音楽と私
私の家庭、もっと言えば母親は音楽の好みの偏りが強かった。主にクラシックや合唱曲を好んでいた。音楽の先生だったのが影響していたのだろう。所謂職業病というやつだ。
流行りの曲なんかは嫌っていて、これは小学校の担任をやっていると生徒が鬱陶しいくらいに流行りの曲を歌うために嫌いになるのかと邪推してみる。
そういうわけなので私もクラシックなどを好んで聴くようになった。
しかし、そのあと母親の否定するような流行歌の中にも自分の琴線に触れるものを見つけ、結果として私は母親とは違う感性を身につけるようになった。
私はEDMからボカロ、クラシック、合唱曲、聖歌、アニソン、ロック、洋楽邦楽問わずなんでも聴くようになった。
言語も何もかもめちゃくちゃなので私は好きな曲でも何を言っているか一言もわからないなんてことも珍しくない。
私のspotifyのプレイリストの中身はかなり混沌としている。
激しいロックの後にゆるやかなクラシックが流れ、そのあと電波ソングが流れるなんてことはザラだ。
また、良い曲であれば流行りに関係なく好む為、凄まじくマイナーな曲を鬼リピして一人でアーティストランキングを変えたこともある。
かと思えばyoutube shortsで飽きるほど聴いた曲を聴くこともある。
これほど混沌としたプレイリストに規則が一つあるとすれば、それはメロディを好む曲しか聴かないというものである。
如何に良いことを言っていたとしても、好きな映画のテーマソングだとしても、メロディが好みでなければ二度とは聴かない。
歌詞だけを重視してメロディなどお構いなしでいる人もいると聞くが、それならば小説やポエム、Twitterなんかで良いではないかと思う。
何故聴き心地の悪いメロディに載せて聴かなければならないのか、と疑問に思ったが、価値観は多様であるべきだし、決してそのような曲選びを真っ向から否定する意図はない。
話は逸れてしまったが私はかくようにメロディを重視している。
なので、歌詞のない所謂instrumentalもよく聞く。
歌詞のある歌も、声という楽器を使った、曲の一つくらいにしか思っていない。
だから、実は音楽好きであるにも関わらずライブというものはあまり好きではない。
なぜならば大抵、声という楽器が楽譜通りに演奏しないことが殆どだからだ。
無論、それがライブアレンジだとして解釈することもできる。
しかし、大抵の場合CDのメロディの方が良いのだ。
中にはCD以上の声量でCD以上のメロディを奏でる歌手もいるにはいるが、やはりそれはマイノリティだと思う。
マジョリティはCDの劣化版を演奏するのだ。
少なくとも私は今のところライブで、音楽という一面で楽しめたことは一度もない。
どれほど好きな歌手のライブに行っても、会えた喜びはあるにしても音楽の方に関しては失望させられることが専らだ。
もし私が歌手だとしたら、絶対にCDと寸分違わぬメロディで歌えるように練習し、そして変なアレンジ入れない。入れるとしたら作曲を勉強してメロディの調和、テンポの変更などにも全て意味づけを行ってからやる。
その場のノリで、なんて死んでもやらない。
はっきり言ってそういったもので気持ち良くなっているのは歌っている本人だけである。
もっと言えば、大抵の音楽ライブというものは歌っている本人だけが気持ちよくなっているのではないかとさえ思うのだ。
しかし、もしそうだとしたら歌手は物書きに似ていると思う。
物書きは実際のところ、書いている当人が一番気持ち良くなっているのだ。
小説家だとしたら自分の好むキャラに好む展開を迎えさせて気持ちよくなれる。
私のような散文書きは、尤もらしく、自分の意見を殆ど支離滅裂になっていたとしてもお構いなしに、まるでそのページの中ではそれが真実であるかの如く書いて、真理を説いて見せているように錯覚して気持ちよくなるのだ。
結局のとこら全ての創作物は創作者のエゴの塊なのかもしれない。