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ゆらぎの中の女の子たち - 映画『21世紀の女の子』-

 映画にもきっと手触りというものがあって、『21世紀の女の子』はあたたかくて、なめらかで、ちょっととげがあって、でもずっと探っていたくなるような、指の先でいつくしみたくなるような、そんな感じがした。

ひとことで「女の子」といっても、
さまざまな女の子がいる。

可憐で、誰からも愛される
きらきらお姫様な女の子も素敵だけれど、

「女の子」のステレオタイプに
違和感や苦しみを感じている子もいる。

女の子でいることには期限があって、
それをすぎると「女の子」ではなくなるとか、
女の子は男の子が好きで、
男の子からかわいく見られたい生き物だとか、

女の子同士は、上っ面は仲良しなのに
本当は心の中で足を引っ張りあっているとか、
女の子は感情の振れ幅が大きくて面倒くさいとか
女の子ががんばると、女の子の「くせに」とか、
女の子「なのに」とかいう言葉があって、
母や彼女や妻や娘という役割があって。

だれが決めたのかわからない、
女の子は「女の子」であってほしい。
という願いが、いろんなところから飛んでくる。

けれど、「そう」はなれない私たちは、
どうしたらいいのだろう。
女の子として認められないのかな。

この、15の女性監督が生み出した15の短編映画集には、
「肉体的なセクシャリティや社会的なジェンダーにゆらぎを感じた瞬間」
といった共通のテーマがある。

だから、これまでの女の子映画の中で
すくい(救い・掬い)きれなかったたくさんの女の子を
繊細に浮かび上がらせているんだと思う。

この映画には15作分の女の子たちがいて
話数が多いゆえに情報量が多くて大変で、
ひとつひとつに食らいついていかないと
振り落とされてしまう。

だから、観るときはどうか、気を緩めないで。
ひとりひとりの女の子に向き合ってほしい。

どの作品も好きで、大切でたまらなかったけれど、
縷縷夢兎の東佳苗さん監督の『out of fashion』、
私が最近抱えているもやもやがそこには映っていた。

女の子を「女の子」の型にはめようとしてくるのは、だれ?
そんなものを、この21世紀にもなって持ち出してくるやつは、だれ?

映画に込められた、怒りとやるせなさをぴしぴしと感じた。

ぼんやりとした色彩の中の
モトーラ世理奈ちゃんが儚くて、きれいで、
見とれてしまった。

山中瑶子監督の『回転てん子とどりーむ母ちゃん』も
パンチが効いてて度肝抜かれたなぁ。
女子同士でも、私はあんなに“性”について語りあったことはない。

女の子による、女の子のための映画作品集。
『21世紀の女の子』は、とてつもないプロジェクトだ。

公式パンフレットに書いてあったが、
日本でメジャー映画を撮った女性の比率は、
この20年間で3%だという。
つまり、日本のメジャー映画の97%は、
男の人のフィルターを通して世に放たれているということだ。

これは「不公平」の上に成り立っているのか?
映画業界に身を置いてるわけではない私には
数字が語る以上のことはわからない。
でも、視線の偏りは、たぶん生まれている。
こぼれ落ちているものも、たぶん存在していた。

これまでの映画に自分を見つけられなかった人でも、
『21世紀の女の子』の15作品の中にはいるかもしれない。
やっぱりいないかもしれないけれど。
でも、自分を探しにきてみてもいいかもしれない。

大森靖子・平賀さち枝のエンディング曲、
“LOW hAPPYENDROLL -少女のままで死ぬ- ”
も、すごく、すごく良かった。

いろいろな姿の女の子を描いてきた靖子ちゃんだからこそ、
エンドロールにふさわしい。
かわいく力強く彩って、すくってくれる。

最後まで、圧倒的に女の子の映画だった。
そこに生きている、生の女の子に
映画館まで会いに行って。

最後に。
もし誤解が生まれていたら訂正したい。
『21世紀の女の子』は、
男子禁制の秘密の花園ではない。

女の子からまなざされた女の子をまなざして、
「女の子」を解放させていくことは、
だれにでも開かれた扉なのだ。



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