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美少女じゃなくても、健やかじゃなくても、人は戦える

それは少しだけ未来の話。人類がやりたい放題をやめられなかったせいで、ボロボロになった地球。異常気象と乱獲によって、野生動物はほぼ死に絶えている。普通の人は「都市」のドームの中で籠もって暮らし、ドームの外には収容所送りになった人や、ならず者だけが生きる暗黒が広がっている。一種の「シベリア」が横たわっている。そんな未来を舞台にしたSF冒険小説だ。

父親が「政治犯」になったことで、幼い頃に母親と収容所で暮らしてきた少女。収容所で「スロー」という名前を得て、脚を悪くしてしまう。しかし彼女は、母から引き継いだ「種子」を運び、「シベリア」から脱出しなければならない。その「種子」は不思議な生きものが孵る技術を宿している。野生生物を蘇らせる鍵なのだ。とにかく北へ、太陽の輝く希望の都市へ。母との約束を守るため、何より自分が生き抜くため。厳しい気候、盗賊、追跡者、裏切り……次々と危機が訪れるが、少女は一人で考えて荒野を駆けていく。

作者のアン・ハラムはイギリスの小説家。アン・ハラムという名前はペンネームで、本名のグウィネス・ジョーンズ名義では成人向けのSF小説を発表している。本作も、子ども向けの作品といっても、読後感の重厚さは、なかなかのものだ。

この本の原題は『シベリア』だ。なんとなくキリル文字がハマりそうな登場人物たちの名前だが、ロシア・東欧に限った話ではない。何度もこの本で出てくるし、著者あとがきにもあるが[この物語のシベリアは、場所ではありません。心の状態を表しているのです]ということ。それが大事。収容所のたとえでもあり、おそらくは冷戦時代から続く意味合いもある。

しかし、このタイトルを見たら「シン・エヴァ」を想像した人もいるだろう。ある意味で正しい。共鳴するところもある。けれども、シンジはおそらく、この少女を直視できない。

アン・ハラムは少女を「北へ」向かわせる。これは、19世紀末の女性作家による北極圏をユートピアとして描く小説群へのオマージュだろう。しかし、彼女はそれを消費するだけではない。最終的には、帝国主義の裏返しであるユートピアを克服してしまうのだ。この少女は、賢いだけではない。きちんと不純な心も持っている。だから自分で考えようとする。容姿の美しさなど関係なく、連帯することだけが大事なのではない。失われたものを抱きしめながら、前を向いて歩いていく。それは誰かの犠牲になる美徳ではない。自分のためだ。

いま、あちこちで「シベリア」が生まれている。願わくば、スローのように生きられたら。代用食などの北欧の「キレイさ」が目立つ。これはおそらく、100年遅れで現実がユートピア小説をなぞっているのだ(これについては、別の機会に書きたい)。時代のうねりを変えることはできないし、正しいこともたくさんあるけれど。考えることは忘れたくない。

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