映画『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地(1975)』感想
題名『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』 製作国:ベルギー/1975年
監督:シャンタル・アケルマン
主演:デルフィーヌ・セイリグ
シャンタル・アケルマンによる大傑作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』
弱冠25歳で世紀に残る傑作と呼ばれる本作。
2022年から2023年にかけて、名前を見かけることが多くなった本作。アケルマンが発信し続けていた名目が、ようやく世の中に知られるようになったといったほうが正解なのかもしれない。
省略され続けた女性の家庭での存在。
家事を行う動作、繰り返しの中で失われていく存在、コミュニケーション不全による不快感、機械化された母・妻・女性という象徴。
映画内でも現実でも、価値のないものと捨てられていたような、違和感を遺憾なく映し出したのが本作である。
厚い壁に覆われた孤独な空間で生き続ける日々の行き着く先は
本作の主人公は、タイトルのようにジャンヌ・ディエルマンである。
彼女は未亡人であり、息子との二人暮らしである。
いつものように家事、料理、編み物、買い物などの日々を過ごしている。
3日間の日常が描かれており、1日目はなんの変哲もない日常だ。
しかし、彼女は厚い壁に覆われている。
一方的な語りかけや、不相互のコミュニケーション。
息子との会話ですら、彼女が語りかけても沈黙が訪れる。
それはやはり孤独である。
(ジャンヌ・ディエルマンとして何年か後の)1日目、2日目、3日目
ここで強調しておきたいのは、本作は彼女の人生のたった3日しか描いていないのだが、引かれ続けてきた人生のうちの3日間であるということ。
未亡人となってしまった彼女だが、結婚してからは本当に幸せだったのだろうか?
「子供がほしい」と言っていた彼女が望んでいた形となっているのだろうか?
確立されてしまった日常は、家族(夫や息子、ひいては両親や社会全体)が無意識に彼女の存在を決めつけてしまったからではないか。
崩れていく日常は、彼女の崩壊しきった精神性が反映されていく。
家族という場所でしか存在を見いだせない彼女が歩き続けた人生の先に待ち受けているものは。
カメラは固定の状態を続けているが、日にちが進むごとに、彼女が崩れていくごとに少しずつアングルやショット位置が変わっている。
心理描写は言葉として多くを語らないが、彼女の所作やカメラの動きによって鮮明に浮かび上がってくる。
この卓越した描きは、"抑圧された"という表現が適切であろう。
アケルマンが語った本作の存在意義
アケルマンは本作を上記のように語ったようである。
女性が家事を行う姿勢を淡々と映す。
抑圧された変わらない日常の中で、変えられないというフラストレーションは、アケルマンが社会に抱いていた怒りに近い動機なのかもしれない。
本作ではボタンの入れ替えというシークエンスが存在する。一つのボタンだけが外れてしまい、同じボタンを探しているというシーンだ。
このシーンは比較的終盤に位置しており、本作の決着において重要な位置にあるように思えてならない。
店員の「すべて付け替えた方が早いです。」という言葉が、世の中の社会に対するアケルマンの総意のようでもある。
たった一つなくなってしまったボタンは彼女の存在意義そのもので、なくなってしまったからあとは不要になる。
社会は私がなくなってしまったとき、同じものは植えられず、違うものでしか埋められることはない。
私が存在を続けるには、ほかのすべてのものが入れ替わらなければいけない。
フェミニスト映画と語る本作は、社会の構造自体を変えなければ、彼女の日常も、女性という存在自体も変えることができないということであろう。
きっと本作がようやく評価されたことで、この映画の価値は普遍的なものを持っていることが証明されたようでもある。
ちなみに主演のデルフィーヌ・セイリグについて
ちなみに、本作の主演でもあり『去年マリエンバートで』で一躍有名となったデルフィーヌ・セイリグだが、実は彼女は1960年代からフランスで行われていたフェミニズム運動にも積極的に参加していたようである。
アケルマンが、本作の主演に彼女を抜擢したのにも、彼女のこのような活動や背景を見てのものだったと考えると、より印象深い作品と言えるだろう。
セイリグは本作の撮影後に、「不服従のミューズたち insoumuses」という集団で、自身でも映画を撮影するに至る。
彼女についての記事は下記がとても詳しかったので知りたい方はこちらをどうぞ。