須恵器の歴史とミチュホ(ミズホ)仮説

須恵器は朝鮮半島の陶質土器、瓦質土器の製法(登り窯焼成)の技術が倭国に入ったのちに製作が開始されています。
 最古の須恵器は380年ごろとみられていますが、それ以前に倭国で陶質土器、瓦質土器が作成されています。つまり370年
ごろから朝鮮半島の土器製法が倭国に入っています。私は百済南方にいたミチュホ(ミズホ)が370年ごろに倭国に侵攻したという仮説を提出していますが、須恵器の歴史はそれを裏付けるものだと思います。

 積山洋氏の『法円坂倉庫群の再検討』では最も古い須恵器であるTG232型式の年代は4世紀末~5世紀初頭ごろ、TK73型式は5世紀第1四半期ぐらいの範囲で捉えておくのが妥当であると指摘しています。

 最初の須恵器は5世紀中ごろ、5世紀初頭であると従来は考えられていましたが、私の仮説通り、ミチュホ王応神が370年ごろに倭国に侵攻したことを考えれば、380年~390年ごろに最初の須恵器が焼成されたと考えていいと思います。最初の10年は半島の陶質土器、瓦質土器などが製造され、やがて380年ごろからTG232などの初期須恵器が焼成されはじめたのでしょう。
 これは埴輪が野焼きから窯焼成に変わった時期が応神陵ができたときより前でなければならないことからも分かります。応神陵の円筒埴輪が焼成されたのが410年ごろ、そして野焼きと窯焼成の両方の埴輪をもつ墓山古墳の埴輪が395~400年ごろとする学説ともよく整合性します。

 TG232型式は応神期、TK73型式が仁徳期とほぼ対応しています。最古須恵器のTG232型式が栄山江、錦江の土器と似ているのは応神=ミチュホがその辺りを本貫とする勢力だったからでしょう。TG232型式に続くTK73型式が栄山江、錦江の土器と似ているのは仁徳期に忠清南道と全羅道が倭国領であったからです。忠清南道と全羅道が倭国領であったと書いても容易にはご理解いただけないかと思いますが、発売中の『真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権』のほか、アマゾン電子ブック数冊に、関連する論拠を書いていますので読んでいただければありがたいです。
 またFacebookに「応神・仁徳を研究する会」を作りましたのでよろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!