『メタアーキテクト』書評|本橋仁
2年前。木工作家の友人に呼ばれて、何度か高知県馬路村を訪ねる機会を得た。松茸が野生し、川に天然ウナギが泳ぐ桃源郷のようなこの場所には、最寄りの駅から山道を1時間、車を走らせる必要がある。馬路村に至る細い道路で、時折、巨大なトラックとすれ違う。友人は軽くブレーキを踏み慣れた手つきで、山道には似つかわしくないスピードでトラックをかわす。聞けば、この巨大なトラックは外洋材を加工のためだけに、山を上り馬路村に運んでいるのだという。いまではすっかり、ゆずの村として知られる馬路村だが、かつては林業で栄えていた。大阪の土佐堀という地名をご存じだろうか? まさに土佐国との物流で栄えた場所で、馬路村で伐採された銘木・魚梁瀬杉(やなせすぎ)も大阪に運ばれたらしい。村には、この魚梁瀬杉を港まで運んだかつての森林鉄道の遺構がいまも数多く残されている。この魚梁瀬杉も2017年で伐採が休止されたが、木材加工所は再整備され、ゆずと並ぶ主幹産業となっている。
伐採された場所、加工される場所、供給される場所。いま私たちの目の前に使われている木材が辿った経緯の想像のつかなさ。その建設をめぐるダイナミクスに目眩がする思いである。
本書の著者、秋吉浩気氏がかねてより唱える、建築の民主化は、こうした見えないプロセスに変革を促そうとするものだ。その構想がこの本には、これまでの活動(左ページ)と構想(右ページ)ふたつを併置させながら語られていく。この民主化を表す、著者自身による本書内でのわかりやすい言葉のひとつが、建設プロセスの「自分ごと化」(p.106)という言葉だろう。そのために、生産工程の各プロセスが分断され(ゆえに見えづらい)中央集約型から、自律分散型への転換を求める。設計から加工までをダイレクトに結びつけ、その加工拠点も地域に点在させる。すで、CNCミリングマシンのShopBotが世界で1万台、日本でも100台導入されているというから(p.32)、もうこの変化は構想ではなく、現実にもう起きている。実際、馬路村にもCNCミリングマシンが置かれた小屋があり、そこを拠点に活動する作家もいた。
こうした新しい変化とのコントラストとして本書では何度か、作ることを知らない建築家(p.160他)という旨の発言が繰り返される。著者によれば、意匠至上主義の世界観をもつ建築家は、表層という部分しか設計していない(評者意訳)という指摘だが、この著者の表現に反感を抱く建築家も多いだろう。ちょうど本書の出版と時を同じくして、社会学者の松村淳氏による『建築家の解体』(筑摩書房、2022)が出版されたが、ここでは建築士と建築家を分け、建築界の構造からいわゆるスター建築家の存在基盤を明らかにしていく。秋吉氏の述べるところの建築家とは、まさに松村氏が述べるところの狭義の意味での「建築家」と、私は理解した。と、ここであえてフォローするのも、秋吉氏の本をよむ大多数の広義の建築家の溜飲を下げておく必要があると思ったからだ。本書は全体を通して、国家と民という二元論を強調しすぎる印象を受ける。国家的建築家像を扱った近著に、日埜直彦氏の『日本近現代建築の歴史──明治維新から現代まで』(講談社、2021)があるが、これも1970年代を転換点としており、そこから現代にいたる50年間の間に、こうした古典的な建築家像は刷新されている。秋吉氏が、あえて現代の建築家のタイポロジーとして、こうした古典的建築家像を打ち出しすぎることは、本書の射程をむしろ狭めてしまう印象すら受ける。秋吉氏の活動は、現代を生きる建築家誰しもにとって刺激的である。そうしたアジテーションをせずとも、本書の左ページで展開される著者の活動が実感をもって訴えかけてくるのだから。
すでに秋吉氏と彼が率いるVUILDの存在は、日本の現代建築のシーンにおける象徴的存在だ。また、デジタルファブリケーションは、一介のムーブメントではないことも、誰もが気づいている。社会の変革はすでに起きており、秋吉浩気氏やVUILDの今後の展望に期待を抱かせる。その期待に応えるように、本書の終章「変わる設計」では、著者が目指すビルドデザイン(作って、また考える)のプロセスが紹介される。そこでは非線形、偶発性、飛躍が目指される。そのプロセスの一部に、ブリコラージュの概念が引用される。しかし、秋吉氏の述べる方法論は、少々本来のブリコラージュ概念とは、異なるものではないかと疑問も感じる。あえて異を唱えるのも、偶発性をどう生み出すかが、著者の提唱するビルドデザインにおいて肝要であるから、そのプロセスには十分な注意を払っておきたいと思うからだ。
ブリコラージュ(Bricolage)は知られている通り、クロード・レヴィ=ストロースが、『野生の思考(La Pensée sauvage)』で紹介した概念であるが、ブリコルール(器用人)によるありあわせ(もちあわせ)の内容構成が、「いかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたもの(『野生の思考』p.23)」であることを指す。ここで、職人(エンジニア)は対置されている。ゆえに本書で提示させるプロセスのように、必要なパーツを目的に沿って製作し、付け加えていく作業は本来のブリコラージュとは言い難い。それはブリコルールの器用さとは無関係である。ゆえに秋吉氏の述べるところのブリコラージュは本来の意味からは逸脱しているのではないかと述べた。著者はビルドデザインでは、更新の継続により解像度を高めるアジャイルの方法を採用するとしている。しかし解像度を高めることと、偶発性は共存し得るだろうか?
私見を述べれば、このビルドデザインが真にオープンエンドとなり、偶発性を誘因するには、途中で「手放す」ことが必要なのではないかと感じている。そう考えるのも、私は予てより技術の社会化と設計の自由、この2つの時に矛盾する関係に関心を持っており、以前テキストも執筆した(「うつらうつらする技術──20年代ドイツと70年代日本を俯瞰する」『ホルツ・バウ──近代初期ドイツ木造建築』ガデン出版、2020)。このテキストでは、建築における技術、とりわけベンダーロックインの問題について述べた。建築の技術には2つのモードがある。技術があくまでも一回性のデザインにのみ使われるモード。もうひとつは建築をプロトタイプとして作り、同様の技術を社会に実装させようとするモード。とくに後者のモードで注意したいのは、優れた技術が社会に広く実装され過ぎたとき、ベンダーロックインが働き、自由を奪う危険性を孕むことだ。ベンダーロックインでよく引き合いにだされる事例として、ビデオ戦争ともいわれたVHSとベータマックスという2つの規格を巡る争いがある。長時間録画が強みのVHS規格が実質的な覇権を得て、高画質が強みのベータマックス規格は負け、市場から一掃された。換言すれば高画質を選ぶ市民の自由が奪われた。ほかにも、私たちは基本ウィンドウズとマックからしかOSを選べない。インストールされる各社のソフトウェアが両OSの上にプログラムされる限り、オルタナティブなOSの登場を阻んでいる。iOSとAndroid。たくさんの事例があろう。市場原理の上に生きる恐ろしさは、自由が奪われていることにすら、気づきを与えないことだ。建築を事例に出せば、川合健二氏と石山修武氏との逸話でも考えさせられる。石山氏が設計した幻庵(1975年)を川合氏が「石山君、これは芸術になっちゃったね」と述べたという逸話がある。川合氏にとってのコルゲート技術は、決して建築家に新たな表現手段を与えるものではなかったはずだ。既存の法体系からも自由で、素人も扱える建設の自由。幻庵が竣工した70年代は、1973年の世界的なオイルショックの衝撃から、多くの国で建築家も既存の建築体系を疑い、新しい技術を生み出しパラダイム・シフトを起こそうとしていた時代である。こうした時代においてコルゲートという新しい技術がもつ魅力は計り知れない。建築の既存の法体系からも自由で、素人も扱えるという点で、建設の自由さもある。一方で優れた技術は、前述のとおり支配的構造をもつ危険を孕む。そのことを認めればこそ、批判を通して、その引力から逃れる必要もあろう。幻庵という一個性の強い作品を提示することは、私は石山氏の批判行為だったのではないかと思える。その後に石山氏が提唱する開放系技術も、ひとつの技術に収斂しない点で、固有の技術のもつ支配性への意識を感じている。
資本主義社会の市場原理では、こうしたことが度々問題となる。アメリカでは、いま「修理する権利(Right to repair)」の議論が盛んになっていると聞く。これまでメーカーは、購入後の修理まで囲い込んできた。修理不可とされれば、新しい製品を買わざるを得ない。アップデートを含めた保証期限も彼らの手の内にあり、やはりベンダーに支配された状態だった。この修理する権利に対しアップルは反発、マイクロソフトは賛同しているという。ここでもいかに手放せるかが問題となっている。
長くなったが、建築でも当たり前のように使われるCADやBIMのソフトウェアも、一部のメーカーが寡占的状況になっている限り、同様に自由を奪う。その技術がいかに優れた技術だとしても、その技術を使う以上はある不自由さを許容することになる。さらに、ベンダーロックインが働けば、それは支配的構造をとり、社会が自由を奪われる。技術を考えるうえでは、このことには強く意識しておきたいと思っている。だから翻って、ベンダーがほんとうに社会性を公言するのならば、「手を放すこと」も同時に考えることが重要だと思っている。そして、この課題は同様に、よりネットワークを広げながら、システムの開発も行いながら建築の民主化を目指すVUILDにも向けることができることができると、私は考えている。著者は、本書が5年間の総括でさらに次のステップと位置づけている。「自分ごと化」を目指す著者自身も、支配的構造は目指すところではないだろう。著者は最後に、建築におけるナラティブと、次世代への引き渡しについても触れている。だからこそ、ビルドデザインという時間軸をもったこのプロセスにおける、介入という問題についてを本書を起点として議論していきたいと思った。
本橋仁(もとはし・じん)
博士(工学)。専門は日本近現代建築史。メグロ建築研究所取締役、早稲田大学建築学科助手、京都国立近代美術館特定研究員を経て無職。現在は文化庁在外芸術家研修員としてThe Canadian Centre for Architecture (CCA)に滞在。作品に「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」(1896年竣工、2017年改修)、著書に『ホルツ・バウ──近代初期ドイツ木造建築』(共編著、ガデン出版、2020年)、キュレーションした展覧会に「分離派建築会100年──建築は芸術か?」(京都国立近代美術館、パナソニック汐留美術館、朝日新聞社、2020年)など。