16. 百済王子翹岐について
日本書紀には百済王子翹岐の名前が12回でてくる。まず11回は次に示すように一塊の記事として現れる。
641年、舒明大王が百済宮で崩御したが、その翌年からの記事である(訳文は宇治橋孟 講談社)。
皇極元年(642年)春1月15目、皇后は天皇に即位された。蘇我臣蝦夷をそれまでどおり大臣とされた。大臣の子入鹿またの名鞍作が自ら国政を執り、勢いは父よりも強かった。このため盗賊も恐れをなし、道の落し物さえ拾わなかったほどである。
1月29日、百済に遣わされた大仁阿曇連比羅夫が、筑紫国から早馬に乗ってきて申し上げ「百済国は天皇が崩御されたことを聞き、弔使を遣わしてきました。私は弔使に従って筑紫まで来ましたが、葬礼に間に合うようにと、先立ってひとり参りました。しかもあの国はいま大乱になっています」といった。
2月2目、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を、百済の弔使のもとに遣わして、その国の様子を尋ねさせた。弔使は「百済国王(義慈王)は私に『塞上(義慈王の子で当時日本にいた)はいつも悪いことをしている。帰国する使いにつけて、帰らせて頂きたいのですがと申し上げても天皇は許されまい』と申されました」とのべた
百済の弔使の従者たちは「去年11月、大佐平智積が死にました。また百済の使人が昆倫の使いを海中に投げ入れました。今年1月、国王の母が亡くなりました。また弟王子に当る子の翹岐や其の母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
2月6日、高麗の使人が難波津に泊った。
2月21日、諸大夫たちを難波の郡に遣わして、高麗国の奉った金銀などと、他の献上物を点検させた。使者は貢献のことを終ってから「去年の6月、弟王子(栄留王の弟)が亡くなり、秋9月、大臣伊梨何須弥が、大王(栄留王)を殺し、併せて伊梨渠世斯ら180余を殺しました。弟王子の子(宝蔵王)を王とし、自分の同族の都須流金流を大臣としました」といった。
2月22日、高麗・百済の客を難波の郡で饗応された。蝦夷大臣に詔して「津守連大海を高麗に、国勝吉士水鶏を百済に、草壁吉士真跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に遣わすように」といわれた。
2月24日、翹岐を呼んで阿曇山背連(比羅夫)の家に住まわせた。
2月25日、高麗・百済の客に饗応された。
2月27日、高麗の使者・百済の使者がともに帰途についた。
3月3日、空に雲がないのに雨が降った。
3月6日、新羅は天皇即位を祝賀する使いと、先帝崩御を弔う使いを遣わしてきた。
3月15日、新羅の使者は帰途についた。この月、長雨が続い。
夏4月8日、大使翹岐が従者をつれて帝に拝謁した。
4月10日、蘇我大臣は畝傍の家に、百済の翹岐らを呼んで親しく対談した。良馬一匹と鉄(鉄の延べ板)20挺を贈った。ただし塞上だけは呼ばなかった。この月も長雨があった。
5月5日、河内国依網屯倉の前に、翹岐らを呼んで騎射を見物させた。
5月16日、百済の調使の船と、吉士の船が共に難波津に着いた。
5月18日、百済の使者が調を奉った。吉士は帰朝の報告をした。
5月21日、翹岐の従者の一人が死んだ。
5月22日、翹岐の子どもが死んだ。このとき翹岐とその妻は、子の死んだことを畏れ忌み、どうしても喪には臨まなかった。およそ百済・新羅の風俗では、死者があると、父母兄弟夫婦姉妹であっても、自ら見ょうとしない。これを見るとはなはだしく慈愛のないことは禽獣と変らない。
5月23日、もう熟成した稲が見られた。
5月24日、翹岐は妻子をつれて、百済の大井の家(河内長野市大井)に移った。人を遣わして子を石川に葬らせた。
6月16日、小雨が降った。この月は大変に日照りが続いた。
秋7月9日、客星(常には見えない星)が月に入った。
7月22日、百済の使者、大佐平智積らに朝廷で饗応された。そこで力の強い者に命じて、翹岐の前で相撲をとらせた。智積らは宴会が終って退出し、翹岐の家に行き門前で拝礼した。
これを見ると641年11月に百済で死んだと報告されていた大佐平智積が倭国に大使として来ており、翹岐に対して臣下として対応していることが分かる。
皇極2年(643年)4月21日、筑紫の太宰府から早馬で伝えて「百済国王の子、翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」といった。
4月28日、仮りの宮殿から移って、飛鳥の板蓋の新宮にお越しになった。
この記事から翹岐はそれまでの仮宮から飛鳥板蓋に新宮に移っていることが分かるが、原文は「自權宮移幸飛鳥板蓋新宮」となっており、行幸という意味の「幸」という文字が使われている。百済からの単なる使者の扱いではないことが分かる。
これに次の記事が続いている。
6月13日、筑紫太宰府から早馬で「高麗が使いを送ってきました」と伝え、群卿は語り合って「高麗は舒明天皇の11年から来朝しないのに、今頃やってきた」といった。
6月23日、百済の朝貢船が難波津に着いた。
秋7月3日、大夫達を難波の郡に遣わして、百済国の調と献上物を点検させた。
この記事から皇極2年(643年)6月13日に高麗から使者が来たが、それは舒明11年(639年)以来であることが分かる。実はこの記事と矛盾する記事がある。皇極元年(642年)2月6日と2月21日の記事である。それが正しければ642年に来ているはずである。ところが643年6月に来た時には舒明11年(639年)以来であると群卿は語り合っているのである。どちらの記事が正しいのであろうか。
解決するヒントは2月21日の記事である。そこには次のように書かれている。『諸大夫たちを難波の郡に遣わして、高麗国の奉った金銀などと、他の献上物を点検させた。使者は貢献のことを終ってから「去年の6月、弟王子(栄留王の弟)が亡くなり、秋9月、大臣伊梨何須弥が、大王(栄留王)を殺し、併せて伊梨渠世斯ら180余を殺しました。弟王子の子(宝蔵王)を王とし、自分の同族の都須流金流を大臣としました」といった』
このクーデターは642年に起こっている。したがって「去年の6月、弟王子(栄留王の弟)が亡くなり、秋9月、大臣伊梨何須弥が、大王(栄留王)を殺し」という記事内容から、高麗使が来たのは643年で間違いないことが分かる。となれば643年に来た時には舒明11年(639年)以来であるという記述は正しく、皇極元年(642年)2月6日と2月21日の記事は年号が正しくないことが分かる。少なくとも翌年の643年であろう。
年号が正しくないと思ってそれに続く記事をもう一度読み直すと、
2月24日、翹岐を呼んで阿曇山背連(比羅夫)の家に住まわせた。
2月25日、高麗・百済の客に饗応された。
2月27日、高麗の使者・百済の使者がともに帰途についた。となっている。
翹岐が日本にきたという記述もないのに、突然、阿曇山背連(比羅夫)の家に住まわせたとあり、それに続いて高麗・百済の客、高麗の使者・百済の使者と書かれている。そこで一体、翹岐はいつ日本にきたのかが問題となるが、高麗・百済の客、高麗の使者・百済の使者などの記事からみて643年であろうと推測される。
そこで『皇極2年(643年)4月21日、筑紫の太宰府から早馬で伝えて「百済国王の子、翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」』の記事が時系列では最初で、上記の642年の翹岐の記事は少なくとも、これ以後と考えられる。それでも年月は決定できない。
ただ時系列として確かなのは641年に百済で武王が崩御するとすぐに内乱が起きて、翹岐らは島流しにあったこと、642年9月ごろに蓋蘇文(上記の2月21日の記事の伊梨何須弥)のクーデターが起きていること。皇極2年(643年)6月13日に高麗から数年ぶりに使者が来たことなどは確実であろう。そうだとすると『皇極2年(643年)4月21日、筑紫の太宰府から早馬で伝えて「百済国王の子、翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」』の記事が正しそうである。結局642年2月以降の記事は643年5月以降と一応考えることができる。
以上で翹岐関連の記事は終わるが、12回も翹岐の名を出して、かなり詳しく様子が書き込まれているにもかかわらず、百済に帰国した様子はみえない。その後の消息は全く不明になっている
そして翹岐の名が見えなくなった翌々年、中大兄という名前が突然に登場する。中大兄という名前は22回出てくるが、そのうち孝徳期以後の6回は今回の考察には直接関係がないので、これを除くと16回出てくることになる。また最初の5回は歴史的な事実の記述ではなく、藤原鎌足との関わりなどの説明である。藤原鎌足と中大兄の逸話などは藤原不比等による潤色の疑いが濃厚であるのでそれを除くと中大兄が歴史に登場するのは6回目の記述からである
6回目の記述は次に示すように645年6月の乙巳の変(大化改新)の時である。つまり翹岐が突然に消息不明になるのが643年であるが645年6月に中大兄が突然に登場しているのである。
書紀には次のように書かれている。
6月8日、中大兄はひそかに倉山田麻呂臣に語って「三韓の調を貢る日に、お前に陥かりごとの上表文を読む役をして欲しい」といい、ついに入鹿を斬ろうという謀をのべた。麻呂臣は承諾した。
6月12日、天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄がそばに侍した。中臣鎌子連は、蘇我入鹿臣の人となりが疑い深くて、昼夜剣を帯びていることを知っていたので、俳優(滑訟な仕ぐさで歌舞などする人)に教えてだまし剣を解かせた。入鹿は笑って剣を解き、中にはいって座についた。倉山田麻呂臣は御座の前に進んで、三韓の上表文を読み上げた(多分に作為の加わった文であろうと推察されている)。中大兄は衛門府に命じて、一斉に12の通門をさし固め通らせないようにした。衛門府の兵を一ヵ所に召集し、禄物を授けようとした。
そして中大兄は自ら長槍を取って大極殿の脇に隠れた。中臣鎌子連らは弓矢を持って護衛した。海犬養連勝麻呂に命じ、箱の中から二本の剣を、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けさせ「ぬからず、素早く斬れ」といった。子麻呂らは水をかけて飯を流しこんだ。だが恐怖のためのどを通らずもどしてしまった。中臣連鎌子はこれを責め励ました。倉山田麻呂が上表文を読み終ろうとするが、子麻呂らが出て来ないのが恐しく、全身に汗がふき出して、声も乱れ手も震えた。
鞍作臣(入鹿)は怪しんで「何故震えているのか」ととがめた。山田麻呂は「天皇におそば近いので恐れ多くて汗が流れて」といった。中大兄は子麻呂らが入鹿の威勢に恐れたじろいでいるのを見て「ヤア」と掛声もろとも子麻呂らとともに、おどりだし、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は驚いて座を立とうとした。子麻呂が剣をふるって片方の脚に斬りつけた。
入鹿は御座の下に転落し、頭をふって「日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え」といった。天皇は大いに驚き中大兄に「これはいったい何事が起こったのか」といわれた。中大兄は平伏して奏上し「鞍作(入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」といった。
重要なことであるので何度も書くが、上記のように翹岐の記事は643年4月以後は全くなくなり、翹岐は消息不明となっている。一方で中大兄という人物は645年6月の乙巳の変(大化改新)で突然、現れるのである。
まるで歌舞伎で、それまで翹岐が演じていた舞台が突然に暗転した次の瞬間、舞台中央で演じているのは中大兄になっているのである。読者の皆さん、このからくり分かりますかといった趣向である。不比等は何を考えて日本書紀でこんな演出をしたのであろうか。
それとも不比等の意向でなく、翹岐の行状として残されていた記録と、中大兄の記録として残されていたものを偶々つなぎ合わせたのであろうか。
そして舞台中央に躍り出た中大兄は若干19歳であったが、大豪族蘇我入鹿を自ら惨殺してしまう。このあたりの情景描写はリアル感があり、私は最初読んだとき、あまりにも詳細な殺害現場の描写にかえって創作性を感じたことがあった。
そしてまた興味深い証言が残っている。現場を見た中大兄の兄である古人大兄は震えながら「韓人が鞍作(入鹿)を殺した」と叫んだのである。この証言を聞いて警察だったら誰を一番に捜査するであろうか。韓人つまり半島から来た人が犯人だという証言である。半島から来た人で宮殿に入って来ることができた人物となると翹岐しかいないではないか。翹岐が入鹿を殺したと考えるのが普通であろう。この普通の説が私の説である。
ところがこれまでの歴史家は中大兄が犯人だとしている。中大兄が犯人であるのは当たり前だが、それならば中大兄は半島から来たのかという質問をしてもよさそうであるが、誰もそんなことは考えない。こうして中大兄は脚光を浴びたが、翹岐は人々に忘れ去られてしまったのである。
翹岐が犯人だとして、その動機は何であろうか。それを本格的に説明するにはもっと多くの事を説明しなければならなくなるので、今回は一部のみ理由を書いておきたい(詳細については私の『古代史の仮説Ⅲ天智大王とは誰か』(Kindle出版)をご覧ください)。
翹岐は父である武王が崩御すると兄である義慈王によって他の王族、貴族40余名とともに島流しにされていたのである。丁度そのころ高句麗でクーデターを起こして権力を奪取した蓋蘇文(上記の2月21日の記事の伊梨何須弥)という人物が義慈王に使いを送って、今、唐が朝鮮半島を狙っている。将来のことを考えるなら、島流しにしている王子、王女、貴族たちを倭国に亡命させた方がいいと助言したのである(この辺りは記録には全くないが、私が推定した部分である)。
一年間の島流しで翹岐は権力の恐ろしさを知った。殺さなければ殺される。倭国で活路を見出すためには蘇我を殺して権力を得たいと思ったであろう。大佐平智積も同じ考えであった。大佐平智積が入鹿殺害の計画をして、そのときすでに倭国で一定の政治的地盤を築いていた軽王子(後の孝徳)に相談して協力を得た。こうして乙巳の変は起きたのである。
この事件の後に、かって「大化の改新」と言われた政治改革がなされたと書紀には書かれている。しかし、現在ではその多くは粉飾記事であることが分かってきている。大きな改革は行われていないという。ではなぜそのように粉飾する必要があったのであろうか。実態を隠すためであったと考えるべきであろう。その実態というのは百済から亡命してきたばかりの王子とその取巻きが、政治改革などという理想のためではなく、自分たちの権力のために蘇我を倒したということである。
それにしても百済から来たばかりでそんな大それたことができるはずがないと思われるであろう。しかし、そのように思うのは単に当時の事情を知らないからである。事情を知らないで判定してしまうのは間違いである。事情を知らない事については判定を留保するしかない。判定したければ事情を調べるほかはない。事情を調べるのが歴史学というものである。世の中には事情も知らないで断定だけをしてしまう人がいる。私はそうした人々を断定バカとなづけたい。
さてせっかく翹岐の記録を紹介したので、関連する重要な事実を見て欲しい。「今年一月、国王の母が亡くなりました。また弟王子に当る子の翹岐や其の母妹の女子四人、内佐平岐味、それに高名の人々四十人あまりが島流しになりました」という部分である。
島流しになったと記されている翹岐が倭国に来ているのであるから、翹岐とともに島流しにされた「其の母妹の女子四人、内佐平岐味、それに高名の人々四十人あまり」も倭国にきたとみるべきであろう。其の母妹の女子四人とは翹岐の母と妹の女子四人である。
翹岐が消えて中大兄が突然に登場してくることに注目すると、翹岐の母と妹の女子四人とは、中大兄とその母である宝王女(後の斉明帝)、間人、鏡女王、額田王とすれば、この10年後から活躍する女性4人にピタリと一致する。おまけに翹岐に礼を尽くしていた大佐平智積は中臣鎌足とすれば、この時期の著名人が勢ぞろいすることになる。
そしてこの6人のほかに内佐平岐味と40人以上の貴族がこの後、倭国で大活躍するのである。その中の一部の者が中臣氏である。私は中臣とは中大兄の臣という意味であったと思う。中臣が連であるのは中大兄の従者たちだったからである。連であるのに臣がついているのは本来ならばおかしな話であるが、このように考えれば納得できるのである。倭国で古くから活躍したとされる中臣氏は実はどこに住んでいたかが依然として解明されていない不思議な氏族である。643年より前には倭国にいなかったと考えればその謎は解明する。