力士の安全を守り 長く相撲をとり続けるためにも メディカルサポートの充実を目指す
乾 智幸 いぬい接骨院院長
(写真提供:乾 智幸氏)
大相撲という世界に、メディカルの考え方を採り入れたい。そう声を上げたのが、1993年から数えて30年近く大相撲の世界で力士たちをサポートし続けてきた乾智幸さんだ。体格の大きな力士がケガや故障と隣り合わせの取り組みや稽古を続けるなか、その身体を守るシステムを構築したいと乾先生は話します。乾先生の大相撲や若手力士、スポーツに取り組む子どもたちへの想い、そして乾さんご自身も2級を取得しているスポーツ医学検定が担う役割について、じっくりとお話を伺いました。
相撲部屋で住み込みの専属トレーナーとして
――まずはじめに、乾智幸先生とスポーツの関わりを教えてください。
乾智幸(以下乾):私は和歌山県出身で、小学生のころはリトルリーグで野球をやっていて、中学、高校とバレーボールを始めました。その後は、柔道整復師の国家試験を受ける前に柔道の黒帯が必要だということで柔道をやりまして。そして大人になってからはラグビーですね。
――ラグビーは大人になってから始められたのですね。
乾:そうですね。長男を近くのラグビー教室に入会させたのがきっかけでした。その教室では、子どもたちの教室が始まる前に、保護者とか指導者とかがみんなでラグビーをやっていたんですよ。そこに引っ張り込まれたというか。もうこの年齢になると注意される機会はあまりないのですが、ラグビーのときは注意されたり怒られたりするんですよね。それが妙に新鮮で、感動を覚えたのが忘れられなくて今も続けています。
それと同時に、ラグビースクールのメディカルも自然と担当することになりました。
――そうだったのですね。いつからこのトレーナーという仕事に就こうと思ったのですか。
乾:高校生のときですね。私は控えの選手だったことから選手のケガの処置なども行うことがありました。もちろん自分も試合に出たいのですけれど、ケガをした選手たちのサポートをしているうちに、「ああ、こういう仕事あるんだ」と思うようになって。それで高校を卒業すると同時に大阪の関西鍼灸短期大学に入学しました。学校に通いながら、大阪の鍼灸接骨院で勉強していたのですが、実は力士が多く訪れる治療院だったのです。ちょうど舞の海さんが入門したころの話です。それがきっかけで大相撲の世界に入りました。
――最初は相撲部屋に住み込みで働かれていたとか。
乾:21歳で国家資格を取得し、地元の和歌山か大阪で開業しようと思っていましたが、そのときに、懇意にしていた力士から声をかけていただいて、裸一貫東京に出て、相撲部屋で専属トレーナーとして働くようになりました。今振り返ると、ここが人生のターニングポイントでしたね。
――その後、品川で現在の「いぬい接骨院」を開業され、今も大相撲の世界でご活躍されています。大相撲に関わるなかで、ほかのスポーツとの違いなどはありますか。
(写真提供:乾 智幸氏)
乾:今はもう異なりますが、当時は「治るものはケガではない」という風潮がありました。だから、膝の靱帯断裂や骨折という、“放っておいても治らないもの”というニュアンスで“ケガ”という言葉を使っていました。また番付が下位の力士は仕事が多く治療を受ける時間が少ないことも問題です。ですが、若手のころからケガをケガとして認識して、根本から治療しなければ番付が上がったときに古傷となる危険性があります。
今は野球でもサッカーでも、どんなスポーツでもトレーナーはついていますし、ケガや故障への対応は早く行われています。もちろん、今は昔と違って早めの治療が行われていますが、ほかのスポーツに比べるとまだまだな部分もあります。ケガがあって治療する、というだけではなく、予防という観点から対応を考えていく必要があるのではないかと思っています。
――そういう意味で、乾先生は「大相撲メディカルシステム構築・導入」を提言されました。
乾:私がとてもお世話になっていた相撲部屋の力士が、今年3月に取り組み中の事故が原因でなくなりました。この一報を受けて、すぐにこのメディカルシステムを考えました。
事故の有無に関わらず、力士が全力で相撲に取り組むためにも、どんな状況であっても、どんなケガや故障、事故であってもすぐ対応可能な体制を整備することは大切だと思うのです。ほかのスポーツはすでにケガや事故に備えた体制が整備されています。もちろん大相撲は、サッカーや野球といったスポーツと同列に話せない部分もあります。ですが、力士を守るという点では、スポーツであろうとなかろうと同じだと思うのです。
私がこのような意見をもつに至ったのは、ラグビーとの出会いがきっかけでした。サッカーなどの競技と同様にラグビーでは脳振盪の評価ツール(SCAT:スキャット/Sports Concussion Assessment Tool)を利用するというルールが決められています。このルールが功を奏し、後遺症に悩まされる選手の数は少なくなったのではないかと思います。
(写真提供:乾 智幸氏)
また選手だけではなく、指導者や保護者たちがケガや故障を正しく理解することで、スポーツが発展にもつながると思うのです。大相撲でも同様で、今以上にケガや故障に対する理解がもっと広がれば、力士たちが選手生命を延長することも可能です。そして結果として大相撲の発展に繋がるのではないかと思うのです。
――どういうケガなのか故障なのかを理解することもさることながら、その深刻度を理解することも大切ですよね。
乾:そうですね。どういったケガなのか、どういう故障なのかを理解すれば、どのように治療すれば良いかがわかります。またそのケガが冷やすだけで良いのか、治療が必要なのか、手術が必要なのか。深刻度がわかれば休ませたほうが良いのか休ませず、トレーニングをしながら治療ができるのかなどの判断もできるようになります。
ただ、大相撲の場合は簡単に休場するわけにもいきません。それも理解したうえで、その力士の将来を考えたら休んだほうが良いのかどうかの判断基準は、本人も周囲の人たちももったほうが良いのではないかと考えています。
――大相撲は日本が守っていかないといけないものですから、力士の方々には長く活躍してもらいたい。そのためにも、メディカルという考え方が浸透してほしいですね。スポーツ医学検定も、その手助けができると思いますが、乾先生からみてスポーツ医学検定に期待することはありますか?
乾:今、私が所属しているラグビースクールでは、まずご父兄に検定を勧めています。前途の通り選手本人が知識を深めることは大事ですが、周囲の人たちも身体のことを知り、ケガや故障への理解を深めることは大事なことです。体をつくるためのトレーニングや栄養学も同様です。そうした知識の基礎が学べるのがスポーツ医学検定ですので、もっと多くの人たちに知ってもらいたいですし、この検定が広まることでケガや故障が予防できると思うのです。そうなるとうれしいですね。
(写真提供:乾 智幸氏)
――それこそ、大相撲の世界にもこの医学検定が広がってほしいですね。
乾:そうですね。実は私がよくケアをしていた力士のなかに、元大関・把瑠都がいました。彼は今自国のエストニアで国会議員をされていますが、彼とのつながりもあって、エストニアで行われたヨーロッパ相撲選手権のメディカルチームを担当してほしいという打診があり、引き受けました。そのとき、現地の方々が私たちメディカルに対して大きな関心をもたれたことはうれしかったですね。それに、その世界大会を担当したレフェリーの志がとても高いことに驚かされました。これは海外の事例ですが、メディカルに興味を抱く相撲関係者が増えてほしいですね。
また、わんぱく相撲は今も盛んです。これは指導する方々の熱意そのものです。そういった方々にもこのスポーツ検定が広まり、ケガをしてから治療するメディカルではなく、予防という観点からのメディカルにも興味を持つ人が増えたり、知識が深まったりしてくれると、それが大きなうねりになってさまざまなことが変わっていくのではないかと思います。
(写真提供:乾 智幸氏)
――最後に、未来を担う力士たちや、それを支える人たちへのメッセージをいただけますか。
乾:私はケガされた方を受け入れる立場なのですが、今、スポーツ医学検定などを通じ身体やメディカルに関する知識を皆さんが理解することによって、そのケガの予防にもつながります。「あれ?彼の歩き方がちょっとおかしいぞ」とか、「いつもよりも顔色が悪いな」とか、いつもと“違う”ということにいち早く気づくことが、ケガや故障の重傷化を防ぐ、ということだけではなく、そもそもの予防につながると思うのです。
それは常日頃から、力士や選手たちのそばにいる人たちだからこそ気づけるところでもあります。毎日見ているから気づけることって、あると思うんです。だからこそ、選手たち本人、子どもたち本人が知識をもつことも大事なんですけど、それを支えている親御さんであったり、指導者であったりがきちんと知識を身につけること。それが選手たち、力士たちの未来を守ることにつながるのではないでしょうか。その一端を、このスポーツ医学検定が担えるものなのではないかと思っています。
ケガをするからやってはダメ、と言うのは簡単です。どうすれば安全にやらせてあげられるのか、何が起こる可能性があるのか、何かが起こったときの正しい対処を知っているかどうか。それはスポーツをしている子どもたちを支える大人の役割なのかもしれませんね。
――本当にそのとおりですね。スポーツ医学検定が、スポーツをする子どもたちを守る材料になってほしいと思います。今日はありがとうございました。
<編集後記>
大相撲は国技であり、神事です。スポーツとは違う世界にあるものではあるのですが、それを行うのは人である限り、ケガや故障などから守るという考え方は大事なことなのだと感じます。特に100kg前後の力士が立ち会いでぶつかり合う音は、あの国技館に響き渡るほどの大きさです。そんな力士たちの身体を守るためにも、スキャットも含めて、メディカルが発展していってほしいなと改めて感じました。国技であり、神事であるからこそ、永く相撲をとれる身体をサポートする。そんな乾先生のご活躍をこれからも期待しています。
(文 田坂友暁、構成 田口久美子)
◇プロフィール◇
乾 智幸(いぬい・ともゆき)
1970年生まれ。いぬい接骨院院長。高校卒業後、鍼灸、柔道整復師の資格取得。1993年から相撲の世界に関わり、横綱力士から幕下力士までサポート。2019年にはエストニア共和国で開催されたヨーロッパ相撲選手権のメディカルトレーナーとして参画。同時にオーストラリアのラグビーチームのコンディショニングを担当した。鍼灸、柔道整復のサポートのみならず、ストレッチやテーピング、コンディショニングまで対応できるトレーナーとして活動している。