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S. ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
Sergei Rachmaninoff - Piano Concerto No.2 in C minor, Op.18
ピアノ:カティア・ブニアティシヴィリ
指揮:ジャナンドレア・ノセダ
演奏:TRT フィルハーモニー管弦楽団
収録: 2015年04月26日 At トリノ・レージョ劇場
第1楽章 00:41
第2楽章 11:35
第3楽章 22:23
アンコール曲: ヘンデル:メヌエット ト短調 HWV 434 37:31
ご案内するピアノ協奏曲 第2番 は、幼年時より襲う度重なる不幸に耐え
られず、重度の神経衰弱による心神喪失状態にあった自分自身を描いた、
ラフマニノフの私小説的な音楽ドラマであります。
ロシア正教会の鐘の音のように、冒頭に響く重厚な低和音は、失意の
ラフマニノフによる神への祈りでありましょう。
幼いころから何度も何度も自分を襲う、さまざまな、耐えきれない不幸を、神に訴え、混乱のなかで自恃を保とうとする、もがきと苦しみを、ピアノに叩きつける苦悩の姿が、そこから、音楽という目標に復帰する心情が、隠すことなく さらけ出されています。
「パリに見いだされたピアニスト」という映画の中で、パリの国立高等音楽院にて、主人公を指導する女侯爵という綽名をもつピアノ教師が、本曲作曲時の由来を以下のように語ります。
(この映画については後日、記事を書かせて頂きます)
「自信をもって作曲した交響曲第1番は、初演後に大不評であったこと。
「その際の失意と暗闇の中で書いた曲であること。
「第1楽章は、失意と自暴自棄の中にいること。
「が、ラフマニノフは音楽こそ自分に与えられた仕事であることを、
「心に刻み、一生を音楽に捧げようと誓うこと。
「第2楽章は、慰安と希望が戻ってくること。
「第3楽章は、再生を期すかのように力強いこと。
曲の最後を締めくくる、躍動的で、豊穣の鐘の音が乱打されるかのような
ラストは、大変に感動的なものであります。
≪ ご参考までに、以下は、ラフマニノフの記録の一部です ≫
セルゲイ・ラフマニノフは、1873年4月、父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと、母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子として生まれました。
祖先は、モルドヴァ公国の大公で、ロシア正教会の聖人に列せられていた
シュテファン3世という有名な方で、父母ともにロシア帝国のモルダウ地方(ボヘミアの一部)の領主の血を引く、裕福な貴族の出身でありました。
裕福な貴族の家系とはいっても、ラフマニノフの誕生する12年前の1861年に発布された農奴解放令の影響で、貴族階級の収入は激減しており、ラフマニノフが弱冠9歳の時、遂に一家は破産してしまい、その為、両親は離婚、父親は家族の元を去ってしまうという悲劇に呑みこまれてしまいます。
年端もいかない少年に襲い掛かった衝撃は尋常ならざるものであったのでしょう、幼いラフマニノフは音楽の才能を認められてペテルブルク音楽院に入学することができましたが、12歳のときに全ての学科の試験で落第。
困り果てた母親の奔走で、モスクワ音楽院に転入でき、下宿生活をしつつ
ピアノを学び続けることができました。
幸いなことに、下宿先の主人ニコライ・ズヴェーレフは、著名なピアノ教師で、ラフマニノフはピアノ演奏の基礎を叩き込まれつつ、訪れてくる著名な音楽家との知己を得ることができました。特にチャイコフスキーから才能を認められ目をかけて貰ったことで、作曲家としてもチャイコフスキーの後を追うことになります。
その後、ともかくも大過なく、1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を
金メダルを得て卒業し、順調な作曲家生活を踏み出したように見えました。
が、1897年に初演された「交響曲第1番」は、記録的な大失敗に終り、酷評されてしまいます。
何個目かの災厄が再びラフマニノフを襲ったのです。そして書かれたのが
本曲です。
⇒ S. ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 作品30
へ、まいります。
≪ 演奏者のご紹介 ≫ 以下、Wikipedia よりお借りしました。
カティア・ブニアティシヴィリ(1987年6月-)は、ジョージア(グルジア)出身のピアニストです。
3歳の時に母親の下でピアノのレッスンを始めました。幼少のころ、
母親から与えられたモーツァルトのレクイエムを聴くことに熱中していた。
6歳でトビリシ(グルジアの首都)の室内管弦楽団と初のコンサートを行い、
10歳からヨーロッパ、ウクライナ、アルメニア、イスラエル、アメリカ合衆国でコンサート。
1999年、12歳のときにミシェル・ソニーが主宰するSOSタレント財団において彼に師事。
トビリシ中央音楽学校を卒業後、2004年にトビリシ州立音楽院に入学。
その後、トビリシで行われたピアノコンクールで見いだされ、ウィーン国立音楽大学へ転籍。
ウィーン楽友協会とウィーン・コンツェルトハウスにより2011-12シーズンのライジングスターとしてノミネートされ、2012年にはエコー・クラシック賞で最優秀新人賞を受賞。
ピアノを「音楽の孤独の象徴」と表現しており、曲の解釈を非常に深く追求した、非常に技巧的な演奏を行う人です。
その解釈に基づいた演奏については評価を二分する要因になっていることもありますが、オーケストラとの一体感は非常に高く、名演奏が多い。
また、自身の容姿、演奏スタイル、音楽への取り組み方を全面に押し出した様々なモデル活動、トーク番組、ドキュメント番組に積極的に取り組む姿から、「ピアノ界のビヨンセ」と呼ばれることがあります。