カラヤンのバッハ: マニフィカト(聖母讃歌)
近頃面白い漫画を見つけて息抜きに同じ作者の漫画を読み漁っています。
池田邦彦。40歳を過ぎてから漫画家デビューをしたという変わり種。
古い世代といっても言い過ぎではない昭和生まれの彼の描く漫画は、最近の若い人たちの画風作風とは全く違ったものです。
鉄道の絵やイラストを描くことを仕事にしていて、そこから鉄道漫画を描いてみたいと思うようになり、昭和の終わりの鉄道漫画でデビューした方です。
鉄道漫画を専門とされていますが、そればかりか、古い昭和の国鉄やらバス会社などに勤める人たちの人間模様を描くことに特化しているのです。
彼の描く絵は何ともレトロな絵柄ですが、それが逆にあまりにも美しいCGで描かれている令和の作風とは違うことが妙に懐かしく、そして味わい深い。
昭和時代を今どき書く作家は少なくなってきているだけに貴重です。
昭和三十年代の若いカップルのあまりにも昭和な奥ゆかしい恋の物語や、今はなきソヴィエト連邦に日本が太平洋戦争敗戦後にドイツのベルリンのように分断されていたら「東側」の東京はどうなるかという架空戦後物語など、東西冷戦という今では歴史となってしまった懐かしい世界をずっと以前に忘れていた何かを思い出させてくれるようなタッチで新鮮に描きだしてくれます。
昭和の漫画ってこんなふうだったなと、描かれる人情噺にも心がほっこりとします。手塚治虫や藤子不二雄、そしてさくらももこなどをどこか彷彿とさせます。
昭和を知らない若い人には、昭和を知る機会として。昭和を体験された方には、あの頃はこんなふうだったなと共感されること請け合いです。
郷愁を誘うとも言えますが、思い出の中で全てが自分に好ましく映るようになるがためにあの時代を美化していることも確かでしょう。
昭和の街並みはゴミゴミしくて綺麗ではなかった。
道徳的に嫌らしい人たちや付き合いたくない嫌な人たちもたくさんいて、セクハラ・モラハラ・パワハラも当たり前。どこの企業は今で言うところのブラックでしたが、それを当たり前のものだと受け止めていた逞しい人たちで溢れていた。厳しい世間で生き抜いてゆく術も心得ていましたし、お互いを自然に助け合うことも普通にありました。
隣近所とのつながりが深く、人情のあった世界だったという人もいたこともまた事実でした。貧しかった時代から高度成長の右肩上がりの時代。
今となってはいろいろと興味深い過去の時代です。わたしは昭和の終わりに子供時代を過ごしましたが、昭和にあって令和になくなった文化で残念だなあと思うものの代表は、わたしにはレコード収集やCD収集を楽しんでいた音楽文化です。
音楽録音を収集した時代とオンラインでアクセスする時代
わたしは最近復活の兆しを見せているLPレコードではなく、CDコンパクトディスクを買い集めて音楽に親しみました。
クラシック音楽を好きになったのは高校生の頃で、当時のクラシック音楽ファンには聴き比べということが最高の喜びでした。
クラシック音楽というものは過去の作曲家の遺した楽譜という記号を解釈して音楽演奏で独自に再現して楽しむものです。
楽譜に書かれた音符は記号でしかなく、作曲家の書き残した情報量は極めて限られていて、どのような名曲の演奏も演奏者の解釈に委ねられるのです。
だから音符の解釈の仕方次第で、演奏の優劣が生まれて、音楽ファンはいろんな演奏家の解釈の違いを楽しんだのです。
百人の指揮者がいれば百の異なる解釈のベートーヴェンの英雄交響曲があるわけです。
これが聴き比べ。
そしてたくさんの音楽を聴くにはたくさんの音楽録音をレコード屋さんで買わないといけないのでした。とびきりの録音は市場に出回らず、レア録音を求めてマニアは足を棒にしてレコード専門店巡りなどをしたのです。
贔屓の演奏家の聴きたかった録音を見つけた時の喜びもひとしおでした。またマニア垂涎のレア音源は高額で取引されたのです。
優れた録音を批評家が独自の視点から推薦して、高名な音楽評論家のお勧め版を買い求めました。
平成時代の終わり頃から、音楽鑑賞の手段はダウンロードへと移行して、今では購読性の配信サーヴィスが中心になっています。
つまり音楽は、もはや所有するものではなく、アクセスするものとなっているのですが、CDのここ数年の売り上げが二十年ぶりに上昇に転じたとの報道を見ました。また配信サービスよりもより良い音源を提供してくれるレコードの復権が世界中で話題にもなっています。
そんな中、池田邦彦の「カレチ」を読んでいて、昭和日本で大スターだったクラシック音楽界の帝王と呼ばれたドイツのカラヤンの話が出てきました。
カラヤンはライヴァルと呼ばれた、アメリカのレナード・バーンスタインと共に昭和時代の日本のクラシック音楽愛好を牽引して、奇しくも昭和が終わりを告げた1989年に他界しました。
ベルリンフィルを率いて何度も来日したカヤランは日本の昭和クラシック音楽の象徴と言えるでしょう。A席数万円のチケットが飛ぶように売れたのです。
誰もが「大きな物語」を共有していて、誰もがクラシックと言えばカラヤンと答えた時代でした。
わたしは明らかにアンチ・カラヤンなクラシックファンなのですが (大衆ウケしたカラヤンを嫌うことがクラシック鑑賞玄人の証のような時代でした)、配信の時代になって地腹を切って購入しなくとも大抵の録音は無料で聴けるようになって、ようやくカラヤンのいくつかの録音にも親しむようになりました。
YouTubeでは映像さえも簡単に見れてしまいます。この映像も昭和の昔には大枚を叩いて初めてLDで見れるものだったことでしょう。
カラヤンのバッハ
ここでは詳細なカラヤン論を展開するつもりはありませんが、カラヤンが誰なのかご存知ない方のために少しばかり解説してみましょうか。
でも一般的なカラヤン像を書き出すならば、人工知能が便利です。
チャットGPTに調べてもらいましょう。
続けて尋ねてみましょう。
いずれにせよ、まあカラヤンはカラヤンらしさを最後まで失わずに彼の人生を生き抜いた人でした。
彼の音楽が好きだという人がいてもいいし、芸術家ではないただのショウマンだと貶す人がいても、クラシック音楽の表現に特に深いこだわりを持つ筋金入りのクラシックファン以外にはどうでもいいことです。
2023年においてカラヤンの録音を聴くこと、映像を見ることもまた、過ぎ去りし日である昭和を振り返ることなのかもしれません。
それほどに時代と共に生きた音楽家だったのですから。二十一世紀という時代に彼のような音楽家は決して生まれません。
現代のバッハ演奏は「バッハの時代の正統的なスタイルで演奏されるべき」という思想に支配されていますので、もはや二度と聴くことのできない大編成の近代オーケストラによる時代錯誤なカラヤンの壮麗で大音響のバッハ演奏が非常に特別なものに思えてきます。
しかも見つけてきた映像、バッハの名作「マニフィカト」の演奏では、大音量の出る二十世紀改良型チェンバロが使用されていて、鍵盤を弾いているのはなんと指揮者カラヤン本人!
なんとも興味深い映像なのです。
こんなバッハが許される時代もあったのです。後期ロマン派音楽を演奏するにふさわしいフル編成のオーケストラで奏でる、現代的には時代錯誤なバッハを聴いて、どんなに編曲されようとバッハらしさを失わないバッハの音楽の別の一面を楽しまれることも良いでしょう。
カラヤンの演奏はバッハの時代の演奏スタイルよりも極端に大編成なために大柄で、リズムにメリハリがない、オペラのような響きの演奏。
バッハの大傑作マニフィカト
マニフィカトは受胎告知を受けた聖母マリアが神の偉大を讃える音楽。
第四曲のソプラノとオーボエによる二重奏の奏でる短調のメロディが沁み入ります。
と救世主を身籠ることになる聖母マリアは謙虚な言葉で神を讃えます。そして力強い合唱がマリアの祈りに呼応します。受難曲にも劣らぬ深い音楽表現。
バッハには珍しいラテン語の歌詞、ベルリンフィルの合唱団はドイツ式のラテン語読みです。バッハの大傑作の一つですので、いろんな指揮者で同じ曲を聴き比べることができます。
カラヤンのバッハ、クレンペラーのバッハ、ガーディナーのバッハ、カール・リヒターのバッハ、トン・コープマンのバッハ、そして鈴木雅明のバッハ、どれも違う。
この違いを聴くことがクラシック音楽の醍醐味!
一例として、現代式のバッハの時代の楽器と演奏法に基づいた、オランダバッハソサイエティの演奏を紹介しておきます。テンポが早くてリズムが先鋭で、歌い手もノンヴィブラートな素朴な歌に溢れています。
昭和の昔にはいろんな演奏家の違う演奏の優劣を評論家が議論しましたが、今ではどんな録音も好きに聴ける時代、多様性の時代。
お金を出して録音を購入しないといけなかった頃には最も優れた録音を入手することが死活問題でした。だからこそ自分の好きな録音について熱く語ったものです。
でも今ではそんなことはあまり流行りそうもない。
時代が変わり、音楽鑑賞の文化も変わったのです。
二十世紀のクラシック音楽世界に君臨したカラヤンは二十世紀という時代に即した、大衆が最も求める音楽を提供しただけに、あまりにも時代に迎合しすぎた彼の音楽は後世においても普遍性を持った音楽とはわたしには思えませんが、それだけに彼の録音程に二十世紀らしい音楽もない。
カラヤンよりも前に死んだフルトヴェングラーやグレングールドは演奏の普遍性ゆえに未来永劫聞かれてゆきそうでも、カラヤンはいつまでも二十世紀という時代の箱の中に留まり続けそうですね。
クラシック音楽を大衆に高尚な音楽だと思わせて、世界中が同じ音楽を聴いていた時代を率先して生きたビジネスマンな音楽家。クラシック音楽の聞き手の裾野を広げた功績は確かに比類ない。
CD録音はベートーヴェンの第九交響曲が一枚に収まる70分にして欲しいと進言したのもカラヤンでした。彼のセールスに影響しますからね。
そんなカラヤンのバッハ。
自分にはレトロで大味だけど、あの時代を振り返るには最高。
そんなことを思いながら、ベルリンフィルの超優秀な演奏によるゴージャスな大音響のバッハらしくないバッハを聴いて週末のひとときを過ごしました。
休日の余暇にカラヤンのバッハ、悪くはないですよ。二十一世紀のコンサートホールではまず聞けない音楽。
最高のBGMですね。
カラヤン指揮のG線上のアリア
次の録音はカラヤン死後に彼の録音の中からBGM向きなアダージョだけをCD一枚にまとめて販売された「アダージョ・カラヤン」の中のバッハのG線上のアリア。
バッハらしい優雅なソプラノ声部のヴァイオリンによる旋律と対旋律となる低弦チェロのメロディとの絡みにこの曲の本来の魅力があるのだけど、カラヤン版では徹底的に歌えるメロディの部分ばかりをお得意のレガートで強調して全くバッハらしくない。
後期ロマン派チャイコフスキーの超ロマンチックな音楽も、ポリフォニーなバロック音楽のバッハもカラヤンの手にかかれば、同次元の音楽になるのです。
低音が響かなくてもBGMならばどうでもいいかも。クラシックという高級音楽を嗜んでいるという雰囲気を味わえればいいのだから。
これがまさにカラヤン節で「カラヤン・サウンド」!
マニア的にはカラヤンがベルリンフィルの帝王の座に着く前の、1950年代のフィルハーモニア管弦楽団との一連の古い録音はなかなか良いと思います。
オペラが得意なだけあって、声楽曲の大作ミサ曲ロ短調は玄人にも聞き応えある名演です。
Have a great weekend!
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。