須恵器の歴史と応神=ミチュホ朝
酒井清治氏は『須恵器生産のはじまり』の論文要旨で次のように書いています。
*** 構造窯を使った土器生産が伝わったのを,時期あるいは地域を考慮して段階設定して1段階,2a段階,2b段階とした。
1段階は百済地域から瓦質土器生産技術が,2a段階はおもに加耶地域から陶質土器生産技術が,2b段階はおもに百済・栄山江流域地域から陶質土器生産技術が伝わったと考えた。
1段階の出合窯跡の土器は瓦質でそれも日常什器で渡来人のために生産した窯と考え,のちの陶質土器生産と目的が違うと想定した。2a段階の大庭寺窯跡には平底杯が出土し,その系譜が問題であった。これについては百済・栄山江流域に分布する平底圷の系譜を引くと考え,𤭯も含め,2a段階の加耶系の中にもわずかながらすでに百済系・栄山江流域系が含まれるとした。***
第1段階ですでに百済地域から瓦質土器生産技術がきていることに注目するべきです。2a段階はおもに加耶地域から陶質土器生産技術がきたのは分かり易いのですが、2b段階ではおもに百済・栄山江流域地域から陶質土器生産技術が伝わったという研究結果です。なぜいきなり第1段階は百済地域から瓦質土器生産技術がきているのでしょうか。
これについては百済は加羅地方と同盟を結んでいたという説がありますが、説明に窮すると同盟という言葉を用いてごまかしていくのが、最近の文献史学者、そして考古学者の悪弊です。4世紀の第4四半期に、加羅地方と忠清南道、全羅道のあたりの勢力が同盟を結んだ事実はありません。同盟があったと主張するためにこの時期の忠清南道、全羅道がどのような状況であったかを明らかにすることがまず必要で、しかるべき後に同盟があったことを証明する必要があります。
忠清南道、全羅道が百済領になるのは512年の4県割譲の直前です。487年の紀生磐が全羅北道で乱を起こした直後です。つまり4世紀の第4四半期に忠清南道、全羅道あたりは百済領になっていません。ではどうなっていたでしょうか、学説は明快な答えが出せません。苦し紛れに馬韓であったとしていますが、馬韓は村的なクニの集合体で、当時の強国百済にかなうはずがありません。百済は高句麗と戦う国力をつくるために南方に進出することを強く願っていたはずですが、それができなかったのです。なぜ、百済は南進できなかったかというのは重要な問題です。
私見ではこのあたりは百済の兄弟国ミチュホだったのです。このミチュホが東進して倭国に入ってきたという仮説を私は立てています。この仮説で何が説明できるでしょうか。4県割譲の対象となった地域(全羅道の東側三分の一)が倭国領であったことが説明できます。東進する過程でミチュホ軍は加耶諸国を任那(委任統治国)としました。任那ができたことが説明できます。(任那という漢字の那とは土地という意味です。任那のいみは領土を任せるという意味です)。369年の倭国の新羅侵攻と加羅七国平定(神功皇后の三韓征伐)はミチュホが倭国に侵攻する過程のできごとだと説明できます。372年の百済王から倭王への七支刀の贈呈も、三輪王権の倭王ではなく、百済の兄弟国ミチュホ王への贈呈だと考えれば意味がよくわかります。なぜ百済は南進できなかったのかが説明できます。そして上記の初期の須恵器作成技術が忠清南道、全羅道あたりから来ている理由が説明できます。仮説は複数の事項がうまく説明できなければ意味はありません。ミチュホ仮説は多くの重要な問題をうまく解決することができます。
最近Facebookに「応神・仁徳を研究する会」を作りました。370年ごろから430年ごろまでの歴史について情報交換することが目的です。関心のある方の入会をお待ちしています。
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