甲冑と応神朝、仁徳朝

 考古学について全くの素人が考古学者の学術的成果をもとに古代の甲冑について考えてみました。知識の不足、理解の足らないところがあると思います。ご批判を待って再考したいと思います。

 素人的には須恵器にしろ、甲冑にしろ、馬具にしろ専門家の論文は「5世紀中葉」だとか「4世紀末」「古墳時代前期中葉」などと書かれており、分かりにくいので、私は素人として三輪王朝、応神朝=ミチュホ、仁徳朝という分け方をしています。

 まず古代の甲冑として①小札革綴冑(かぶと)と小札革綴甲(よろい)が出現しています。
小札革綴冑11例そして小札革綴甲3例が雪野山、黄金塚2号、妙見山、椿井大塚山、玉手山、西求塚、黒塚、石塚山(福岡)などから出土しています。
 この甲冑の起源は邪馬台国時代に晋から輸入されたもの、およびそれをモデルに作られたもので4世紀の三輪王権の武具でしょう。出土範囲が畿内(京都、奈良、大阪、兵庫)と福岡であり、三輪王権の統治範囲が畿内であることを示しています。

②竪矧・方形板革綴短甲
 常陸狐塚、雨の宮1号、船来山98号、安土瓢箪山、園部垣内、鞍岡山、瓦谷1号、茨木将軍塚、北大塚、上殿、新沢千塚166号、新沢千塚500号、鴨都波1号、五條大墓、タニグチ1号、中山B-1号、若八幡宮、稲童15号、熊本山などから出土しています。
常陸狐塚(茨木)、雨の宮1号(石川)、船来山98号(岐阜)以外は畿内と九州です。木棺直葬、割竹形木棺が多い

 百舌鳥地域からの出土がないので明らかに仁徳朝より前です。問題は古市地域の応神朝のものか、それ以前のものかということになります。いくつかの古墳は三角縁神獣鏡を共伴していますので、ミチュホが倭国に侵攻してきた370年に近いがそれよりも前の短甲ではないかと推測します。ミチュホが侵攻する前の10年ほど奈良盆地南部の葛城氏が勢力をふるっていましたので葛城氏系もしくは葛城氏の影響を受けた三輪王権時代の甲冑だと推測します。三輪王権が葛城氏を滅ぼそうとしなかったのは葛城氏が三輪王権の系統に属する勢力だったからでしょう。方形板革綴短甲は次世代の長方板革綴短甲および三角板革綴短甲と比べて規格化ができていなかったようです。

③長方板革綴短甲(帯金式 中期甲冑) 
 畿内以外に岡山、山口、徳島、香川、愛媛、福岡、熊本、大分、宮崎、鹿児島、茨木、栃木、東京、長野、群馬、富山、石川、福井、岐阜、静岡、三重、宮崎、鹿児島などから出土しています。応神期の盾塚から出土していますので応神朝の短甲でしょう。大阪府では和泉黄金塚古墳や豊中大塚古墳、百舌鳥の七観古墳から出土していますので、応神朝のみならず仁徳朝でも用いられたようです。②竪矧・方形板革綴短甲と③長方形革綴短甲ないし④三角・横矧板革綴短甲は、全く共伴関係にないと指摘されていますが、②竪矧・方形板革綴短甲は360-370年ごろの葛城氏勢力時代、③長方形革綴短甲ないし④三角・横矧板革綴短甲はミチュホの甲冑とすれば全く共伴関係にないことがうまく説明できます。
        
④三角板革綴短甲(帯金式 中期甲冑) 
 古市地域の津堂城山古墳や盾塚古墳から出ていますので応神期ミチュホ時代からでしょう。一方で百舌鳥大塚山古墳や七観古墳からも出ているので、仁徳時代まで継続していたと考えられます。

 ここで大きな問題が生じます。私は応神を始祖王とする応神朝と仁徳を始祖王とする仁徳朝を峻別するべきだと考えていますが、③長方形革綴短甲ないし④三角板革綴短甲は応神朝と仁徳朝に共通になります。王朝が違えば甲冑も異なるだろうと考えていたので、これは自説には障害となりました。そして次のような考えに達しました。仁徳が応神朝を攻めたとき、応神朝の一部は抵抗することなく仁徳に臣従した可能性があります。かれらは古市の鞍塚古墳、珠金塚古墳、野中古墳の近所に住み、甲冑作りに従事しました。応神時代の③長方形革綴短甲および④三角板革綴短甲が仁徳時代に継続的に用いられたのはそのためだと思います。

 
⑤三角板鋲留短甲 
 阪口英毅氏は 鋲留は425年頃から435年頃に出現したと指摘しており、仁徳期末期から履中、反正期になります。

 古市の鞍塚古墳から三角板鋲留衝角付冑が、珠金塚古墳から三角板鋲留短甲が、墓山古墳の陪塚である野中古墳から三角板鋲留短甲および横矧板鋲留短甲が出土しています。したがって鞍塚古墳、珠金塚古墳、野中古墳などは場所は古市にありますが、築造時期は仁徳期であることは把握しておく必要があると思います。ちなみに同じ場所の盾塚古墳は応神陵築造直後の古墳のようです。

 鞍塚古墳被葬者の時期に冑の鋲留が初めて考案され、珠金塚古墳被葬者の時期に短甲の鋲留が考案されたと考えられています(田中晋作『古市古墳群の解明へ』)。仁徳陵で確認されている横矧板鋲留短甲および小札鋲留眉庇付冑は珠金塚古墳から野中古墳(横矧板鋲留短甲出土)までの時期に作られ始め、すぐにオオキミの甲冑として献納されたのではないでしょうか。仁徳治世は413-430年ですから425年頃でしょうか。

 三角板革綴短甲と三角板鋲留短甲が共伴副葬されている例が多いので、三角板鋲留短甲が出現しても三角板革綴短甲を併用していた時期がかなり長くあったようです。

 現在発売中の『真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権』において応神朝、仁徳朝について考察しています。
 またFacebookに「応神・仁徳を研究する会」を作りましたのでよろしくお願いいたします。

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