アニメになった児童文学から見えてくる世界<7>:子供のための漂流記
漂流記を読むことが大好きです。
イギリスの作家ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」は、のちに数多く生み出される漂流文学の嚆矢となった小説です。書かれたのはなんと1719年のこと。世界の全ての優れた近代文学に先立つ、最も古い近代小説なのです。
裕福なオランダ貿易商人の息子ロビンソンは、親の言いつけを守らずに、若気の至りからアフリカに行き、奴隷とされても逃亡して、果ては無人島に単身流れ着き、彼の地で26年もの歳月を過ごします。
難破船から銃や工具などを持ち出すことに成功したために、それらを有効活用して、独自の知恵と努力ゆえに生き残るのですが、冒険物語というよりも、どこか教訓譚っぽさを持ち、自分がこんな目にあったのは親の言いつけを守らなかったからだみたいなことが書かれていて、数年前に読み返したときには笑ってしまいました。
難破して生き残ったのはロビンソン一人だけでしたが、家族と一緒ならどうなるだろうという発想で描かれた物語が、1812年出版のスイス人ヴィースによる「スイスのロビンソン」でした。
女の子が主人公の漂流物語
さて「スイスのロビンソン」、原作は現代文明を嫌ったスイス人牧師の一家が無人島に漂流して理想の「新スイス」を作り上げる物語ですが、アニメ版は一転して、スイスからオーストラリアに移住するロビンソン医師とその家族という設定。
しかも原作の男だけの兄弟たちのひとりは女の子に変更。
子供たちの年齢も、視聴者の大部分である子供の年齢に近くなるように幼くなっています。
主人公は原作にはいない十歳の女の子のフローネ。
太い眉毛のかなりユニークな顔立ちの女の子。
何故だかお母さんにもお父さんにも似ていないフローネなのですが、おかげでキャラデザのユニークさゆえに、非常に親しみの持てる愛嬌ある顔立ちと言えるのでは。世界名作劇場の主人公たちは美形が多いですからね。
漂流記の面白いところは辿り着いた無人島で、新しい生活を一から作り出してゆく面白さにありますが、「フローネ」は、木の上に家を作ったり、食料の豊富な熱帯の孤島において、いろいろ居心地の良い生活を作り出して、島に結構楽しそうに馴染んでしまうところがユニークでした。
十五歳の息子のフランツはこんなに食べ物があって居心地が良ければここにずっと住んでもいいのではないか、ということを父親に話します。ですが父親は、生きるとは食べてゆくだけではない、文明人として人と交流して文化的な暮らしをしなくてはいけないと語ります。
先進国スイスの教養人である医師の父親エルンストの語る「人はパンのみにて生きるにあらず」。
無人島で暮らしたい?
文明社会の暮らしに疲れると、我々は時々そこから逃げ出してしまいたくなりますよね。
そして無人島に本を一冊、または音楽を一曲持ってゆくのならどれがいいかと問う質問は定番。きっと一冊の本や、再生可能ならばの話ですが一曲の音楽を持ってゆくって文明的なこと。
都会人は誰もいない無人島のような土地で都会とは違った別の時間を感じたい。流れ着くところ次第では文化活動を営む余裕などなく食べることと、身の安全を考えるだけの生活になる可能性の方が高いのですが、衣食住の心配のいらない自給自足の生活が出来るならば、無人島生活は人生の休暇に通じます。
ですので、のちに十九世紀の科学小説の大家として名を馳せるジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」などが書かれる。
原題は「二年間の休暇」というものでした。休暇ほど長い人生においては最高の学習機会もないのかも。
フローネの無人島滞在も一年少しばかり。
最後には船を作り、無人島を脱出して、無事に文明社会に生還します。
母親は帰還後には子供たちの成長にとって大事な時間、貴重な体験だったと感慨を述べますが、それも島から文明社会に帰還できたから言えたこと。
たしかに自分一人だけではなく、誰かと一緒にほんの数年を過ごすだけならば、無人島滞在も悪くないかもしれません。アニメの長閑な日常を見ているとそんなふうに感じてしまいます。
本当に何もない無人島で、全てを一人で作り出さないといけないような悲愴な漂流記も沢山あります。
わたしは日本の南海の鳥島に漂流した漁師たちの記録を小説にした吉村昭「漂流」に大変感銘を受けました。
アホウドリしかいない島で生きる意味は?
やはり文明社会に帰ることしかない。
食べることに必死の生活で、ただそれだけでは人は人ではいられない。
そんなことを深く考えらさせられたのです。滝に飛び込んで自殺する人も、無気力になって慢性的な自殺を受け入れる人もいました。
アニメにおいても、マラリアに罹患して一人で洞窟の中で死んでいった人の遺した食べることばかりの書かれた日記など、やはり人は文明社会から離れては文化的な生活はできないものだなと思わせます。
脱出することだけを生きがいにして目的にして生きてゆく暮らしは悲壮です。でも人生の悟りを開いてから死んで行けるのかもしれません。
一人でなければ、無人島にいても、小さな社会交流も生まれます。
そんなふうな読みやすくて楽しい漂流記はこれです。
「無人島に生きる十六人 」は明治31年に起きた実話を描いた本です。
ウミガメをひっくり返して捕まえ、何度も亀料理に舌鼓を打つ描写は牧歌的です。漂流も運次第でどこに辿り着けるかで、無人島滞在の楽しさも苦しさも変わるものです。十六人は最後には救助されて日本へと生還します。
文明的とは?
あるネットの人気投票では「ふしぎの島のフローネ」は世界名作劇場というアニメシリーズ中の最も人気のある作品にさえ選ばれています。
文明と文化とは何かを考えさせてくれる、楽しくてサバイバルの勉強になる作品だからでしょうか。
難破前の文化的なスイスのベルンの音楽生活などを思うと、作品は文化的とはどういうことかをいろいろ考えさせてくれます。文化的から程遠い飲んだくれの船乗りウィリー・モートンが実は心優しく気高い精神の人だったりと、文化的であることが必ずしも人を高貴に人間的にするとは言えないのかも。
でも悪人の登場しないアニメはお伽話です。お父さんのエルンストは何でもできるんです。何が起きてもポジティブで、子供の失敗に怒らない優しい父親であり、万能な知識を持つ彼のような人物は実在しそうにありませんが、ある意味、理想的な人格者の人物像ですね。
人らしさとは文明的とは何なのでしょうか?
世界名作劇場の傑作アニメ「フローネ」は大人にもお勧めです。
底抜けに明るい有名なオープニングの主題歌よりも、エンディングの歌の優しさにわたしはひかれました。機会があればご覧になっていただけると嬉しいです。子供の頃にこのアニメを見られた方はこの歌をぜひお聞きください。
テレビで放映されることのなかった歌詞の第二番が含まれています。
参考文献:
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