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女性のためのピアノの時代: 知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(4)

19世紀中葉のヨーロッパで最も広く人気を博していた作曲家はフェリックス・メンデルスゾーンでした。

19世紀は中産ブルジョア階級が台頭したことで知られています。

社会制度の変化によって社会の富の分配の仕組みが変化したために、18世紀には搾取されるばかりだった庶民が裕福になり、いわゆるブルジョワ階級が新しい時代の文化の担い手となっていたのです。

新興ブルジョワたちは文化的な生活の象徴であるピアノを持つことに躍起となり、彼らのためのピアノ音楽の需要が生まれ、現在では芸術的価値がないと貶められているツェルニー、クレメンティ、フンメルなどの作品が人気を博していたのが1820年代。

クレメンティやフンメルの作品は、ソナチネやソナタ、変奏曲といった18世紀以来の古い伝統的な形式に基づく作品がほとんどでした。

しかしながら、ベートーヴェンのピアノソナタに「悲愴」「月光」「田園」「テンペスト」「熱情」などと言ったロマンティックなタイトルが冠されたことからも分かるように、音楽に文学的なイメージを重ね合わせることが19世紀には人気となったのです。

19世紀人たちは「ここにはないもの」に憧れて、「未知なるもの」を追い求めました。音そのものよりも、音が描き出す具体的なイメージが尊重される時代になったのです。

抽象的なハ長調のロンドやイ短調のソナタではなく、「悲しみのワルツ」や「夕べの想いのセレナード」や「舟遊び」などと言った詩的なイメージで音楽を好んだのが新興ブルジョワの趣味でした。

そうした19世紀人の趣味に合致した音楽作品が「性格的小品」と呼ばれる新しい作品群です。

性格的小品とは、音のポエム、音の俳句のようなもの。

18世紀由来の小説のような四楽章の起承転結のドラマを持つ20分のソナタは難しい音楽でしたが、音のポエムは数分間で演奏できて、しかも分かりやすい題名がついている場合が多かったので、新興ブルジョワたちには親しみやすかったのです。

性格的小品は基本的に
社会的に家庭に閉じ込められていた
女性のための音楽でした

そうした需要のために誰よりも早く取り組んだのが、天才作曲家として若くから知られていたフェリックス・メンデルスゾーンでした。

ベストセラーとなる性格的小品集、最初の「言葉のない歌(無言歌)」集を出版したのは1832年でした。ショパンの最初の夜想曲集作品9の出版も同年でしたが、作曲家としての知名度には雲泥の差がありました。

ちなみにローベルト・シューマンの傑作性格的小品の謝肉祭カルナヴァルの出版は1835年です。「子供の情景」は1839年。

メンデルスゾーンは欧州有数の大富豪の家の出身。ドイツ音楽の父と呼ばれるようになったヨハン・セバスティアン・バッハを忘却の彼方から蘇らせ、天才指揮者として難しい音楽だったルードヴィヒ・ベートーヴェンの交響的作品を世に広めて、晩年には教育者としてもライプツィヒ音楽院を創設するなど、教育者としても早くから知られていました。

そのように世間的知名度抜群のドイツ知識人代表だったメンデルスゾーンが家庭のために作曲した、新しいジャンルの音楽「無言歌集」は中級以上の演奏技術があれば演奏可能、さらにはロマンティックな題名さえもついていて、そうした分かりやすさゆえにベストセラーとなったのです。

まだワルシャワに住んでいた頃の20歳のショパンは1829年にベルリンを訪れて、コンサートでメンデルスゾーンを見かけても、21歳にして既に大音楽家としての名声を獲得していたメンデルスゾーンに声をかけることもできないほどに雲の上の存在だったのです。

無言歌集が素晴らしかったのは、高度な演奏技術が必要とされないことに加えて(意図的にそのように創作されていました)、声を出して歌うべき歌をピアノだけで弾かせるという新機軸でした。

それ以前の器楽曲は、声楽曲とは明確に区別されていました。

モーツァルトやシューベルトの器楽音楽には歌うような要素がたくさん含まれていて、それが魅力的でしたが、メンデルスゾーンは徹底的にピアノで歌うことを前提として曲を書いたために<言葉のない歌>という名前がピアノ小品に与えられたのです。

メンデルスゾーンが広めた性格的小品は、ソナタに替わる新しいジャンルとして現代にまで受け継がれてゆくものとなります。

無言歌の中でも特に人気だった舟歌のことはこちらで詳細に解説しました。

こちらで紹介したギロックのロマンティックな小品は間違いなくメンデルスゾーンの無言歌の直系の子孫のような音楽です。

さてこれほどに後世に大きな影響力を持った「言葉のない歌」というジャンルなのですが、実は創始者はフェリックス・メンデルスゾーンではないと最新のメンデルスゾーン研究者たちは提唱しているのです。

このジャンルを創設したのは、実はファニーお姉さんらしいというのです。

ファニー・メンデルスゾーンの無言歌

フェリックスがピアノのために作曲した全八巻の無言歌集(全48曲)はまさに彼のライフワークと呼べる偉大な業績なのですが、フェリックスの創作の傍らには、常に優秀な助言者がいました。

創作とは一人で行うことかもしれませんが、作品の出版のためには校訂して批判してくれる人が必要なものです。

文章であっても(このNoteの創作のように)誰か第三者がケアレスミスを指摘して、草稿にフィードバック・アドバイス(助言)を与えてくれる人がいると、作品の質が格段に上がるものです(出版社における編集者の役割は重要です)。

フェリックス・メンデルスゾーンの場合、その編集者的な役割を担ってくれていたのが四歳年上のファニーお姉さんでした。

仲の良い姉弟はお互いに切磋琢磨するライヴァルであり、創作を助け合う最高のパートナーだったのです。

ヨハン・セバスティアン・バッハにも妻アンナ・マグダレーナという優れた校訂者がいつもそばにいましたが、名歌手アンナ・マグダレーナよりも、作曲家兼ピアニストのファニーの存在はバッハにとってのアンナ・マグダレーナ以上のものだったことでしょう。

フェリックスは作品の草稿ができると真っ先にファニーに見せて、ファニーは作品に対する的確な批評を返すということを生涯繰り返していたのです。

旅先から、またはライプツィヒに住むようになってからはフェリックスは大変な数の手紙をベルリンのファニーに書き送っています。

中でも面白いのは、最初の無言歌集出版に4年先立つ1828年のファニーの手紙。

その中ではもうすでに<ピアノのための歌 Lieder für das Pianoforte>が言及されているのです。

ファニーの450曲を超える作品には<ピアノのための歌>と呼ばれる作品がたくさんあり、メンデルスゾーン姉弟は二人して<ピアノのための歌=無言歌>というジャンルを創作したことは明らかなのです。

<ピアノのための歌>の特徴は、バッハの器楽曲のように舞曲的ではないこと。ローベルト・シューマンが舞曲にこだわったことと好対照です。

拍節感あるリズムよりも、メロディを前面に押し出して、ピアノの右手がまるで歌手であるかのような音楽であることです。

実際には声を出して歌えないかもしれないけれども、歌手の歌のようなメロディラインが際立つ音楽。バッハの対位法のフーガに精通していた二人でしたが、<ピアノのための歌>を創作する場合はいつもホモフォニック、右手が歌で、左手は伴奏という分かりやすい音楽でした。

フェリックスはそういう作品を<言葉のない歌>と呼び、ファニーは<ピアノのための歌>と名付けたのです。

次の動画はフェリックスの遺作の第七巻作品85の7。

題名は「哀歌」。

「哀歌」と名付けられていても、バッハのような悲壮感とは無縁。

「メランコリーな物思い」といった趣の、アマチュア演奏家が家庭でピアノを楽しむための音楽。

心に残るのはピアノが奏でる歌。

耳に残るメロディに富む「春の歌」は、スウィングしても素晴らしい。それは最初から最後まで歌で溢れているから。

歌うための楽器としてピアノの魅力を最大限にまで引き出す音楽がメンデルスゾーン姉弟の音楽だったのです。

無言歌は誰のためのもの?

ショパンにも美しい歌がたくさんあるけれども、メンデルスゾーンの音楽はショパンほどには高度な演奏技術は必要とはされない点が大事です。

彼らが生存中だった1830年代、1940年代に、メンデルスゾーンの作品の方が広く愛されたことは当然だったわけです。

メンデルスゾーン姉弟以前にも、フランツ・シューベルトの即興曲のように歌心溢れる音楽は在りましたが、シューベルトは歌う要素と踊る要素を見事に組み合わせた音楽を書きました。

けれどもメンデルスゾーン姉弟は歌の部分だけに特にこだわったのです。

ファニーの作品では、最晩年に作品2、作品6として出版された曲集、死後に遺作となった作品8が具体的に<ピアノのための歌>と題されています。

作品3と作品4の曲集は<メロディMélodies>と題されていますが、基本的なスタイルは同じです。

他にもいまだ研究されていない大量の未出版作品がありますが、ここでは特に抒情的な作品8の3を取り上げてみましょうか。

フェリックスの最良の作品に勝るとも劣らぬ作品です。

作品4の2の<メロディ>にもフェリックスの無言歌集にはない深い悲しみが刻み込まれている。

フェリックスの作品は出版が意図されていて、あきらかにブルジョワ家庭のための音楽であることが意識されていますが、ファニーの作品はフェリックスの作品よりもより複雑で深い感情が込められているように思えます。

わたしもまだファニーの全ての作品を聴いてはいないのですが、ファニーの作品にはフェリックスの作品にはない、シューマンやショパンに通じる深い情念のようなものが感じられてなりません。

フェリックスにはプロの演奏家にしか演奏できない、超絶技巧を要する「深刻な変奏曲」作品54というものすごい作品もありますが(全てのロマン派ピアノ曲の中の最高傑作の一つ)フェリックスは無言歌集に関してはアマチュア演奏者を常に想定して作曲していました。

さらに、フェリックスはピアノを弾いて奏でていたブルジョワ家庭のピアニストのほとんどは女性だということを心得ていました。

フェリックスは演奏者の力量と好みをマーケティングして作曲していたプロ中のプロなのです。

音の表現に自ら厳格な制限を設けていたフェリックスに対して、ファニーにはそうした束縛はなくて、フェリックスの作品に似ているようでいて、当初は出版が意図されたなかったために(許されなかったために)アマチュア演奏者(大部分は新興ブルジョワ家庭の女性たち)の力量のなさを考量されていない分、音楽的に深く、技巧的にも複雑です。

現代においてはファニーの未出版だった作品たちに赤裸々に込められた情念は、フェリックスの作品よりもむしろ聴き手の心を深く胸を打ちます。

バッハ的な音のアラベスクの上に載せられた情緒的な歌というのがわたしの思うところのファニーの性格的ピアノ小品の作風です。

けれども、ファニーもまた、フェリックスの性格的小品を愛した女性たちと同じく、社会的活動を制約されていたブルジョワ時代の女性の一人であったことも忘れてはいけません。

ファニーが作曲した数百曲の性格的ピアノ小品<ピアノのための歌>の大部分はいまもなお未出版のまま。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー
「ピアノにて」
1859年(アメリカ)
女性とピアノは19世紀絵画の最も重要な主題
社会的な活動を制約されていた女性たちは
ピアノと共に生きていた時代

「無言歌、言葉のない歌」というピアノ曲のジャンルの創始者はファニーだったのかもしれませんが、無言歌集をベストセラー出版して名声を獲得して、いわば全ての手柄を持って行ってしまったのは男性である弟の大作曲者フェリックス・メンデルスゾーンでした。

このジャンルの創始者はファニーだったのか、それともフェリックスだったのか、真相は藪の中。

19世紀とは女性が社会的に活躍する場を与えられてはいなかった時代でした。

日本史で言えば江戸時代後期。

東西の別なく、19世紀の女性の社会的活動は制約されていたのです。

ファニー・ヘンゼル、フェリックス・メンデルスゾーン、フレデリック・ショパン、ローベルト・シューマンという、いわゆる初期ロマン派の作曲家たちが姿を消した19世紀の後半、これらの作曲家の性格的ピアノ小品はますます家庭の中の女性たちの間で広く普及するようになります。

ピアノは女性が演奏するもの。ピアノは女性らしさの象徴。

19世紀の印象主義の画家たちはそのような女性たちの姿を好んで絵画の題材に選んだのでした。

女性は家庭でピアノを弾くべき。

女性は女性らしくあるべき!

この主題が作曲家ファニー・ヘンゼル(メンデルスゾーン)を生涯縛り、苦しめたために、良家の良妻賢母であることに満足しないで、450曲もの音楽を書き遺したのです。出版された作品は一割にも満たなかったのに。

フェリックス・メンデルスゾーンの無言歌にはない深い情感がファニーの作品の中には色濃く描き出されているのは当然といえるでしょうか。

セザンヌの女性ピアニスト
Young Girl at the Piano – Overture to Tannhäuser
(1869-70) by Paul Cezanne
ドガの女性ピアニスト
Monsieur and Madame Édouard Manet
 (1868–69) by Edgar Degas.
マネの女性ピアニスト
Madame Manet at the Piano
(1867-68) by Édouard Manet
ルノワールの女性ピアニスト
Woman at the Piano
(1875) by Pierre-Auguste Renoir
ルノワールの女性ピアニスト
Young Girls at the Piano
(1892) by Pierre-Auguste Renoir

19th century woman piano painting というキーワードでインターネットを検索すると百を優に超える19世紀の画家たちによるピアノを弾く女性たちの絵画を見つけることができます。

論文もたくさんあります。読むとファニー・ヘンゼルという19世紀の女性作曲家の社会的存在の悲哀をさらに深く知ることになります。

ショパンには「スケルツォ」、メンデルスゾーンには「厳格な変奏曲」のようなマッチョで極めて男性的な作品もありますが、それにもかかわらず、彼らが夜想曲や無言歌という女性受けする作品を量産したのも、19世紀という男女の社会的役割が厳格に峻別されていた時代の要請だったからなのです。


5.「アヴェ・マリア」に続く



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