〔憲法コラム14〕社会権の法的性格
1 社会権総説
社会権は、20世紀になって、社会国家(福祉国家)の理想に基づき、特に社会的・経済的弱者を保護し実質的平等を実現するために保障されるに至った人権である。
その内容は、国民が人間に値する生活を営むことを保障するものであり、法的にみると、国に対して一定の行為を要求する権利(作為請求権)である。この点で、国の介入の排除を目的とする権利(不作為請求権)である自由権とは性質が異なる。ただし、社会権にも、公権力による不当な侵害があった場合に、その排除(不作為)を裁判所に請求できる自由権的な側面がある。
日本国憲法においては、①生存権(25条)、②教育を受ける権利(26条)、③勤労の権利(27条)、④労働基本権(28条)といった社会権が保障されている。
2 法的性格と違憲審査基準
〈論点1〉社会権(例えば生存権)の法的性格をいかに考えるか。
A説(プログラム規定説)
結論:25条1項は国家に対する政治的義務以上のものは定めていないと解し、法規範性を否定する。
理由:①資本主義体制の下では個人の生活につき自助の原則が妥当し、生存権を具体的権利とする前提を欠いている。
②具体的な実施に必要な予算が国の財政政策等の問題として政府の裁量等に委ねられている。
③権利の具体的内容とその実現方法が明確でない。
批判:①生存権は資本主義体制の下で、その矛盾から生じる貧困等の問題が放置できなくなったためにその保障が必要となったのであり、資本主義的な規定である。
②下位法である予算により憲法上の権利の実現が制約されるという論理は、法規範性を否定する立場が前提となるから、プログラム規定説の帰結となっても根拠とはならない。
③権利の具体的内容とその実現方法が明確でないということは、手続法上の問題であり、そのことから実体法上の権利であるか否かが決まるわけではない。
B説(抽象的権利説)
結論:法規範性を肯定するが、直接25条1項を根拠として国の立法や行政の不作為の違憲性を裁判で争うことは認められないとする。ただし、この規定を具体化する法律の存在を前提として、その法律に基づく訴訟において、25条1項違反を主張し得るとする。また、この種の法律が存在しない場合でも、立法不作為が国家賠償請求権の問題として争われる余地はある。
理由:①憲法が明文で「権利」と規定している以上、法規範性を否定することは妥当でない。
②他方、権利の内容は抽象的・相対的であり、いかなる手段で生存権の保障を実質化するかについては政治部門による選択の余地がある。
C説(具体的権利説)
結論:直接25条1項を根拠として裁判所の給付判決を求め得るとはしないが、国が25条を具体化する立法をしない場合に国の不作為の違憲確認訴訟を提起できるとする。
理由:25条1項の権利内容は、行政権を拘束するほどに明確ではないが、立法権と司法権を拘束するほどには明確である。
批判:①権力分立との関係で問題がある。
②国の立法不作為違憲確認判決が、具体的にどのような法的意味をもち得るか疑問である。
〈論点2〉生存権についての違憲審査基準をいかに考えるか。
A説(堀木訴訟判決)
結論:明白性の基準を用いる。
理由:「健康で文化的な最低限度の生活」の具体的内容は、時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきである。
B説
結論:生存権を、人間としての「最低限度の生活」にかかわる部分と、より快適な生活の保障を求める部分に分け、前者に対しては、より厳格な基準である「厳格な合理性」の基準を用い、後者に対しては、明白性の基準を用いる。
理由:堀木訴訟判決のように生存権全般に対して明白性の基準を用いるのではなく、人間としての「最低限度の生活」にかかわる部分についてはより厳格な基準を使用することにより、生存権の権利性を裁判上十分に保障することが必要である。
[重要判例]
・最大判昭42.5.24百選Ⅱ(第6版)[136]朝日訴訟
・最大判昭57.7.7百選Ⅱ(第6版)[137]堀木訴訟