対位法音楽!

後年、功なり名を挙げた老いたグノーは回想録を書きますが、ローマ時代の思い出としてヘンゼル夫人ファニーから学んだバッハとフェリックスの音楽への深い感銘について特筆しています。

Charles Gounod
(1818-1894)

フェリックスの若きグノーとの出会い

面白いのはファニーがローマからライプツィヒのフェリックスへと送った手紙。

若いグノーは敬虔な母親の影響のために、大変にカトリックへの信仰心が篤い若者でした。

ローマカトリックの総本山ヴァチカンはローマ市内にあり、ローマで宗教活動に夢中になっていたのが若いグノー。

おかげでローマからフランスへと帰国したのちには、カトリックの司祭に本気でなろうと数年間にわたって神学校に通い、カトリックの叙階の小品級を認められるまでになります。

しかしながら、後年のフランス・リストのように副助祭の叙階を授けられるまでには至らずに、聖職者の道は諦めて世俗的な音楽家の生涯を歩むことになります。

音楽の才能を使って神様を褒め称える道を選んだのだとか。

ファニーは神父になることを夢見ている若い作曲家のシャルル・グノーとの出会いを熱烈にフェリックスに報告しています。

グノーの若さと音楽的情熱を褒め称えて、グノーがどれほどに自分のバッハ演奏を褒め称えてくれたかを書き送っているのです。

ファニーは音楽への情熱を共有できる青年との出会いを心から楽しみました。

嬉しかったのでしょうね。

わたしもNoteで自分の同じほどに音楽が大好きな人と出会えると、どこの国に住んでいる人であっても、幸せだと感じずにはいられません。

こうして音楽を愛するあなたがこの文章を読んでくれていることもとても嬉しい。

グノーはローマ留学を終えて帰路につくと、フランスではなくドイツ方面へと向かいます。

オーストリアのヴィーンでは、モーツァルトの「魔笛」を生涯初めて観劇して感動しています。のちの大オペラ作曲家グノーはこうして若き日の旅の中で育まれていたのです。

ヴィーンを後にしたグノーはさらに北のドイツのライプツィヒを目指します。

当時のヨーロッパ最大の作曲家と世間的にみなされていたフェリックス・メンデルスゾーンに会うためでした

こうして長旅の末にライプツィヒにて、若い信仰心溢れるフランス人作曲家は憧れの作曲家メンデルスゾーンに邂逅します。

満面の笑みを湛えたフェリックスはグノーに

それじゃ、君が姉の手紙の中で、クレイジーだと書かれていた若者か❗️

グノーが伝記の中で
メンデルスゾーンとの出会いを
紹介している言葉
クレイジーは宗教狂いを指す言葉

とユーモラスに歓迎。

この言葉はフェリックス一流のウィットに富んだ言葉。

フェリックスは自分自身の音楽の最高傑作はオラトリオ「エリヤ」「パウル」だと信じていたほどに宗教的な人でした。

カトリックとルター派という違いはあるにせよ、熱い信仰心に燃えてカトリックの司祭になることを望んでいるフランスの若者をフェリックスをことのほか気に入り、自身が楽長(首席指揮者)を務めていたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会にグノーを招待。

自分が指揮する交響曲第三番「スコットランド」を聴かせています。

作曲者自作自演の演奏会、いいですねえ。

また別の日には教会でヨハン・ゼバスティアン・バッハのオルガン曲を若き作曲家のために演奏して聴かせたのでした。

グノーは回想録の中で、フェリックス・メンデルスゾーンを自分が生涯に出会った最も偉大な音楽家として敬愛を込めて書き記しています。

名作「アヴェ・マリア」

グノーはご存じのように、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのプレリュードにメロディを載せてアヴェ・マリアを作曲した作曲家です。

アヴェ・マリア作曲秘話としては、義理の父親に聴かせた即興演奏の中から生まれたというエピソードがよく知られていますが、同時代のフランス人の誰も知らなかったヨハン・セバスティアン・バッハの音楽をグノーがよく知っていたのは、一人息子にバッハの名前を与えたほどにバッハを敬愛していたファニーと、グノーが誰よりも尊敬したフェリックス・メンデルスゾーンのおかげなのでした。

四小節単位で流れてゆく音楽
メロディは第二節から始まります
ミ~~~~ファ~~~~

グノーは19世紀フランスにおけるバッハ音楽紹介者の先駆けになります。

のちにアレクサンドル・ギルマン、カミーユ・サン=サーンス、セザール・フランクなどのオルガニストがバッハの音楽をオルガン演奏を通じてフランスに紹介するまで、フランスではほとんど誰もバッハのことを知ってはいなかったのです。

19世紀の半ばにグノーがフランスでドイツのバッハを知っているということは本当に稀有なことでした。

バッハの伴奏に載せられたアヴェ・マリアのメロディは世界中で最も愛されている有名な音楽の一つになりました。

きっとあなたもご存じですよね。

この美しい調べ。

グノーの名作「アヴェ・マリア」は、間接的とはいえ、このようにファニーとの出会いを通じて生まれた音楽なのです。

グノーがアヴェマリアを作曲したのは、メンデルスゾーン姉弟と出会ってから13年後の1853年。

けれどもファニーは1847年5月に42歳で、フェリックスは同年11月に38歳で帰らぬ人となっていました。

あまりにも早過ぎる死。

もう少し長生きすることが出来ていれば、ファニーはローマで出会った信心深く音楽への情熱に燃えていたフランスの青年が、自分が弾いて聴かせたバッハの前奏曲の上に美しいメロディを載せて素晴らしい歌を書いたことをどれほどに喜んだことでしょうか。

ヴィルヘルムの描いた結婚前のファニー

聖セシリア荘厳ミサ曲

グノーは後年、フランスでもっとも人気のあるオペラ作曲家の一人となります。

現代でもしばしば上演されるグノーの代表作は「ファウスト」や「ロミオとジュリエット」ですが、カトリック神父になりたくて神学校で神学を学んだグノーの代表作として、わたしは「聖セシリア荘厳ミサ曲」(1855年)を第一にあげます。

「アヴェ・マリア」に勝るとも劣らぬ美しいメロディの宝庫であるカトリックミサ曲。

こんなにも歌心溢れるミサ曲は珍しい。

モーツァルトの美しすぎるミサ曲にダメ出しをしたザルツブルク大司教コロレド伯爵ならば、グノーの美しすぎる音楽に激怒したことでしょう。

生涯「歌」を書き続けたグノーらしさを何よりも伝える美しい音楽です。

ここではベネディクトをどうぞ。

名指揮者イゴール・マルケヴィチの録音は同曲最高の名演として長く愛されてきた録音。

ソプラノのゼ―フリートの名唱はいまもなお、唯一無二です。


6.「日曜コンサート」に続く


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