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「マッチ売りの少女」は何故に罪なくして死んでゆくのか?
デンマークの貧民街で生まれた童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンは「マッチ売りの少女」という物語を創作しました。1845年に出版されました。
ユーゴーの小説「レミゼラブル」に先立つこと二十年あまり。
ご存知のように、物語の最後、少女は雪のクリスマスイブの街角で凍死。
野垂れ死んでゆく少女をただ可哀想だと思うばかりなのでしょうか?
でも1840年代半ばに作者のアンデルセンがこうした物語を書くまでは、だれも行倒れになって凍えてしまう小さな貧しい少女のことなんて物語にしようとはしなかったのです。
そんな物語に興味を示す人なんていませんでした。
当たり前すぎて何も珍しくもなかったからです。
当時のヨーロッパには何万人というコゼットのような少女がいて、煙突掃除や工場や炭鉱で馬車馬のように働かされていた少年たちが当たり前のように存在したのです。
「一人の死は悲劇、百人の死は統計」
これは20世紀のソヴィエト連邦の独裁者ジョゼフ・スターリンの言葉だとされています。過酷な労働の中で無駄死にとさえ言わざるをえない境遇の中で死んでいった何十万人という子供たちの死はまさに統計でしかありません。
彼らの名前すら残されていないのですから。
スターリンが何百万もの無辜の民をシベリア送りにして数多くの政敵や反対者を粛清したのも数字の世界の出来事でしかなかったのでしょう。
貴ばれるべき人の死を統計の世界から本当の悲劇へと引き戻すために筆を執ったのが、ハンス・クリスチャン・アンデルセンであり、「レ・ミゼラブル」のヴィクトル・ユーゴーであり、この悲惨を後世に伝えんと労働する子供たちの姿を書き写した画家たちや黎明期の技術の低いカメラを用いて記録を残してくれた写真家でした。
「マッチ売りの少女」のモデルは、作者アンデルセンの母親であるとされています。マッチが一般に使用され始めた時期などを考えると実際に彼の母親がマッチを売っていたことなどありえません。
ですが吹雪のクリスマスイブにコートもなしに着の身着のままで街路を歩き回らねばならなかった境遇にあったマッチ売りの少女に、極貧の暮らしのなかで子供時代を過ごした幼いころのアンデルセンの母親の姿が投影されていない訳はありません。初等教育さえまともに授けられることのなかった悲しい女性への思いがこの物語に込められているのです。
この意味で、この物語はノン・フィクション以外の何物でもありません。子供の頃の可哀想だった自分が愛する母親へのオマージュでしょうか。
彼の創作作品や彼が生涯に何度も書き直した自伝から、アンデルセンという人物が疑うことなく発達凸凹な人物(ASD)であったことがうかがい知れます。
極度の楽天主義に人の話を額面通りに受け取る彼。あまりにも天真爛漫で人を疑うことを知らぬ無邪気さ。
もちろんKYで何度恋をしても女性の気持ちをさっぱりわからずに生涯失恋し続けたアンデルセン。大人はそんな彼を馬鹿呼ばわりしたけれど、どんな子供たちも大男のアンデルセン叔父さんを怖がることもなくすぐに親しみを覚えたものでした。彼の本当の姿を理解していたのは子供たちだけでした。
彼の子供のような視点から見える世界は全く別なものだったのです。
だからこそ飢えて死んでゆく子供を見れば涙を流しました(道行く人はそんな汚らしい行き倒れ、いくらでもいるだろう、と涙するアンデルセンを馬鹿にしました)。
でもアンデルセンは、自分が流した涙を美しい物語へと昇華させることのできる才能を持った作家でした。彼の原稿は教育不足で誤字脱字だらけだったのだけれども。
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デンマークの創作童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン作の「マッチ売りの少女」(1845年)はただ単に悲しいだけの物語ではありません。
闘士ユーゴーは「ペンは剣よりも強し」の精神で世紀の大作レ・ミゼラブルを書き上げたのだけれども、アンデルセンは違いました。
ただただ悲しむべき小さな者たちに同情し、自分の悲しみを吐露するためにペンを執りました。そしてその当時、童話を創作しようなんて思う人は誰もいなかった。語り継がれてきた民話を編纂した偉大な学者であるグリムに会うために招かれもしないのにのこのことデンマークからドイツまで会いに行けば、なんというお人好しとバカにされる始末。
彼は寒さに凍えて死にゆく少女の死に希望を与えたかった。だからクリスマスツリーを夢見ながら天に昇ってゆく少女の物語を描いた。
少女はアヴェマリアの天使の歌を聴きながら昇天してゆく。
アンデルセン以外の誰がこんな街角で当たり前のように死んでゆく哀れな少女にこのような愛情あふれる最期を描けたのでしょうか?
きっと当時の読者たちは貧しい人たちの間ではごく当たり前だったそんな風景に意味を与えようとしたアンデルセンの物語に戸惑ったのではないでしょうか。でもその時こそが
統計が悲劇になった瞬間です。
そして21世紀。
レ・ミゼラブル(1815年から1832年までが舞台)やマッチ売りの少女(1845年出版ですが、母親の実話からインスパイアされたのならば18世紀終わりごろの物語)から200年たっても何も変わっていない。
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21世紀の子供の貧困
あなたがGoogleにChild laborと打ち込んで、Image Search すれば、まだまだいくらでも別の写真が見つかります。これらはその中のほんの一部です。
このような写真を見つけても、わたしにはどうすることもできません。
募金したり支援活動されたりしている立派な方もいらっしゃるでしょうが、誰もがそんなことをするべきだなんていうつもりもさらさらありません。
わたしができることといえば、こんな子供たちの写真を探してきて、noteに投稿するくらいのことにすぎない。
そして幸せ過ぎる自分とは無縁な世界に思いを馳せてただ祈るばかり。
でもこんな思いを持つ人は当然ながら私一人ではないのです。現代アメリカの作曲家David Langが2007年に発表した音楽の名は:
「マッチ売りの少女」のための受難曲 (The Little Match Girl Passion)
受難曲は十字架上の救世主キリストの自己犠牲の赤裸々なあり様を伝えるための音楽(例えばバッハのマタイ受難曲)。
でも汎宗教的な思いを込めた音楽の中でならば「マッチ売りの少女」の悲劇も意義のある死へと昇華されてしまうのです。我々は音楽を通じてこのいたいけな少女の死から世界の悲惨と無情を知るのです。
マッチ売りの少女に救済があるとすれば、この少女の死が次の時代に語り継がれることで、こういう悲劇があってはならないのだと信じる健全な感覚を我々に忘れないようにさせてくれることではないでしょうか?
ああどこかで誰かがまた死んだって、ああまた新聞でこんな悲劇があったと書いてるね、ではただの統計です。
しかしながら、あなたが物語を通じて知っている一人の少女の尊い死は、もっと意味深いものであるはずです。
だからアンデルセン、二十一世紀の今日でも読む価値があるのだと思います。狂気の時代に正常な感覚を忘れないでいさせてくれるのはこんな小さな物語の中の可哀想な少女の物語です。
マッチ売りの少女はクリスマスの出来事です。
物語には世界を変える力があるのだと思います。
だから読み継がれるべきです。
歴史上にあったかもしれない本当の悲劇であって決して繰り返されるべきではない、とただ覚えていることだけでも意味があるのではないでしょうか?
そう信じることでマッチ売りの少女も本当に救われるのだと思います。
19世紀のユーゴーが告発した子供という未来が虐げられる社会は過去のものなのでしょうか?
コゼットの姉妹のようなマッチ売りの少女のいた時代。
わたしはアニメに描かれる子供の労働と虐待を見ながら、遠い時代の出来事が本当に過去のものであってほしいとばかり願っています。
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