20. タカミムスヒと本居宣長
保立道彦教授のnoteから引用させていただいた。
本居宣長はこの二神(タカミムスヒとカミムスヒ)の神名の語尾、産霊=ムスヒを「産巣(ムス)は生(ムス)なり」、「凡て物の霊異(クシビ)なるを比と云う」と説明している。ムスは生成、ヒは霊威を意味するから、ムスヒとは「生成の霊異」であるというのである。こうして本居はタカミムスヒとカミムスヒは「産霊=ムスヒ」の神であって、そのような神として列島の自然、そして民族の歴史自体を「生成させる霊異」であったと論じたのである。ここにはムスヒ神が神話の至上神であり、同時に民族神としての深い性格をもっていることの両方が含意されている。そしてこのムスヒの語源論については後にふれるように、四〇年ほど前、中村啓信が異論をとなえたほかは、神話学・歴史学における圧倒的な多数説となっている。もちろん、これはすべて宣長の独創ではなかった。徳川時代の神道を代表する垂加神道の創始者、山崎闇斎は「ムスビと云ふは、総別、物を生ずる所の神を云。それで皆産霊と云。タカミムスヒは物を生ずる神」と同じようなことを述べているのである(『神代巻講義』)。
さて、この「ムスヒ」の語義解釈は、現在にいたるまで通説として生き続けている。通常は注目されないが、「産は正字で、ムスヒは出産の霊威である」というムスヒの語義についての第二説を述べていることなど、本居の議論の含蓄は深く、それが通説となるにふさわしいものであったことも事実である。後に述べるように、私はこの神名解釈を(第二説を含めて)批判する中村啓信の理解に賛成であるが、宗教としての神道の歴史において、これによって本居がタカミムスヒ・カミムスヒの二神を民族の至上神であるとしたことの意味はきわめて大きいものがあった。つまり、別の機会に詳しく述べたいと思うが、日本の神道神学は一二世紀に始まった伊勢神道から、闇斎の垂加神道まで倭国神話の神学的な意味での至高神は究極のところでは天御中主であるという考え方で一貫していた。ムスヒについての解釈を突きつめていた闇斎も、その点では同じだったのである。それに対して、宣長が初めて神話の至高神は高皇産霊・神皇産霊の産霊二神、ムスヒ二神であるといったことは画期的な成果であった。そして、だいたい六世紀から八世紀の大和国家の時代をとれば、倭国神話の至上神はタカミムスヒ・カミムスヒの二神であったという本居の見解自体は圧倒的に正しい。
さて長々と引用させていただいたが、私は本居宣長も山崎闇斎も、そしてそれに引きずられて(大変失礼ですが)保立教授も間違っていると思う。
タカミムスヒが7世紀末にアマテラスが祭られる前の国家神であったことは間違いないであろう。しかし、あくまで国家神である。つまり国家権力者の神である。ところが本居宣長はこの神を勝手に民俗的な神、民衆的な神と思い込んでいる。
国家権力者の神と国家権力によって統治されるものたちの神は峻別するべきことである。国家権力者の神が民衆、民族の神であるとは直ちには言えないであろう。
その思い込みの上に神学を打ち立てていくので、私は恐ろしいと思う。本居宣長がムスは生成、ヒは霊威と言っても、そのエビデンスはどこにもない。例えばムスは生成であるといっても苔むす岩、ムスコ、ムスメの例しか挙げていない。残念なことにほかの例は挙げられていない。
ムスは生成というなら苔むす岩は苔を生み出す岩、ムスコは生み出す男、ムスメは生み出す女ということになる。私は直感的にストレンジであると思う。ムスという動詞はどのように活用されるのであろうか。それとも動詞ではなく形容詞か名詞なのか。この3つの事例だけでは不十分であろう。
またヒは霊威であると思いついたまま論じているがそのエビデンスはない。例えばアマテラスが祭られる前の万葉集の和歌の中にヒを霊威とする例はない。またタカミムスヒは日本書紀では「高皇産霊」であるが、古事記では「高御産巣日」である。これは古事記の表記の方が古くからの表記で、「高皇産霊」は日本書紀用におしゃれに書き換えただけである。
本居宣長は中国風の日本書紀よりも古くからの和語で書いた古事記を大切にするべきであると言っているのに、ムスヒのヒについては古事記の「日」ではなく、日本書紀の「霊」を用いている。ずいぶん勝手な話ではないか。古くからの和語と言うのであれば「霊」ではなく「日」とするべきである。
ムスヒという神は国家神であるのに民族の神と誤解している以上、それに立脚する神学はかなりあやしいものといわざるを得ない。
実は私は国家神であるタカミムスヒについては意見をもっており、『古代史の仮説Iそらみちゅやまと』(Kindle出版)の中で論じている。それを読まれればなぜタカミムスヒが国家神であるかが分かると思う。またタカミムスヒは国家権力者の神であることを理解しているので本居宣長の自分勝手な議論などには引きずられないのである。