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W. A. モーツアルト:ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K. 466
ピアノ:Tobias Haunhorst
演奏 :MCMF / Philharmonie Südwestfalen(https://www.philsw.de/)
収録 : 2019年10月27日 At デ・ドゥーレン, ロッテルダム, オランダ
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K. 466は、初演時より非常に高い人気を博し、
モーツァルトの全作品中でも屈指の名作と謳われる曲です。
1785年2月10日に完成され、翌日にウィーン市の集会所「メールグルーベ」(現在はアンバサダー・ホテル)で行われた予約演奏会で初演されました。
と、簡単に書きましたが、「曲芸」の極みですよね?
モーツアルト本人は完全暗譜だったでしょうが、オーケストラ用楽譜なんてどうやったのでしょう!
全曲演奏に30分くらいかかる量なのに、オーケストラは練習なしで「ぶっつけ本番」?
まあ何とかしたのでしょうが、常人には理解できない、彼ならではの天才的な行動パターンの一つです。
ともかくも特筆すべきは、この曲でモーツァルトは、初めてニ短調のピアノ協奏曲を書いたことです。これは、後世の我々から見ると大変に暗示的です。
モーツアルトが書いたニ短調の曲といえば、白鳥の唄「レクイエム K626」の一部、歌劇「魔笛」の“夜の女王のアリア”、歌劇「ドン・ジョバンニ」の一部くらいしかないのです。
そればかりか、それらは全てモーツアルトの「死」の直前の曲ばかりであるからです。
勿論、それをモーツアルトが意図していた筈はありません。が、なんとも
誠に運命的な選択をしたもの、と暗澹としてしまいます。
作品そのものにも、やはり驚くべきものがあります。
それまでのピアノ協奏曲の多くが、王侯貴族向け・富裕層向けの社交会で演奏されるような華やかな曲想をもっていたことを考えれば、少し異様です。
例えば第1楽章冒頭のシンコペーションによるいかにも怪しく始まる、予想のできない、得体の知れない、ですが実に魅惑的な、この作品の特異な響きには驚きを禁じえません。
華やかさのみが期待されたそれまでの曲とはうってかわって、激しい感情が遠慮なく書き込まれているのです。
楽器構成すらも変貌しています。ソロ・ピアノと弦楽セット以外に、フルート・オーボエx2・バスーンx2・トランペットx2、そしてティンパニ、という、まるで交響曲をやるのかと思うほどの常識破りなセットです。
このパワフルなオーケストラが、第1楽章冒頭から、暗く不安げな旋律、劇的な展開、厳しさと激しさの入り混じった感情を、強く表現するのです。
これまでのピアノ協奏曲の雰囲気とイメージは、がらりと変わり、まるで、バッハなどは遥か遠くの時代かと思ってしまうほどの強烈な印象を受けます。
それにしても楽譜上に殴り書きで書かれた、それこそ無駄一つない音符の量! 天が遣わした才能に、ため息をつくばかりです。
第1楽章は、無類に高貴で香しく理知的。第2楽章は厳粛でさえあり、
第3楽章は機知に富んでいます。
バッハの音符運びとは明確に違っていて、半音階でふらふら動く中声部、
つまり第2ヴァイオリンとヴィオラがあちこちでぶつかっていて、古典的なメロデイ展開と和声は全く現れず、自由闊達な世界を手探りする音が、
あちこちでこだましています。
これこそ、モーツァルトが既成の音にあきたらず、それをぶち壊しにかかっている瞬間なのです。簡単に言えば、あっけにとられるほどに、時代を突き抜けてしまっているのです。
単刀直入で、素直で直線的な表現が、世間的な世渡りの訓練など全く受けていないモーツアルトの独創的演出が、見事に聞くものの胸を打ちます。
これまで地上にはなかった音楽に、常人はただおろおろとついていくしかありません。
ドラマティックなメロディ展開に満ちたこの曲は、映画『アマデウス』でも、落ち目になって精神的に追い詰められ、退廃していくモーツァルトの
姿とオーバーラップさせ、効果的に使われています。
こんなに見事な音楽が、突然どのようにして、彼の頭の中に浮かんだの
でしょう。なにかの予感が沸き上がって来たのかもしれない。
と、常人である私スピンには思えてならないのです。
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続きます