24.ミチュホル仮説の必要性
私は4世紀に百済南方にミチュホルという国が存在していたという説を提唱している。
なぜその仮説が必要になるかを簡単に説明したい。
まず必要性であるが倭国の4世紀の主として古墳を中心とする歴史と、広開土王碑に見られる倭国の半島での活動に齟齬がみられることである。4世紀の古墳を見る限り軍事的な国家像は浮かんでこない。武器はほとんどなく、農家の納屋で大切にしているような針や農具などが出てくるだけである。一方、広開土王碑に見られる倭国は半島に進出した軍事国家である。この齟齬を解消するためにミチュホル仮説が必要になるのである。
つぎに根拠について述べる。
(1)日本書紀によれば雄略天皇は475年に漢城から逃げてきた当時の百済王の文周王に熊津(現在の公州)を与えている。ということはそのときまで、熊津は倭国領であったことになる。
(2)512年および513年、継体大王の時代に百済の求めに応じて倭国は現在の全羅南道および北道の東部の地域を割譲している。いわゆる4県割譲である。実は512年に4県を割譲した翌年の513年には付近の2郡も割譲している。
(3)継体大王の大兄であった匂大兄は4県を割譲したことについて、応神以来の屯倉を手放したと言って非難している。またこの4県を割譲した時期の倭国軍と加羅諸国特に大加羅との軍事的衝突などの詳細な記録が残っており、机上の作文とは考えられない。
(4)倭国にはミズホという国名が残っているが、韓国の百済の兄弟国としてかってミチュホルという国が存在していたが、崩壊してしまったという記録が残っている。崩壊したのではなく、百済の南方の旧馬韓地区に進出していた可能性が考えられる。ちなみにそれぞれの始祖王の名前をとっていわゆる百済を温祚百済、ミチュホルを沸流百済ということがある。
(5)日本書紀によれば応神大王は母である神功皇后の胎内にいたときから大王であったとされ、また九州で生まれたとされている。合理的に考えれば、九州に大王として登場したと考えることができる。しかもこの応神は母である神功皇后とともに瀬戸内海を東進して畿内の王権後継者である麛坂(かごさか)王子を滅ぼしたという記事がある。瀬戸内海には岡山県の笠岡、小豆島などに応神が来たという伝承が残っており、日本書紀には岡山の足守に来たという記事もある。東から畿内に攻め上ったことは確かであろう。
(6)田中晋作先生の研究によれば4世紀末から5世紀初頭の古墳には三角縁神獣鏡を埋蔵した古墳と甲冑を埋蔵した古墳がほぼ対立的に存在しているという。畿内の193の古墳を調査した結果、両者を埋蔵した古墳が7つ、三角縁神獣鏡を埋蔵した古墳が50、甲冑を埋蔵した古墳が103確認されたという。いずれも埋蔵していない古墳は40あったそうである。三角縁神獣鏡を埋蔵した古墳は3世紀末ごろから現れ、4世紀を通じてみられるが、4世紀末には突然なくなってるという。これは三角縁神獣鏡埋蔵古墳の勢力が、甲冑埋蔵古墳の勢力によって駆逐されたことを示している。
三角縁神獣鏡埋蔵古墳の勢力とは三輪山、纏向近辺のいわゆる崇神朝の王権である。その崇神朝の王権は4世紀を通じて勢力を拡大した後、4世紀末にいたって突然、姿を消しているのである。甲冑埋蔵古墳の勢力に敗北したのであろう。
これは上記の(5)で述べた応神勢力が畿内の王権を崩壊させたという推測によく対応する考古学的事実である。
以上のような知識に基づいて私は崩壊したとされるミチュホル王朝は実は例えば340年ごろから380年ごろに仁川あたりから熊津以南に移動し、あたりを平定し、385年ごろ日本列島に侵攻し、三輪山、纏向近辺のいわゆる崇神朝の王権を滅ぼしたのではないかと推測した。その結果、多くの倭人が半島に渡り、百済の南方に住むようになったと思う。
その結果、百済南方のミチュホルは「倭国」という様相を呈するようになった。広開土王碑が391年、倭が海を渡って百済、新羅を臣民にしたと書いているのはこのミチュホルが勢力を伸ばし、百済、新羅に干渉するようになった状況を指している。つまり、ミチュホルは倭国に侵攻して畿内王権を滅ぼした結果、倭王国となっていったのである。
このように考えれば次のような多くの問題を解決することができる。
(1)396年に百済王は広開土王に対して今後、奴客となると誓いながら、その翌年に倭国に王子を質に出して軍事支援を求めているが、倭国がソウルからほぼ100キロ南方にいると考えるとこの入質は理解しやすい。軍事的支援は非常に現実的である。一方、倭国がはるかかなたの畿内にあるとすると、そのような遠方の倭国に軍事的支援を求めるのは非現実的となる。
(2)396年~397年、百済およびミチュホルは高句麗に攻撃されて弱体化する。400年、広開土王は新羅国王から、国内に倭人が満ちて危機的な状況であるから、支援して欲しいという請託を受け、5万の軍を新羅に送って助けるが、このとき新羅に倭人が満ちたのは北九州や畿内から倭人が集まったのではないであろう。百済南方から多くの倭人が新羅に向かったものと考えられる。それはミチュホルの倭人を新羅に集中させて、百済南部のミチュホル国内の高句麗軍の活動を弱める陽動作戦であったと考えられる。
(3)404年、帯方沖に倭の水軍が出現するが高句麗軍によって撃退される。この倭水軍は百済南方のミチュホルから出航したと考えられる。北九州や大阪湾から出航したとするのはリアル感がないと思う。
(4)407年に高句麗は5万の軍隊を繰り出して相手はどこかわからない(碑の摩滅のため)が敵を壊滅させて大勝利を得ている。この相手国は百済とか北燕とする説が提示されている。しかし、私は404年に倭の水軍を壊滅させたことなどから、このときの相手国がミチュホルであったと思う。高句麗からみて百済南方のミチュホルは倭国という認識があったと考えられる。
問題の個所は下記の部分である。
十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界□□□□□石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數。十七年丁未教遣步騎五萬□□□□□□□□□城□□合戰斬殺。湯盡所稚鎧鉀一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城婁城還住城□□□□□□那□城
404年に帶方界(黄海道)に倭が現れたが王自ら兵を率いて平壌より出陣し、倭寇を「要截盪刺」すなわち「待ち伏せして、縦横無尽に斬まくった」とあり、それに続いて407年の戦闘が書かれている。私は404年と407年は連続して倭つまりミチュホルとの戦いを書いたものと推測する。
十七年丁未教遣步騎五萬□□□□□□□□□城□□合戰斬殺。湯盡所稚鎧鉀一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城婁城還住城□□□□□□那□城の解釈であるが、407年、王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した。碑の摩滅で相手が倭であることは確認できないが、一連の文脈で相手は倭(ミチュホル)であったと推定する。
(5)百済は例えば475年ごろには現在の全羅北道、全羅南道まで勢力を伸ばしていたと従来は漠然と考えられていた。しかし、最近の研究では百済がそのあたりに進出したのは東城王のころであり、480年から500年ごろと考えられている。そうだとするとなぜ百済はそれまで南進しなかったのかという問題がでてくるが、ミチュホル仮説をとるとそれは当然ということになる。南方にミチュホルが陣取っていたので南進できなかったのである。
(6)ミチュホルという倭国の一部が半島西南部にあったことで5世紀の仁徳以下五王の冊封問題も容易に解決できる。従来は冊封は実態を伴わないもので使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王を授与されたのは単なる「かっこう」という理解であったが、そうではなくて実際に半島に進出していたからこそ諸軍事の称号が得られたということが問題なく理解されるのである。半島に領土を持たない状態ではこの称号を得ることはできなかったと思う。
以上のように5世紀全体に目をやって実際の倭国の状態の復元を考える場合、ミチュホル仮説は魅力的である(自画自賛です。笑い)。