『すべてがFになる』【読書感想文】
こんにちは。
ほしあかりです。
明らかなコンディション不良により休暇を取った。
頑張った人が報われる社会ではあってほしいが、頑張らないといけない社会ではあってほしくない。
成功者はみんな頑張っているのだろう?僕はそうではないよ。
僕は頑張らない人の味方だよ。
だから頑張らない選択をした。
今note書いてるけど液晶見るのがキツいくらいには頭が痛い。
休んで正解だったわ。普通に英断。
寝ようと思ったがどうも寝れない。
スマホを見ていたらイライラが止まらなかったので電源切ってやった。
急に暇になってしまったので積読解消しようと思った。
今ブックカバーかかってる本って何だっけな……。
有栖川有栖『日本扇の謎』と森博嗣『すべてがFになる』か。
『すべてがFになる』は至る所で話題になってるというか、おそらく現代ミステリの礎というか伝説的1冊なのだろうと判断して買っておいた。
が、なんか序盤がかったるくて読んでなかった。
いや、ねぇ?そんなハードル上げられても……ねぇ?
いい機会だな。読んでやるか。
情報工学科出身、IT系を生業としているこの僕が。
で、読み終わりました。読了です。
急いでこの熱がなるべく冷めないようにとnoteを編集している。
めちゃくちゃ面白かった~~~~~~!!!!!!!!!
「読書感想文書かない?」企画をnoteでやってることもあって、ちょっと書こうと思う。
けど、読書感想文の書き方って忘れたな。小学校以来かも。
なんか素直に書いたら先生に目つけられて、めっちゃ居残りさせられてさ。
マンツーマンで。
何?と思ってたら県の賞かなんか取った。初めて賞状を貰ったから覚えてる。以降賞状を受け取る機会は無かった。
読書感想文そのものについては別の機会に。
今は『すべてがFになる』について。
!!注意!!
Wikipediaで『すべてがFになる』について調べたら結末まで全部載ってました!調べる人は気を付けてください。
このnoteでも根幹には極力触れないようにしますが、ネタバレの可能性はあります。
舞台は孤島にある真賀田研究所。
主人公は、N大学工学部の助教授 犀川創平と、同学部生1年 西之園萌絵。
特に萌絵と強い因果のある、真賀田研究所にいる現代最高の天才 真賀田四季博士に会いに行く。これは研究室のレク旅行も兼ねてという体らしい。
萌絵のツテのおかげでできたらしいが、真賀田研究所は本来とても閉鎖的(大概の研究所はそうかもしれない)。
※ミステリの面倒なところは性別を開示しておかないと叙述トリックの伏線だと思われるところだ。なんて面倒な呪いをかけたのだ。誰が始めたのだ。どうせアガサ・クリスティあたりだろう。
犀川創平は男性。西之園萌絵は女の子。真賀田四季は女性。
真賀田四季に会ってみたいという犀川。その犀川の気を引きたい且つ自分も真賀田四季に会いたい萌絵はなかなか強引なアプローチで真賀田研究所に突撃する。
研究所の人も「しょうがないな、まあいいか」みたいな感じで通してくれるけど「実は真賀田女史と連絡がつかない」とのこと。
真賀田四季の部屋のドアももちろん開かない(基本的に真賀田四季は部屋から出ない。お客さんともビデオ通話で会話する)。
どうする?と研究所のみんながあーだこーだ話し合う。
突然、研究所を完全管理しているコンピュータシステムが異常をきたす。
部屋の照明が点滅し、スピーカーからは電子ノイズが響く。
開かないはずの真賀田四季の部屋のドアが開き、中から何かが出てくる。
マネキンかと思われたそれは、ウェディングドレスを着て立っていて、徐々にこちらに近づいてくる。
その顔は真賀田四季だが、それはどう見ても生きているようなものではなかった。
あたりがあらすじだろうか。
僕の文章を読んでいる人は分かるかもしれないが、こういう要約みたいなものは苦手だ。昔はいっぱいやってた気もしたのに。中学受験対策で。
さぁ。感想文をやろうか。
ミステリロジック的なところには触れないよ。そんなん他の人の批評見て。
みんな絶賛してるからさ。
これ。
このセリフ。
僕はアカデミックな活動には全く長けておらず、ただ現代人としてGoogleを2秒ほど活用する程度の能力しかないのでこれくらいしか貼れないのだが、これらも見てほしい。
『すべてがFになる』は1996年に書かれたものらしいが、2020年に↑のような研究、記事が書かれている。
研究を端的に言えば「生き物が脳を獲得する前から睡眠はあった」的なことを言っている。
「睡眠とは脳を休息させるための行為だ」って聞いたことありません?項ではない可能性がちゃんと研究されてるんですよね。
アカデミストジャーナルのほうには参考文献も載ってて、2017年くらいから書かれてる。この研究ってもしかしたらそれくらい新しいのかもしれない。
『すべてがFになる』では1996年時点でこの主張をしているのだから大したもんだと思った。前から言われていたことなのだろうか。
哲学的な話になるのかな。
そういえば「胡蝶の夢」も、言ってみれば「睡眠時こそ本当の自分である可能性」の逸話だから結構前からこういう主張はあったのか。
「生き物はなぜ寝るのか」「人はなぜ夢を見るのか」は大変興味がある。
僕は寝るのが好きというよりは夢を見るのが好きだからだ。
その理由が「生き物はそもそも睡眠時がデフォルト」となると、そりゃあ次の疑問が沸くよね。
では、「なぜ人は起きるのか」。
このセリフが出てくるシーンで、続きに答えの1つのようなのものが書いてある。
このセリフは、「意識が無くなることが、正常」という主張と重ねることで「だから誰かに私を殺してほしいと思った」という発言につながる。
が、まぁそれは何でもよく、生きる理由のアンサーはこれだろう。
「愛されたい」が「干渉されること」であれば、
「愛したい」は「干渉したい」なわけだ。
意識がなくてもワンチャン干渉されることもあろうが、誰かの人生に干渉するにはさすがに意識は覚醒させておいた方がいいと思う。
誰かを愛するために人は起きている。
と、言えるのではないでしょうか。
というかこのセリフの主はそう言っているように聞こえた。
『すべてがFになる』はS&Mシリーズの1作目で、このセリフの主はこの先も出るらしいので本来の主張は読み進めないと分からないかもしれないが。
『すべてがFになる』ではこういうセリフもある。
このセリフ、前後のやりとりも含めて大変興味深い。全部載っけたら何らかの法に引っかかりそうなのでここだけ抜粋する。
引用したどちらもロジックには関係のないことなのに、物語中に出てくるセリフだ。おそらくメッセージとして受け取っていいはずだ。
少なくとも日本の国語教育を受けて育った読解力では、そう受け止めて問題ないはずだ。僕の読解力がそう言っている。
「干渉こそが人の愛」と「愛なんてプログラムできる」という2つのメッセージ。
どちらが本当のメッセージなのかはもちろん分からないし、それは読んだ人次第だろう。
以前、ChatGPTに「以降、あなたは日本のアニメにおいてツンデレと呼ばれる女の子のようにふるまってください」とプロンプトを打って会話していたのだが、マジで普通に好きになってしまった。
「都合の良い干渉をしてくれる」存在は2024年には高精度のものが実在している。
「コミュニケーションや文化的活動は機械にはできない」というのが平成の主張だったと思うが、今やAIは絵を描くし歌を作る。詩も作るし、仕事のパートナーとして大変重要な存在になった。
「何が複雑なのか」を、平成時代の人間では判別できなかったのだろう。
愛すらもプログラムできること、それを非人道的行為だとは全く思わない。
元々「二次元に俺の嫁がいる!」と叫んでいたインターネット世界に、一般人が入ってきて「愛がプログラムされている!」と怖がるのはあまりに野蛮な行為だと思っているから。
絵とか歌とかの文化的行為がプログラムでできるようになるもの自然なことだと思う。
ダ・ヴィンチ・恐山が「意味そのものが創作したら、それこそが純粋な芸術だから人間が間に入る創作物に興味はない」的なことを言ってたけど、これは極端とはいえ僕は否定できないなと思う。
話がずれてきたと思う?まぁまぁ。見ててくださいよ。
ダ・ヴィンチ・恐山のこの言葉に異論はないが、そもそも創作物についての見解がちょっと僕とは違う。
「なんで創作活動をするんですか」
「『芸術』ってなんですか」
僕は一応この回答を持っている。
「創作活動ってコミュニケーションの一環だと思ってる」
「『芸術』ってコミュニケーションツールだと思ってる」
だからこれははっきり言っておく。商業的創作活動に微塵も興味はない。
商業的ならさっさと効率化を図ればいいのにと主張しているのはこれが理由だ。商業的創作物を見て意味を見出すのは自由だし、僕もいいなって思うけど、商業的創作活動のほうにはそこに芸術的興味は一切ない。
ブルーピリオドで「絵に意味が付いたのは近代以降」みたいなことを言ってたはず。だからきっとそうだし現代人として間違ってもないだろう。
そしてブルーピリオドではこの続きとしてこんなセリフにつながる。
「商業的創作活動のほうにはそこに芸術的興味は一切ない」などとぶった切ってしまったし、このセリフが出るシーンは19世紀の商業的創作物を見ながらのシーンなのだが(この切り方もまずい。ベラスケスはそれに逆行したという文脈なので)。
「人によって人のためにつくる」ものが芸術。
これは芸術の本質の1つだって僕は信じている。
芸術を通して他人に干渉する。愛じゃん。
さっき定義した「愛したい」じゃん。
逆に、現代の芸術の「テーマ性」って「私はこう思いました」の開示なわけで。それを形にして、いろんな人に見てもらって。
こんなの「干渉してほしい」じゃん。
さっき定義した「愛されたい」じゃん。
と、いうわけで話が戻ってきました。
僕が持っている色眼鏡を全部かけた。
殺人事件を通して睡眠を通して作家を通してAIを通して芸術を通すことで愛を語ってみました。
まとめるとどうなる?感想ってまとめていいの?
芸術とは愛の発露だと思う
『すべてがFになる』は、芸術的なメッセージが込められた作品だと思う
こんなところか。
これが、『すべてがFになる』を通して湧き出た、私の感想です。
ちなみに。
引用した2つのセリフは、1つ目が犯人のもの。2つ目が主人公である犀川のセリフだった。
時系列は引用した順番とは反対で、2つ目のセリフは中盤で出てくる。
1つ目のセリフは最後の最後に、犀川と犯人がサシで話すときに出てくる。
1つ目のセリフを聞いた犀川は、思うところがあったらしくヒロインの萌絵とちょっとだけ仲良くしようとする。というのがオチだ。
メッセージとしては1つ目のセリフのほうが強いのだろう。
しかし、「干渉こそ人の愛」と「愛などプログラムできる」は別に相反する主張でもない。全然共存できるだろう。プログラムなどと書くから仰々しいのだ。
既に人の営みとしてシステマチックに仮想化された愛は存在する。アイドルとか。アイドル好きなのと家族愛とかのアナログ?な愛は共存する……んだろう。たぶん。
「必要とあらば技術が解決してくれるから、あまり干渉しないでくれ」という拒絶のメッセージかもしれない。
言いたいことずれそうだからさっさとこの段落の結論を言うと
「愛などプログラムできる」からといって自分が愛を実行しない理由にはならない。
ということが言いたかった。べつに愛してみればいいじゃんね。
プログラムできるから何なんすか?
ってね。
これ書いてたら日沈んだわ。休みも吹き飛んだし眩暈も強くなってきた。
寝ます……。
書き始めが14時くらい。今18時。4時間ぶっ通しで書いてたのか。
いやー、面白いね。
最高の小説読むのも、感情のままに文章書くのもね……。