
天才姉弟の関係:知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(6)
ファニー・メンデルスゾーンの生涯を年表にして、弟フェリックスの生涯(灰色の部分)と重ねて分かりやすくしてみました。
ハンブルク(1805~1811)
1805年11月14日:父アブラハム、母レアの長女としてハンブルクに生まれる
1809年2月3日:長男フェリックス誕生
(アマチュアの名ソプラノ)
弟パウルは1812年生まれ
(アマチュアのチェロ奏者)
1811年:ハンブルク市がユダヤ人に対する経済制裁を決定。母方の実家(祖母ベラと大叔母サラのレヴィ家・サロモン家・イツィヒ家)のあるベルリンに移住。
ベルリン:結婚前(1811〜1829)
1816年3月(11歳):メンデルスゾーン家の姉弟四人全員、洗礼を受けてルター派キリスト教徒に改宗。正式に姓をメンデルスゾーン=バルトルディに改める。バルトルディは母親レアの兄ヤコブ・サロモンが購入したベルリン郊外の土地の名前。バルトルディに改姓したのは先に改姓していたヤコブの先例にレアが倣ったため。そののち、家族でパリを訪れる。マリー・ビゴよりピアノレッスンを受ける。
1819年(14歳):ベルリン・ジング・アカデミー(ベルリンの文化生活に大きな影響力を持った合唱団)の作曲家カール・ツェルターに作曲を師事。
1819年:八歳のフェリックス、最初の作品「ピアノ四重奏曲ニ短調」
1820年:九歳のフェリックス、自作による最初の公開演奏会
1820年:(15歳)弟フェリックスと共に(のちに妹レベッカも)ジング・アカデミーに参加。アルト合唱歌手としてバッハの合唱曲に親しむ。
1821年:(16歳)ヴィルヘルム・ヘンゼルと出会う。ファニーの初恋。
1821年:(12歳)師ツェルター指導の下、ジングアカデミーでバッハのカンタータを指揮。エドゥアルト・リーツにヴァイオリンを師事
1822年:(13歳)師ツェルターを通じて晩年のゲーテと出会う。ゲーテは神童フェリックスを寵愛。ヴァイオリン協奏曲ニ短調
1823年:メンデルスゾーン家邸宅内で日曜コンサート(サロン)を開始。ヴィルヘルム・ヘンゼル、五年に及ぶイタリア遊学に旅立つ。18歳のファニーはサロンの客のためにピアノを毎週演奏。歌曲30曲を作曲。
1826年:(17歳)「夏の世の夢」序曲。最初のグランドツアー。イングランドとスコットランドの各地を観光。数々の作曲のためのインスピレーションを得る。絵葉書代わりの大量の写生画を描く。ファニーはベルリンで手紙を受け取る役。
1827年: ベルリン大学で聴講生として哲学(ヘーゲル)、歴史、地理を学ぶ
1827年:(22歳)フェリックスの歌曲集作品8の中に彼女の名を伏せてファニーの歌曲三曲が出版される。1830年の作品9にもさらに三曲。
1828年:(23歳)復活祭ソナタ作曲
1829年3月:ベルリン・ジング・アカデミーでのバッハのマタイ受難曲歴史的蘇演。
ベルリン:結婚後(1829〜1847)
1829年:(24歳)10月3日、ヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚。以後ヘンゼル姓を名乗る。
1830年:(25歳)6月17日、息子セバスティアン出産、12月コレラ伝染病発生、父アブラハムと叔母ヘンリエッタ罹患。ヘンリエッタ死去。
1831年:(26歳)母レアに変わり、以後ファニーが日曜コンサートの主催者となる。日曜コンサートはベルリン随一の文化的イヴェントとして好評を博す。オラトリオ「聖書の情景」(コレラ・カンタータ)などの大作を量産。
1832年:ファニー唯一の本格的管弦楽作品「序曲ハ長調」作曲。流産。
1830‐1831年:デルフィーネ・フォン・シャウロスとのロマンス。ピアノ協奏曲第一番、ロンド・カプリチオーソ。
1831-1832年:二度目のグランドツアー(イタリア・ロンドン・パリ)。フレデリック・ショパンのパリデビューコンサートに出席。
1833年1月:前年に死去した師ツェルターのジングアカデミーの後継者に立候補するも選ばれず、深い挫折を経験。ユダヤ出自を理由に選出を拒否した(らしい)ジングアカデミーに失望したファニーとレベッカも退団。
1833-1834年:デュッセルドルフ市音楽監督。苦難の時代。オラトリオ「聖パウロ」、序曲「フィンガルの洞窟」
1834年:(32歳)日曜コンサートにて序曲ハ長調初演される。ピアノ三重奏曲ニ短調(死後に作品11として出版)、弦楽四重奏曲変ホ長調(未出版)
1835年11月:(33歳)父アブラハム死去。メンデルスゾーン銀行の事業は次男パウルが引き継ぐ。
1835年:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長に任命される。飛躍の時代。
1836年:音楽的教養は持たないけれども、良妻賢母となるセシル・ジェンローと結婚。二人は5人の子を作る。
1837年:四度目の訪英。ウィンザー城のヴィクトリア女王の御前での演奏会
1837年:(32歳)シュレジンガー社より、以前にフェリックスの名前で出版されていた歌曲6曲(フェリックスの作品8と作品9)が改めてファニー・ヘンゼルの名前で初めて出版される。
1838年2月:(33歳)フェリックスのピアノ協奏曲第一番を慈善演奏会のために生涯で初めて公共の場で演奏。ピアノ小品「ノットゥルノ」ト短調。
1839年8月‐1840年7月:(34歳‐35歳)イタリア旅行。ローマにてフランスの作曲家シャルル・グノーと出会い、バッハをフランスに伝える。
1840年3月21日:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して、シューベルトの大ハ長調交響曲を世界初演。プロイセン新国王フレデリック・ヴィルヘルム4世、フェリックスにプロイセン王国宮廷楽長の称号を与える
1841年3月31日:シューマンの交響曲第一番「春」を初演、4月4日、バッハのマタイ受難曲をバッハ所縁の聖トマス教会にて百年ぶりに上演
1841年6月:ボンのベートーヴェン記念碑のための「厳粛な変奏曲」作品54
1841年:(36歳)ピアノ曲集「一年」
1842年:(37歳)母レア死去。ファニーがメンデルスゾーン家の家宰を取り仕切るようになる。
1840年6月24日:グーテンベルク活版印刷400年記念のための「祝典歌」(聖歌「天には栄え」、25日、交響曲第二番「賛歌」初演
1842年:イギリス旅行、ヴィクトリア女王に個人的に謁見し、スコットランド交響曲を女王を献呈
1843年:フェリックス、ライプツィヒ音楽院を創設、初代学長に。聖トマス教会にバッハ記念碑を建立。プロイセン国王の依頼による劇付随音楽「夏の世の夢」
1844年:イタリア交響曲最終稿出版、ロンドンにて忘れられていたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲復活上演
1845年:ヴァイオリン協奏曲ホ短調
1846年8月:英国バーミンガムにおいて、オラトリオ「エリヤ」初演(英語上演)
1845年秋:フィレンツェに住む妹レベッカの出産を手伝うためにイタリア訪問。
1846年:(41歳)作品出版開始。作品1(歌曲集)と作品2(ピアノ小品集)。
1847年:(42歳)5月14日、恒例の日曜コンサートのためのフェリックスの作品をリハーサル中に脳卒中で急逝。
1847年:(38歳)フェリックスは姉ファニーの遺作を作品11まで出版するも、同年11月4日にファニーの死の僅か半年後に死去。
以上がファニーとフェリックスの生涯の主な出来事です。
最も印象的なのは二人の最期。
二人とも同じ死因、脳卒中で亡くなっているために遺伝系の疾患だったという疑惑がどうしても拭えないほど。
ジェニー・リンドとのロマンス???
フェリックスは晩年にスウェーデンの歌姫と呼ばれた、19世紀で最も有名な歌手の一人であるジェニー・リンドと出会っています。

二人が出会ったのは、1844年10月。
「スウェーデンのナイチンゲール」と呼ばれた、リンドの透き通る美声にフェリックスは惚れ込み、ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会への出演を依頼。
ジェニー・リンドはフェリックスのバトンで1845年12月、1846年4月の二度も歌ったのでした。
1846年6月のアーヘンにおけるニーダーライン音楽祭にはフェリックスは指揮者として招かれて、ジェニー・リンドと共演。
オラトリオ「エリヤ」の中でも最も痛切な美しさを持つ名歌「聴け、イスラエルよ!」をリンドのために当て書きしています。
ソプラノの高音域がよく活かされている名歌。
ジェニーの美声が偲ばれます。
歌姫ジェニー・リンドと大作曲家メンデルスゾーンとの交流は、歌姫に横恋慕をしていたデンマークの童話作家クリスティアン・アンデルセンとの関係も含めて、スキャンダル的なエピソードの少ないメンデルスゾーンの生涯の中で最も興味深いロマンスとして物語られているほど。
フェリックスは彼女の声を念頭に置いてオペラ「ローレライDie Loreley」を作曲(未完)。
全てのジャンルに大傑作を残したフェリックスがまだ成功していなかった唯一のジャンルがオペラだったからでした。
したがって、最晩年(1846年から1847年)のフェリックスがジェニーの美声を常に思い続けていたことだけは間違いありません。
半分だけ完成された、第一幕の中の合唱付きソプラノアリア「アヴェ・マリア」はジェニーのための美しいソロ。
フェリックスがジェニーに最後に会ったのは1847年4月26日にロンドンでヴィクトリア女王とアルバート公が出席する演奏会でした。ジェニーは客席でフェリックスが弾き振りするベートーヴェンのト長調協奏曲(第4番)を聴いています。
この折、女王はフェリックスをバッキンガム宮殿に四度目となる招待をして、オラトリオ「エリヤ」を聴いた感動を作曲家に直接伝えています。フェリックスは訪英中、オラトリオ「エリヤ」を各地で演奏しました。
ヴィクトリア女王は心底、フェリックスの大ファンでした。
下世話な邪推はしたくはありませんが、ジェニーとフェリックスの間になんらかのロマンティックな関係があったとすれば、前年6月のアーヘンにおける数日間と、この4月から5月にかけてのロンドン滞在時となりますが、ロマンスには全くの資料的な根拠は存在しません。
しかしながら、フェリックスの死を知ったジェニーは異常なほどに嘆き悲しみ、打ちひしがれます(この深い嘆きこそがロマンス伝説の源?)。
ジェニー・リンドはフェリックス・メンデルスゾーンについて次のような言葉を書き遺しています。
私の魂を満たしてくれた唯一の人❣
翌1848年12月、立ち直ったジェニーは英国でのメンデルスゾーン追悼慈善公演を行い、オラトリオ「エリア」では彼女のために書かれたアリア「聴け、イスラエルよ」を歌い、公演で得られた利益をもとにジェニーはメンデルスゾーン奨学金を設立しています。
「怖い絵」シリーズで有名な中野京子さんの本を読むと、きっとメンデルスゾーンのことをもっとよく知りたくなりますよ。
真相の知れぬロマンスはさておき、メンデルスゾーンの人生の中で最も謎めいているのは彼の最期。
現在においても世界一の管弦楽団の名声をもつライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を世界一のオーケストラに育て上げて(現代に続く全ての管弦楽団の基礎を確立)
明治日本の夭折した悲劇の人滝廉太郎も留学して学んだ、現代においてもドイツ屈指の名門音楽大学ライプツィヒ音楽院の創設者としても知られるようになった(現代に続く音楽教育の基礎を確立)、
名実ともに欧州最高の音楽家となったフェリックス・メンデルスゾーンは、どうしてあれほどにもあっけなく、若くしてあの世に逝ってしまったのか。
天才過ぎたために脳の造りが常人とは異なっていたのか?
メンデルスゾーンは後半生、激しい頭痛を定期的に経験していました。
動脈瘤、血管障害も含めて、脳になんらかの欠陥を抱えていたようで、1840年頃から公的な立場からの完全な引退の意思を家族に伝えますが、あまりにも数多くの社会的な重責を担っていたフェリックスには個人的な理由からの自由選択はできなかったのです(博愛主義者の欠点です)。
そのような状態に置かれていた過労死寸前のフェリックスはファニーの死の知らせを仕事先のフランクフルトで聞き、彼もまた死んだように卒倒したと伝えられています。
それ以降、あまりにもひどいグリーフ状態となり、ゲヴァントハウスの指揮活動も副指揮者ニルス・ゲーゼに一切を委ねます。
悲嘆の淵において、フェリックスは生涯最後の作品となる「弦楽四重奏曲第六番」ヘ短調作品80ばかりは姉ファニーの追悼作品として死の二月前に完成させ、ヴィルヘルムと共に姉の遺作の出版に努めて作品6から作品11までの作品を出版します。
けれども、ファニーの死という精神的な打撃から立ち直ることはできないまま、19世紀的良妻賢母の鑑のようなセシルの献身的なサポートの甲斐もなく、弱り切っていたフェリクスは最後の脳卒中を引き起こすと、そのまま帰らぬ人となったのでした。

(1817-1853)
セシルもまた、フェリックスの死後は絶望して
わずか五年後に他界
五人の子供たちは孤児となり、セシルの母と
フェリックス・ファニーの弟パウルに引き取られることになります
何らかの遺伝的な健康問題を抱えていたフェリックスでしたが、死の引き金となったのは間違いなく、ファニーお姉さんの死でした。
最後の半年間のフェリックスの日々はあまりにも惨めなものでした。
ギフテッドなファニーとフェリックス
二人がこれほどにも親密だった理由のわたしの個人的な推論は以下のようなものです。
現代的な解釈では、フェリックスはあまりにギフテッドな子供でした。
かのゲーテにさえも寵愛された神童フェリックスは同世代の年齢の友達を全く持つことはできなかったことは想像に難くない。
ヴァイオリン教師として雇われた8歳も年上のエドゥアルト・リーツと親密になり、大親友となりますが、12歳の少年が20歳の青年と対等な関係を築くことは普通ではありません。
このような子供が孤独を感じずにはいられなかったとすれば、自分と同じほどにギフテッドで、同じほどに天賦の音楽的才能を持っていた世界で唯一の存在だった四つ年上の姉ファニーの存在のおかげであるとしか思えません。
余りにも聡明なフェリックス坊やと同じレヴェルで遊べる相手など、世界中のどこにもいなかったのです。
同じ家で生まれ育ったファニーお姉さん以外には。
いつだってファニーお姉さんに守られて、ファニーお姉さんについて回ったフェリックス坊やにとって、ファニーお姉さんはもしかしたら母親以上に大切な存在だったのかもしれません。
フランス語、イタリア語、英語、ラテン語に堪能な語学の天才、乗馬・水泳さえも完璧で、ありとあらゆる分野の学問を幼少期より最優秀の家庭教師から学び、全てを吸収、学習できた文武両道のフェリックス。
かのフランツ・リストはパリでメンデルスゾーンと初めて出会い、数多くの言語に堪能で、ピアノ演奏技術も自分に引けを取らず(フェリクスはベートーヴェンの皇帝協奏曲を得意にしていたほど)ヴァイオリンもヴィオラも誰よりも上手に演奏できるメンデルスゾーンの才能の奥深さに恐れ入ったほどでした(ピアニストのリストは弦楽器が弾けませんでした。羨ましかったのですね笑)。
大人たちの誰もが子供であるフェリックスを褒め称える中で、ファニーお姉さんだけは、そんなフェリックスの寂しさと人前では決して見せない彼の本音を知っていたのかもしれません。
フェリックスにとってのファニーとはそういう人だったのだと思うのです。
またフェリックスは生涯躁鬱気質に苦しめられています。
躁病的なときにはとてつもなく活動的になり、類い稀なる創造力を発揮するけれども、鬱に取り憑かれると何もできなくなる。
また激昂したりすると怒りはいつまでも収まることはないのです(思い通りにならないオーケストラに対して癇癪をぶつけることも。完璧主義者メンデルスゾーンは団員に対して、とても厳しい指揮者でした。でも薄給の楽団員たちの給料値上げ交渉を行って見事勝ち取るなど、良い楽長でした)。
大文豪ゲーテも躁鬱気質でした。
いつの時代でも、ギフテッドな子供は孤独なのです。
ファニーの最晩年の出版について
作品を公表して作曲家として知られることは女性にあるまじき行為であると、家庭以外での音楽活動を許されなかった大資産家令嬢ファニー。
類い稀なる音楽的才能を持っていた彼女の宿願は、全身全霊を持って書き上げた自作品の出版でした。
単純計算しても彼女が生涯に創作した音楽作品の総数は、小品が多かったとはいえ、フレデリック・ショパンの二百数曲を上回ります。
家に閉じこもっていた、文字通り深窓のご令嬢だったファニーは机に向かえば、作曲ばかりしていたのかもしれません。
家事や社交行事の余暇には作曲、子育ての手が空けば作曲。
若い頃は後に旦那となる恋人ヴィルヘルムは遠いイタリアにいて、親しく会うことも叶わない。だから一人になると手紙を書いて、また作曲。
作曲家として認められたいファニーはまず、作曲家としての将来が嘱望されている弟フェリックスの出版作品中に自作を忍ばせて、自作を弟の作品として世に問いました。
おかげでヴィクトリア女王にフェリックスの作品であると勘違いされてしまうという愉快なエピソードが生まれてしまう羽目にも。
1835年にファニーの作品出版に反対していた父アブラハムが他界した2年後の1837年、ようやくドイツの出版社シュレジンガーから上記の弟の名前で出版されていた六曲の歌曲が自分自身の名前で出版されるようになります。
ファニーの作曲家としての独立への第一歩でした。
その後、イタリア旅行を経験して外の世界を知るようになり、より自由な人生を求めるようになったためか、41歳にして待望の作品1となる歌曲集、作品2となる「ピアノのための歌」曲集をシュレジンガー社から出版します。
コンサートピアニストのローベルト・シューマン夫人クララと個人的な交流を持つようになったのもこの頃でした(だと推測されています)。
女性ピアニストとして活躍していたクララの存在はファニーの作品出版にどれほどの影響を与えていたのでしょうか。
この点については今後の研究が待たれます。
確かなのは、ファニーの死の年1847年の2月から3月、シューマン夫妻がオラトリオ「楽園とペリ」上演のためにベルリンを訪れた折、ジングアカデミーでの演奏会で、クララがファニーの作品1の歌曲を公開演奏したこと(クララは歌手を伴奏したのでしょう)。
ハインリヒ・ハイネ作詞の「どうしてバラはあんなに蒼ざめているの?」。
どうしてバラはあんなに蒼ざめているの?
話して 愛しい人 どうして?
どうして青い芝生では
青いスミレが黙っているの?
どうして歌うの あんなに悲しい声で
ヒバリは 大空の中
どうして立ち昇るの バルサムの木からは
枯れた花の香りが
ファニーとクララは親交を深めて意気投合します。
シューマン夫妻は日曜コンサートに大変に感銘を受けて、歓待してくれたファニーのメンデルスゾーン家のあるベルリンへの定住を本気で検討します。
シューマン夫妻は当時、クララの演奏旅行のために、今日的にはノマド(Nomad)ともいえる生活を送っていました。
旅行に行かないときにはドレスデンに住んでいましたが、クララと心を通じ合わせることができる新しい友人ファニーの住む大都市ベルリンに住むことは有益だと考えたのでしょう。
さてこのように、ファニーの作曲家としてのキャリアは新しい支持者も得ることができて、今まさに始まろうとしていたのでしたが、彼女の人生が変わり始めた途端、弟フェリックスの作品上演のためのリハーサル中に突然倒れ込んで、急逝。
誰も思いもかけなかった、あっけない死でした。
過去二十年に数百曲と書き貯めてきた作品を出版してみたかったファニーはどれほどに無念だったことでしょうか。
三月に会ったばかりのファニーの訃報を聞いたクララは大変なショックを受けるのでした。
クララもまた、女性作曲家としての悲哀を心から痛感していた人だったからです。
親密になったばかりの同志を失ったクララは前年に完成したばかりだったピアノ三重奏曲作品ト短調17を「ファニー・ヘンゼルの思い出のために」に献呈することに決めるのでした。
ファニーの死後に献呈されたクララの作品は、おそらくフェリックス以外から彼女に献呈された唯一の作品。
ファニーがもう少し長生きしていれば、クララの作曲家としての活動もまた全く別の形を得るものだったことでしょう。
「ピアノ三重奏曲」作品11
ファニーの死後に遺作出版に取り組んだフェリックスが出版したファニーの最後の作品は「ピアノ三重奏曲」作品11でした。
ファニーが作曲した450曲を超える作品のほとんどは、彼女の楽器であるピアノのための作品(ピアノのための歌、ピアノソナタ、前奏曲、幻想曲、小品集)と歌曲集なのですが、大作曲家の証とされる伝統的なジャンルにも大傑作を書き遺して、次のような大曲が知られています。
オラトリオ「聖書の情景」(コレラ・オラトリオ:1831年)~前年のベルリンでのコレラ大流行の犠牲者への哀悼の音楽。家族の一員の叔母の死に触発されて創作された作品。
カンタータ「賛歌」(我が子誕生の喜びのためのカンタータ:1831年)
カンタータ「ヨブ」(旧約聖書のヨブ記より:1831年)
管弦楽序曲ハ長調(1832年)
弦楽四重奏曲変ホ長調(1834年)
ピアノ三重奏曲作品11(1834年)
大作はどれも弟フェリックスがイタリアへのグランドツアーに出かけた1831年から数年のうちに書かれていて、全作品がメンデルスゾーン家で開催されていた日曜コンサートで演奏されました。
同じ未出版でも、ほとんどが未完成状態で生前には演奏されることがなかったシューベルト作品とはこの点が大いに異なります。
ファニー未出版作品の完璧なまでの完成度の高さは上演済みのため。
日曜コンサートはメンデルスゾーン家の実質的な音楽監督ファニーの意志で完璧に主宰運営されていて、メンデルスゾーン家のサロンが大都市ベルリンで最も重要なサロンへと成長したことはファニーの努力の賜物でした。
ベルリンの文化人(ベルリン大学のフンボルト教授など)はこぞってメンデルスゾーン家に通い、父アブラハムは鼻高々だったはずです。
日曜コンサートの運営は多くの文字を割いて解説すべき重要な事項ですが、この点は次回に後回しにして、ここではフェリックスがファニーの遺志を継いで出版した最後の作品であるピアノ三重奏曲ニ短調を取り上げましょう。
私見では、全てのロマン派室内楽の作品の中の最高傑作の一つとみなされる、フェリックス・メンデルスゾーン不滅の名作「ピアノ三重奏曲ニ短調」作品49と、ファニーの作品は全く同格の大傑作。
その昔、確かクラシック専門雑誌「レコード芸術」で、メンデルスゾーンの作品は上品すぎて深みがないと言われる方はニ短調のピアノ三重奏曲を聴きなさい、ピアノ三重奏曲を聴けばあなたのメンデルスゾーン観は変わるとまで書かれていたほどでした。
幻想的な情景の中を軽やかに飛び跳ねる「妖精的な Elvish 」音符が踊る音楽が得意なフェリックスには珍しく、ほの暗く冷たい抒情の中で熱い情熱がほとばしる作品。
ファニーとフェリックス、二人の同じニ短調作品の作曲の順序は次のようなものです。
ファニーのニ短調(1834年)
フェリックスのニ短調(1839年)
したがってフェリックスの大傑作にファニーの影響が色濃く反映されていると考えることは全く妥当なことでしょう。
フェリックスとファニーはお互いの作品のほぼ全てを知悉していました。
ファニー作品の五年後に書かれたフェリックスの「ピアノ三重奏曲第一番」作品49の暗い色調は、彼にしてはあまりに例外的。
普段は大らかで健全な魂ばかりを感じさせずにはいられないフェリックスなのに、どうしてこの作品だけがこれほどに悲劇的なのかと言えば、それはファニーの作品こそが、フェリックスのフェリックスらしくない、名作の中の名作ピアノ三重奏曲作品49の原型であるためです。
ファニーの作品、ピアノ主導で悲劇的な世界が現出します。
フェリックスの作品は嘆きのチェロの深い歌で開始する部分がとても魅力的。曲冒頭部分は全く異なりますが、二人の作品が描き出す音楽の色調はよく似てはいませんか。

フェリックスのピアノトリオの自筆譜より
ローベルト・シューマンにも同じニ短調で書かれた、名作ピアノ三重奏曲作品63(1847年)がありますが、あまりに内省的でメンデルスゾーン姉弟の作品とは全く別世界の音楽です。
ローベルトは作品を上述のクララの作品に触発されて書き始められたようですが、作品完成はファニーの死の一月後の6月17日です。
ローベルトもクララ同様にファニーに感銘を受けて好意を抱いていたために、ローベルトの哀切な作品の中にはファニーへの思いも刻み込まれていたのかもしれません。
さて、フェリックスの作品ですが、三つの楽器は密接に絡み合い、和声の響きは重厚。シンフォニックで力強い。三つの楽器の有機性の高さはまさに天才フェリックス・メンデルスゾーンの筆の冴えといったところでしょうか。
ファニーの作品はバッハのトリオソナタのように各声部が独立しあっていますが、弦楽器パートが単純です。ピアノパートに細かい音が多くて圧巻。弦楽器パートの単純さはヴァイオリンとチェロはメロディ専門で、ピアノはバッハ的な通奏低音であるとも解釈できます。
第二楽章はアンダンテ・エスプレッシヴォ(中庸のテンポで表現的に)。
透明な悲しさを歌う弦楽器と悲劇的な音を刻むピアノの世界の悲壮感が特徴的だった第一楽章と対になる穏やかな歌の楽章ですが、やはり抑圧された悲しみの音楽。
バッハのトリオ・ソナタのように各楽器が独立して音楽を奏でる完璧な三重奏。
第三楽章は短い間奏曲。「歌 Lied 」と題されているのがユニーク。
伝統的な室内楽ではここにスケルツォやメヌエットなどの舞曲を置くのが決まりなのに、ファニーは独自の劇的構成を用いて、全曲のクライマックスとなるべきフィナーレを導きます。
冒頭の美しいピアノソロはまるで無言歌。
アルペッジョばかりを奏でていたピアノはやがてリズムセクションとなり、ヴァイオリンとチェロもピアノに合わせて歌い出す。
そして全曲を締めくくるコーダは飛び跳ねるリズムが印象的な舞曲となって全曲を締めくくるのです。
ファニーと同じ四楽章のフェリックスのピアノ三重奏曲は、ファニーの作品よりもずっと伝統的な様式の音楽。
ファニーの三重奏曲の特徴はまさに歌の人であるファニー節全開で、最初から最後まで歌とリズムの対比がお見事です。
強いて欠点を挙げるとすれば、全体としてピアノ主導でありすぎるきらいはあり、ヴァイオリンとチェロのパートにはピアノパートが要求する高度な演奏技術が必要とされないこと。
弦楽器の扱いに関しては熟練の弦楽器奏者であり、交響曲作曲家であるフェリックスに問答無用に軍牌が上がります。
ファニーは弦楽器演奏が出来ませんでした。
女性がヴァイオリンを演奏するなど
はしたない!
女性にふさわしくない
と考えられていたようです
とされていた時代だったからです。
ピアノや声楽は良くても、ヴァイオリンやチェロはダメだったのです。
けれども、これほどに歌と独創的な発想にあふれるファニーの三重奏曲は、こうした欠点を全く無効にしてしまうほどに魅力的なのです。
弦楽パートが弱いのはショパンのピアノ三重奏曲ト短調作品8(1828年)も同様です。
演奏しやすい人気ジャンルであるために、ロマン派時代のピアノ三重奏曲には他にも、ブラームス、スメタナ、ドヴォルザークなどからチャイコフスキー、ラフマニノフ、ラヴェルなど、綺羅星のごとくにたくさんの名作があるのですが、そのような名作のどれと比べても、カンタービレな歌で彩られたバッハ張りの対位法とリズムの饗宴は、彼女だけが持つ唯一無二の個性です
熟練のフェリックスのニ短調トリオは間違いなく、三つの楽器の有機性という意味でファニーの作品よりも優れていますが、ファニーの作品の影響なくして、フェリックスの名作は生まれなかったことは記憶しておくべきでしょう。
幼いころから自分のことを誰よりも理解して、長じて作曲家となってからも、ヨーロッパ一の音楽家となった自分と対等のレベルの音楽を書くことができた、最愛の世話焼きファニーお姉さんがいつだって傍らにいたことに慣れすぎていたフェリックス。
晩年のフェリックスは様々な健康問題を抱えていましたが、フェリックスのにとっての精神的支柱的存在だったファニーを失ってしまったことで、全ての生きる希望さえも失ってしまったことも仕方がなかったことだといえるでしょうか。

フェリックス・メンデルスゾーン
ジェームス・ウォレン・チャイルドによる油彩
7.「序曲ハ長調」に続く
いいなと思ったら応援しよう!
