クリエイティブ・クラス
どうして「リベラル・アーツ」が一般教養のことなのか、ずっと理解できずにいた。自由な芸術が必修科目なんておかしいじゃないか。それに芸術ってもともと自由なものなんじゃないの。
漠然と思っていたそんなことを、落合陽一さんの著書「働きかた5.0」で「クリエイティブ・クラス」という概念を知ったのをきっかけに、ちゃんと調べてみて謎が解けた。
基本的なこととして、アートはサイエンスと対の概念。アートは「人間が作ったもの」、サイエンスは「神が作った世界、つまり自然」を対象とする。
サイエンスが人知及ばぬものを解き明かす学問であるのに対して、アートは人間が創り出すものを体系化する学問。アプローチが全く異なる。
さらにアートは、手を動かす仕事「メカニカルアーツ」と、概念を作り出す仕事「リベラル・アーツ」に分けられる。リベラル・アーツは、人間が解釈したり考察したりした抽象的なもの。かつて思索という贅沢は、限られた身分にだけ許されたのだ。
なるほどそうかそうなのか。だから、自由人の基礎素養として、絵画音楽彫刻文学歴史哲学などなど含まれているのね。知らずに半世紀以上生きてきたと思うといささか情けないけれど、とにかくまずは前提を理解した。
肝心の「クリエイティブ・クラス」の話はここからだ。
これまで私たちの社会では、手を動かす仕事をブルーカラーの仕事として低く評価してきた。反面、管理職はホワイトカラーの仕事として高く処遇してきた。しかし、これから管理業務はどんどん自動化される。
形式知の処理能力において、人間がコンピュータシステムに勝てるわけがない。当然ホワイトカラーの仕事は消滅する。生き残るのは「コンピュータと人間が複雑に相互作用しながら織りなす社会の中で、機械では代替できない能力を持つ人材=クリエイティブ・クラス」だ。
落合さん曰く、「これからは、専門的な暗黙知をもつクリエイティブクラスを目指すべき。メカニカルアーツを扱う能力を身に着けたうえで、リベラルアーツを持っている人間にだけ大きな価値がある。」
もうひとつ、落合さんの著書でハッとさせられた言葉に、かつての「コンセプト至上主義」がある。私自身そこで踊っていたのではないか、と気づいたのだ。
「アイデアがあれば社会を変えることができると、21世紀初頭には考えられていたが、今はちがう。実装とアイデアが個人のなかで接続されることにこそ意味がある。」
リベラル・アートの意味さえ分かってなかった遅いスタートだけど、私にもクリエイティブ・クラスを目指せるだろうか。信じて進んでみるしかないかな。
※「クリエイティブ・クラス」は、米国の社会学者リチャード・フロリダが定義した階層だそうだ