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"死"から教わったこと②

人の"死"を受け入れることができなかったわたしの人生。
"死"の受け止め方を、3人の大切な人が"死"を持って教えてくれました。

二人目は、祖父です。
祖母のことは一つ前の記事をご覧ください。

小さな頃からわたしのヒーローだった祖父。何でもできて、何でも聞いてくれる。いつだってそばにいてくれる存在でした。

定年退職をしていた祖父は、毎日新聞配達のアルバイトをしながら畑仕事をしていました。趣味は写真と旅行。庭仕事も大工仕事も何でもしましたが、手先も器用で、よく竹で風車や木を削ってコマも作ってくれました。わたしが小学生の時には学校から呼ばれてみんなに教えてくれる機会もあり、自慢の祖父でした。

「おじいさん、おじいさん」と呼ぶちいさなわたしの姿に、人一倍の愛情を持って接してくれました。まるでちびまる子ちゃんのおじいちゃんとまる子のようだと家族にも親戚にも言われていたような記憶があります。

しかし思春期に入り、わたしも精神を患い、変わっていく孫とどう付き合っていったらいいのか祖父もわからなくなっていったと思います。わたしも酷い状態でしたから、祖父が傷つく態度を取ったり、傷つける言葉も言ってしまいました。

大人になってからも心の中でそれをずっと後悔していました。でも伝える勇気がなかったんですね。一人暮らしをしてからは、手紙や葉書も送ってくれました。その頃にはもう手が震えはじめて、字も上手く書けなくなったと書いてありました。なるべく電話して言葉を交わしたり、なるべく帰省するようにはしていましたが、「あの時はごめんね」の一言がずっと言えなかった。

わたしは22歳で結婚して、25歳で出産を経験しています。

妊娠する少し前から、祖父は緑内障と白内障を患い、だんだんと光を失っていっていて、わたしは何とか祖父にひ孫の顔を見せてあげたいと願っていました。

2ヶ月差で先に妊娠した姉が8月に女の子を出産。10月に生まれた息子も、無事に祖父に会わせてあげることができました。

翌年、完全に祖父は光を失いました。

そして起こった3.11東日本大震災で、街は被災。暗闇のなかで起こった未曾有の事態に、どれほどの恐怖だったか、そして光を失った絶望たるや、祖父のことを思うと胸が張り裂けそうでした。

それから愛する祖母が他界。繋がっていた一本の糸が、切れた瞬間でした。

祖父はみるみるうちに弱り、痴呆が始まりました。

「早くおばあさんのところに行きたい」と、辛そうな祖父を見て、「早く楽にしてあげたい」と誰もが思ったでしょう。それでも戦後を生き抜いてきた男性の強靭な肉体は悲しいほどに強く逞しく、何度も祖父の命を存えさせました。

介護はほとんど長男である父がしていました。

父は震災前に早期退職、母と姉は仕事をしていて、家には父と祖父。この親子の問題も大いにあって、ここは心理学を学びながら深めていきたいと思っているポイントです。

祖父は父に対しとても厳しかった。今の時代では考えられない、昭和の親父でした。父の抱く祖父への尊敬と威厳、その裏には恐怖や自己否定があったのかもしれません。絶対に逆らえない人。きっと何十年もの積み重なったものがあったのでしょう、父も初めての介護で限界で、言動がおかしくなっていく祖父を怒鳴り散らしていました。それも伴い、母・姉と父との関係も悪化するばかり。

戦いのような介護は数年間も続きました。先の見えない迷路のようだったでしょう。一緒に暮らしていなかったわたしには想像もつきません。

そうこうしているうちにわたしは再婚、長野から京都へ移住。遠くなったように感じたのですが、主人の仕事の関係で東北へはよく行くようになり、以前よりも帰省することが増えていました。

そして忘れもしない、2018年の年末。

祖父がそろそろだと聞いて、出張先に向かう主人と別れ、わたしは息子と実家で過ごすことになりました。

ある日、祖父と二人きりになることがありました。ベッドで眠る祖父の手に手を重ね、わたしは伝えはじめました。

「おじいさん、覚えてる?高校生の時、はじめてのアルバイト先におじいさんがカメラをかけてきてくれたの。わたしは恥ずかしくて恥ずかしくて、「こないでよ!帰って!」って言っちゃって、その時のしょんぼりしたおじいさんの顔がずっと忘れられなかった。他にも何度もひどいこと、いっぱい言ったの…ずっと後悔してたんだ。ずっとずっと、ずっと謝りたかった…おじいさん…ごめんね」

「ごめん…本当にごめん。ありがとう、大好きだよ」

泣きながら想いの丈を伝えました。

それから急に眠気に襲われて、祖父の横にある父のベッドに横たわったわたし。すーっと眠りにつき、なにか夢を見たような気がします。全然覚えていません。

はっと目が覚めて、気付いた時には母や姉も部屋に戻っていました。寝ぼけ眼で祖父を見ると「あっ」と、祖父の身体から魂が抜けていたのを感じました。

それから、母がすぐに「おじいさん息してない!」となり、父もやってきました。そこからはあまり記憶がないのですが、「おじいさん、本当によくがんばったね。お疲れさま。」と家族みんなで声をかけていたのは覚えています。

通夜も、葬儀も、わたしは祖母の時と同様、涙ひとつ流れませんでした。

「ありがとう、おじいさん」

最後にわたしに時間をくれたのは、おじいさんの優しさ。あの時間がなかったら、わたしはずっと後悔していたんじゃないかと思っています。

祖父が亡くなった次の年に、私たちは古民家を手に入れました。畑や田んぼをするたびに、おじいさんを思い出します。薪でお風呂を沸かすたびに、おじいさんを思い出します。

そう言えば、庭仕事も大工仕事もできて、手先が器用なヒーローが、いつの間にか隣にいたのだと気付いたのもその頃だったと思います。意志の強さも、似ているかも。いつの間にか、祖父のような旦那さんと家族になっていました。

わたしは祖父の"死"を通して、死は敗北でも絶望でもないことを教わりました。別れではないと確信できたのは、祖父のおかげだと思います。

わたしの中に祖父はいるし、光になった祖父もそばにいる。こんなにもそばで、見守ってもらえているのだと実感したことがこれまではなかった。

”死”は悲しみではないことを、わたしは祖父母に教えてもらったのだと思っています。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。


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