隅田八幡宮人物画像鏡の解明(詳細)

歴史的背景
 和歌山県橋本市の隅田八幡神社に五、六世紀頃製作の銅鏡が伝わっている。銅鏡に書かれている文字について通説は次のように解読している。癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟 解読上、問題の個所は後述する。
 通説の書き下し文は「癸未(キビ、ミズノトヒツジ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(オシサカ)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(カワチノアタヒ)、穢人今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る」である。この文章が何を意味するかはまだ解明されていない。年号の癸未年については西暦四四三年説と西暦五〇三年説があるが、私はこの銅鏡のキーワード「斯麻」との関連で五〇三年説を採っている。
 五〇三年は百済の武寧王が即位した翌年である。実はその二年前の西暦五〇一年十二月に武寧王の前王である東城王が暗殺されて崩御したことになっている。しかし、李寧煕氏や小林恵子氏は、東城王は実際には暗殺されることなく、日本に亡命して武烈大王になったとしている(1)。その理由は三国史記では東城王は「無道で民に暴虐を加えたので国人が遂に捨てた」と書かれているが、その一方で当時の倭王は武烈大王で、「無道暴虐」きわまりない王であったと記載されている(日本書紀)からである。十分なエビデンスではないが、考察の参考にはなる。

 武寧王と東城王の関係については諸説あるが日本書紀では系図上はいずれも昆支王の子である。武寧王について『三国史記』百済本紀は、先代の牟大王(東城王)の第二子であるとする。つまり東城王と武寧王は親子であるとする。『日本書紀』雄略天皇紀五年条では、加須利君(カスリノキシ、第二十一代蓋鹵王)の子、名を嶋君としている。また、武烈天皇紀四年条では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としているが、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない」という注も記している。『日本書紀』には武寧王誕生の経緯が記載されている。雄略天皇紀五年(西暦四六一年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に質として送り出す際、自身のすでに妊娠していた夫人を一人与え、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。こうした武寧王誕生の経緯を考えると、『日本書紀』の注は正しく、生物学的な血統では蓋鹵王の子であり二人は従弟の関係になる。しかし、王室内での系図で、どのような待遇になっていたかは別の問題で、『三国史記』百済本紀のように系図上では単に東城王の息子にしていた可能性もあろう。西暦一九七一年七月、忠清南道公州市宋山里の武寧王陵が発掘され、墓誌には、「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(西暦五二三年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と書かれていた。斯麻王と呼ばれていたことが明らかになり、日本書紀の記事と一致している。

銅鏡の文字の検討
 こうした事実を前提にして銅鏡の文字を検討すると、まず「斯麻」は諱を「斯麻」ということが考古学的にも文献的にも確認されている百済の武寧王であることは間違いないと思う。シマという漢字は日本書紀では嶋であるが、武寧王陵の墓誌には「斯麻」という漢字が用いられており、隅田八幡宮人物画像鏡の「斯麻」と一致している。男弟王を継体天皇(男大迹)と解釈する説が有力のようであるが、『日本書紀』の「男大迹」、『古事記』の「袁本杼」は「ヲホド」であり、「男弟(オオト/オオド)」とは一致しない。また『日本書紀』によれば継体大王が五〇三年に忍坂(オシサカ)にいるはずがない。継体が即位したのは西暦五〇七年、樟葉(現在の枚方市)においてである。四年後の西暦五一一年、山城の筒城(京都府京田辺市)、それから七年後の西暦五一八年、弟国(長岡京市北部)と遷都を続け、忍坂に近いヤマトの「磐余玉穂宮」(桜井市)に入ったのは西暦五二六年(継体二〇年)である。実に二十年以上も時代が異なっている。五〇三年の倭国王は武烈である。

 武烈大王の泊瀬列城宮(推定地:長谷寺の南、出雲村北方の御屋敷の地)は忍坂と極めて近い(約二キロメートル)。また泊瀬列城宮は雄略大王の泊瀬朝倉宮(推定地:白山神社境内)のすぐそば(一キロメートル以内の近所の可能性もある)である。諱は雄略が大泊瀬(おおはつせ)幼武、武烈は小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)尊と大小コンビになっている。つまり武烈大王は雄略大王に近いことが示されており、牟大(東城王)ではないかという推測をいっそう強くさせる。西暦六四九年に百済王家の危機に際し、雄略は昆支王の次子、末多王(百済では牟大)に百済に帰って王になるよう命じた。雄略自らが昆支王の五人の子供の中で一番聡明な子であると判定したようである。二人は昵懇の間であった。牟大(東城王)=武烈大王とすれば忍坂と泊瀬朝倉宮および泊瀬列城宮とが近いことの意味が分かるのである。泊瀬列城宮は武烈大王すなわち牟大が少年時代を過ごした場所であった可能性もある。少年時代を倭国で過ごしていた牟大(東城王)は雄略に可愛がられていたのであろう。

 牟大こと東城王は西暦五〇一年十一月に衛士佐平の苩加の刺客に刺され、十二月に死去している。しかし、実際には十二月に倭国に亡命し、倭国内で平群の台頭を阻止したいと考えていた大伴氏の支持を得て、西暦五〇二年に倭国王に即位、そしてその知らせを受けた武寧王こと「斯麻」王が百済を去った東城王(牟大)に、即位翌年、すなわち五〇三年(癸未年)に長寿を念じて当該銅鏡を贈与したとすると自然な解釈となる。もう一度銘文をみてみよう。癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
 この中で「日十大王年男弟王」は問題になる部分である。日十を日下とよみ「大草香」に当てる説もある(2)。しかし大草香王は西暦四五四年に亡くなった人物で時代があわない。私は次のように推理した。

 「意柴沙加宮時斯麻念長寿」をよく見ると斯麻王に王という文字がついていない。ということは斯麻王自らの文章であると推測される。つまり、この人物画像鏡を作成する際に、斯麻王は自ら筆をとり、この文字を鏡の周囲に彫りこんでくれと頼んだと思われる。斯麻王は東城王(牟大)に贈呈するので「牟大王」と書いた。そのとき牟という文字が工人らには十分に判読できなかった。「牟」という漢字がムムと十に分かれているような気がした。しかしムムという漢字はない。もういちどよく見るとムムと見えるのは日のように思えた。こうして「牟」という漢字は「日十」という二つの漢字に分解されてしまった。その結果、牟大王は日十大王になったのではないか。これが私の推理である。筆でムムと詰めて書いてみるといい。日に見えないことはないであろう。牟という文字を日十と書き間違えるはずはないと思われる人も多いであろう。しかし、この鏡を作った工人は字をほとんど知らなかったようである。漢字を知らないので模様として捉えて作業をしているので、間違いに気がつかないのである。山尾幸久氏は『古代の日朝関係』の中でこの隅田八幡宮人物画像鏡をさすが専門家というレベルで分析されているが「工人は字をほとんど知らなかった」という見解である。引用させていただく(3)。

 まず反文(反転文字)が多い。四十八字の中に、一「矣」、八「大」、九「王」、二五「奉」、二六「遣」、二九「費」(の「貝」の部分)が反文である(数字は文中の順番)。さらに誤字や字画の配列に疑問のある字が多い。一「矣」は明らかな誤字であるが、干支の「癸」をまちがうとはどのような工人なのであろうか。三、一〇の「年」、一二「弟」、二〇「時」(最後の一画を落す)、二一「遣」の反文、三一「穢」、三八(「尊」)その他、全くちがう字とまちがっているとはいえないが、どれも疑問がある形である。手本にそのような形が書かれていたのかも知れないが、工人もあまり文字を知らなかったのである。

 山尾氏が指摘される反文であるが、我々が印鑑をつくる場合の反転文字である。これほど反転文字が多いことはまさしく工人が「漢字を知らなかった」という証拠である。本来の正しい漢字と反転漢字の区別もつけられないのである。こうした工人であれば牟という字をムム十とすることは十分に考えられるであろう。この文章は斯麻王が自ら書いたのではないかと前述したが、多くの反転文字が含まれているところを見ると、作業中に本来の文字と、反転させた文字が混合した状態で鋳型が取られたのであろう。

 私は、日十大王年男弟王の日十大王を以上のように解決したが、そうすると牟大王年男弟王在意柴沙加宮時の解釈はどうなるか。牟大王の次の「年」は「与」であるとする見解がある。それが正しいとすると「牟大王年男弟王在意柴沙加宮時」は「牟大王と男弟王が意柴沙加の宮に在す時」となり文意は通じる。ただ銅鏡の写真を何度みても、私には「年」にしか見えず、「与」もしくは「輿」には見えない。斯麻王の達筆を鏡職人が読み違えた可能性はある。一番相応しい漢字は「即」で、そうすると「牟大王即男弟王在意柴沙加宮時」は牟大王即ち男弟王が意柴沙加の宮に在す時となって非常にすっきりとする。即という字を工人が年と間違えている可能性もある。

 牟大王が男弟王であるとすれば、牟大王すなわち東城王と斯麻王すなわち武寧王は、百済の宮廷内で兄、弟のような待遇で生活していたことも考えられる。前述の通り、書紀では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」として書かれているからである。『百済新撰』では末多王(東城王)が弟となっているが、日本書紀の解釈によっては、兄は末多王(東城王)、弟が武寧王になる可能性もある。日本書紀では西暦六四一年に昆支が倭国に来た年にシマ王が生まれていることは間違いがなく、またそのとき昆支にはすでに五人も子供がいたと書かれており、末多王(東城王)は次男であったことも分かっているからであろう。ただこの記事の五人の子供が果たして半島で生まれていたかどうかも確定した事実であるとはいいきれない。この五人の子が倭国で生まれたとすれば、『百済新撰』が正しいということになり、牟大王が男弟王と呼ばれ、宮廷内では弟格であった可能性はあることになる。

 男弟王の読み方について李寧煕氏は次のように説明している。「男弟」は韓国式漢字の音よみでナムジェとよめる。このジェの古音はデ。j音をd音に変える読み方はもともと高句麗式であるが、百済でも新羅でもこれにならっていた(今でも北の人々はj音をd音に変えて発音することが多い)。従ってナムジェはナムデとも発音されることになる。一方、牟大王=末多王(東城王)には牟大のほかに餘大という別名があった。餘大の餘の訓は남을(ナムル)である。大はデ、ナムルの末音ルは消えるので餘大はナムデという発音になる。つまり男弟=ナムジェ=ナムデ=餘大となるのである。こうして李寧煕説によれば男弟王とは牟大王のことになる。検討に値すると思う。この場合は「日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」は「牟大王即男弟王が意柴沙加宮におられる時」の意味に解すべきことになるが、この場合は日十大王年男弟王の中の「年」は「即」であったが、工人が間違えたということになる。

 その他にも工人が字を間違えたと考えざるをえないような漢字もある。斯麻念長寿の中の「寿」であるが、奉という字のようである。山尾氏は奉という文字であるから、念長奉で長く奉えんと念ずと解釈している。この解釈であると百済の武寧王が倭国王になった牟大=元東城王に「奉える」ということになり、主従関係を示す用語としてやや問題である。山尾氏は、長奉は中国史書にも用法があると指摘した上で欽明紀中の聖明王の言葉「遂使海西諸国官家,不得長奉天皇之闕(遂に海西の諸国の官家をして、長く天皇の闕(みかど)に奉うることを得ざらしむ)」を例示されている(4)。山尾氏に従って「長寿を念じて」を「長く奉えんと念じて」と解釈すると聖明王だけでなく、武寧王の時代から倭国王に「奉える」という言葉が使われていたことになる。

 これもこの鏡が元百済東城王であった牟大に対して贈呈されたものとする本稿の主張に一致する。東城王は四八七年、当時任那と呼ばれていた全羅北道(挙兵した帯山城は全羅北道、井邑近辺と比定できる)で起こった紀生磐の乱を平定し、続いて全羅道に侵攻して百済領としている。四九○年南斉に朝貢した際、面中王姐瑾を行冠軍將軍、都將軍、都漢王に、建威將軍、八中侯餘古を行寧朔將軍、阿錯王に、建威將軍餘歴を行龍驤將軍、邁盧王に、廣武將軍餘固を行建威將軍、弗斯侯に除せられんと申し出ている。また四九五年には、沙法名を行征虜將軍、邁羅王に、贊首流を行安國將軍、辟中王に、解禮昆を行武威將軍、弗中侯に、木幹那を行廣威將軍、面中侯に除せられんと申し出ている。これらの王侯には地域名がつけられており、それぞれの地域の王候とされたことが分かる。

 ここで注目すべきなのは都漢、面中、八中、阿錯、邁羅、辟中、弗中が全羅北道から全羅南道の一帯と比定されることである。末松保和氏は都漢、面中、八中、阿錯、邁羅、弗中、辟中をそれぞれ次のように比定している。まず都漢は全羅南道高興州、面中は全羅南道光州、八中は全羅南道羅州、阿錯は全羅南道木浦の沖合いの羅群島、邁羅は全羅北道妖溝または全羅南道長興郡、弗中は全羅北道全州、辟中は全羅北道金堤であるという(5)。そして末松氏は(東城王のこうした除正要求は)これらの土地を新しく百済の領有として公認してもらいたいという重大な底意に出るものではないかと指摘されている。

 それまでほぼ忠清南道と忠清北道の一部のみしか領有していなかった百済の領地を東城王牟大は一気に倍増以上拡張したと考えられる。のみならず四七五年に高句麗の長寿王に漢城を攻撃され、蓋鹵王が戦死し、領土の大半を失ない、一時は滅亡したともいえる百済を立て直したのが東城王である。蓋鹵王の後継者であった文周王が治世三年で暗殺され、十三歳で王位に就いた三斤王のもとでは反乱がおき、王も治世二年でなくなるという百済国の危機も、東城王が国王になって後、安定化したのであるから、晩年に失政があったとしても百済国家に対する貢献度は極めて大きい王であった。その東城王に対して後継の武寧王が謙った態度を見せているのには違和感はない。また武寧王は五一二年、五一三年に倭国に四県二郡の割譲を申し込んでおり、百済王になった直後からそれを考えており、もと百済東城王であった牟大に長く奉ずるので、領土の方をよろしくという外交姿勢とも見ることができよう。

 次に遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟の文章の中の取と作という漢字も問題である。銅鏡の文字はいずれも所という文字にしか読めないが、それでは文章の意味が取れない。そこで通説は二つの所という漢字をそれぞれ取と作の誤字であるとみるのであるが、やむをえないと考える。開中費直穢人今州利二人の読み方について、私には特に意見はないが、最近、石和田秀幸氏は蔵中進氏の『「カフチ」考』及び馬渕和夫氏の『隅田八幡宮蔵古鏡の銘文について』を引用して開中は通説のように「カハチ」とは読めないことを指摘している(6)。これに対して反論はないようであり、認められるのではないかと思う。また開とされている字は従来から、そうは読めないとされていたが、新たに歸と読むべきだという指摘もされており、認められると思う。開中の中の字は前述(辟中、弗中、八中)のように東城王の時代に州などの領土を表す表記として用いられており、開中費直は百済高官という推定はできると思う。これも斯麻が百済の武寧王であることの根拠になろう。

 ここで私見をまとめたい。通説が長寿としている部分について、奉と言う字は明確で、寿ではないとする山尾氏の見解を支持したいので、山尾氏の見方を検討する。山尾氏はいつ、だれが、何をしたという点につき「日十大王年」の年を代という意味だと解し、日十大王の世または代とする。誰がについては、斯麻王は百済の武寧王とする。そして斯麻王が「男弟王に長く奉ずるを念じて」としている。百済王が長く奉えたいと考えている対象人物である男弟王は倭王級の人物でなければならないが、山尾氏は、それは男大迹王、つまり後の継体大王であるとする。銅鏡に彫られている癸未年という年号は五〇三年と考えられるので倭王は武烈である。しかし、山尾氏は日十大王はヲシ大王と読める一方、顕宗・仁賢の諱はそれぞれ大石(オホシ)、小石(ヲシ)と見たうえで、顕宗・仁賢は一人の人物であり、実態は弟とされる顕宗、つまり小石(ヲシ)であったとする。つまり顕宗・仁賢の世である。顕宗治世は四八五年から四八七年、仁賢治世は四八八年から四九八年であるから、四九八年までは小石(ヲシ)の治世となるが、山尾氏は五〇三年ごろまで小石(ヲシ)の世であったとみるのであろう。

 それはともかく、北陸の豪族男大迹王を百済の武寧王が「長く奉つる」ということは考えにくい。男大迹王は五〇七年に即位しており、五〇三年の時点で百済にまでその存在が知られていたとは思われないし、武寧王がその時点で男大迹王が次期大王になると見極めたとするとまさに神業に近く、従えない。
 私はこの人物画像鏡は癸未年つまり五〇三年、すなわち武寧王が即位した翌年、百済から亡命して間もない牟大王即男弟王に対して「長く奉つる」意思を表明した記念品であると考える。

 この私の推理が正しいとすると、この鏡は百済で暗殺されたとされている東城王は実は暗殺されることなく倭国に亡命し、武烈大王になったということを裏付ける貴重な、きわめて衝撃的な事実の証拠となる。これが正しいとすると百済の蓋鹵王の血統が倭王になっており、仁徳王朝の血統も絶えていることになる。

武寧王と倭国の関係
 この斯麻が百済の武寧王であることを補強しておきたい。一九七一年、韓国忠清南道公州市にある宋山里古墳群中の武寧王王陵が発掘されて、棺は日本特産の高野槙で作られていたことが分かった。なぜ、武寧王の棺は日本の材木で作られていたのか。続日本紀延暦八年十二月二十九日条に、桓武天皇の母である高野新笠皇太后についての記事がある。「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり」。つまり高野新笠が武寧王の子孫であることが明記されている。また『日本書紀』継体七年(西暦五一三年)条には「百済太子淳陀薨」という記録がある。純陁と淳陀はいずれも百済王子で、倭国に在住し、時期的にも同じ、そして「ジュンダ」というそう多くはない名前から同一人であると考えられる。

 なぜ武寧王の太子が倭国に在住していたのか。関連記事として西暦五〇四年(武烈六年)には百済国は麻那君を倭国に遣わしている。また翌年の五〇五年(武烈七年)四月には「百済国主の骨族」斯我君が派遣されている。日本書紀によれば、麻那君は百済国王の一族ではなかったので、今回、王族の斯我君を派遣したという。さらにその子・法師君は倭君の祖とある。 

 上記のように五〇三年に銅鏡を贈呈した武寧王は、翌五〇四年には麻那君を遣わし、さらにその翌年の五〇五年には「百済国主の骨族」斯我君を遣わしているが、こうした百済外交は、元百済の東城王であった牟大が倭国王になったことが背景になっていると推定される。斯我君は五一三年(継体七年)に亡くなった百済太子淳陀の可能性があり、仮にそうだとすると、後継者がいなかった東城王が次期倭王にしたいと武寧王に申し込んだ可能性もある。その目論見は武烈(牟大)が五〇六年に突然、崩御して実現しなかったのである。まだ倭国に来たばかりの淳陀を倭国太子にできていなかったことから、武烈(牟大)を支えていた大伴氏としても、北陸の雄、袁本杼(継体)がヤマトへ向かって進軍し、五〇七年にはすでに淀川東岸の樟葉(枚方あたり)まで来ていたことは無視できなかった。百済太子淳陀を次期倭王にすることはいかに大伴氏でもできなかったのであろう。

 話を武寧王の棺に戻すが、五一三年に亡くなった百済王子淳陀の子孫が、西暦五二三年崩御した武寧王に高野槙の棺を贈呈したことはありうると思われる。そうだとすれば高野山に多く生育している高野槙と高野山登山口の橋本にある隅田八幡宮は関連性があり、隅田八幡人物画像鏡の斯麻王とは武寧王と考えられる根拠の一つとなろう。百済太子淳陀の一族、和(倭とも言う)氏は奈良県北葛城郡王寺町にいたようであるが、それ以前には橋本の隅田地域に住んでいた可能性があろう。銅鏡は武烈から百済王子淳陀に渡り、継体が倭入りする時代に、その子孫の和氏は大和地方を避けてこの地に逃れた後、隅田八幡に銅鏡を奉納した可能性もあろう。ただ銅鏡は付近の古墳から発掘されたという伝聞があり、経緯は不明である。   

 最後に百済王子淳陀を次期倭王にしようとしたのではないかという仮説について若干検討したい。まずこの時期の皇統の不思議について指摘しておきたい。雄略が四六九年に崩御した後、倭国大王になったのは雄略の第三子、清寧大王(諱、白髪)である。この大王には后妃はなく、従って王子女はいなかった。そこで市辺押磐の子顕宗大王(諱、弘計)が即位する。この顕宗にも子供がいない。『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』にも「子無かりき」とある。そこで兄の仁賢大王(諱、億計)が、即位する。この大王には子女が七名いたが、そのうち王子はただ一人である。その王子というのが後の武烈王なのである。ここが問題である。隅田八幡人物画像鏡の私の推測が正しいとすればこの武烈王は百済王室の血統である。仁賢(諱、億計)の子でなかった可能性が高いのである。そしてこの武烈王にも子供がいない。『日本書紀』に「男女無くして継嗣、絶ゆべし」、『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とある。こうして王子のいない大王が実に四代も続いているのはなぜであろうか。この後に登場するのが応神五世の孫と称する継体大王である。 

 このように雄略が崩御した四六九年から、継体が即位した五〇七年まで、倭国には強い大王は出現していない。東城王が五〇二年十二月に倭国に亡命するとすぐに倭王になることができたのは大伴氏の力によるところが多かった。東城王が倭国に亡命したとき、倭国の王統は風前の灯になっており、平群氏が天下をとる勢いであった。古くから大王直属の部下である大伴氏がこれに激しく反発し、積極的に平群氏討伐に動いたことなどの状況から、牟大こと東城王が倭王に推戴されたと考えられる。見方を変えれば大伴氏が平群氏討伐のために東城王を倭王に仕立て上げたということもできよう。またこのような状況であれば、子供をなすことができなかった東城王が武寧王の子を倭国に招き、後継者としようとしたと考えることもできると思う。

(1)李寧煕『まなほ』第20号
(2)森浩一説
(3)山尾幸久『古代の日朝関係』二三四頁
(4)山尾幸久『古代の日朝関係』二三六頁
(5)末松保和『任那興亡史』百十三頁
(6)石和田秀幸『隅田八幡神社人物画像鏡における「開中」字考』

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