人生のスタンプシートに押された最初の一個
スタンプシートのようにぽんぽんと、一つずつたまっていくポイントの景品を最後に全て受け取って終わりたい人生でした。途中の項目には入学、卒業、受験、結婚などの人生のイベントがあって、それらを着実にこなせていれば普通の人生が送れるんだと信じてやまなかったころ、私は決して幸せではなかったと思います。けれどもまだ確定していない未来は山ほどありました。
今となっては大したことはないとわかっていますが、小中学生と学校の成績は良かったほうではありました。けれども得意げになれるほどでもなく、父がうるさいので学校に指定されたとおりに勉強計画を立ててそれをこなしていたというだけでした。私自身はなんというか、冷めていたというか心が死んでいるような感じでした。頑張っていた理由としてはクラスで孤立していた分をなんとか取り戻したかっただけなのです。ずっと虚しいままでした。
その後は自称進学校という部類の高校に進みます。通いやすいところに進学できることにはなりましたが、俗にいう高校デビューもうまくいきません。入学して初めて受けたテストの順位は13位でした。ショックを受けて用紙を取り落としました。危惧した通り、このころから父は「東大に行け」とプレッシャーをさらに掛けるようになってきました。進学実績はそれなりにありますが、今まで東大に進学した人などいない学力レベルの学校なのにです。
学年が上がると具合が悪くて学校に行けない日が増えました。病院に行っても理由は不明で対症療法の薬を渡されるというだけです。いよいよ留年するかもしれないというとき、担任だった先生は各方面に掛け合ってなんとか高卒の資格を取らせてくれました。
直前にあった保護者面談で父のいかれた教育論を聞き、この先生がまさに固まってしまっていたのをよく覚えています。学校にほとんど行けていないために、どんどん娘の成績が悪くなっているのもわかっているはずです。それなのに自信満々に「これから東大に行くようにするから大丈夫です」と繰り返す人間のどこに信頼感を抱けるのでしょうか。このとき私は先生に対してひたすら申し訳なさを感じました。
それでもこの学校で青春を過ごせたことだけは人生で唯一感謝していることです。同じ部活の友達や後輩と一緒に多くの時間を過ごせたことは今考えてみてもかけがえのない時間でしかありません。放課後にみんなで集まって楽しくてたまらなかったこと。たまにしか部活に行けなくなってもみんなが受け入れてくれて、くだらないことで笑ったり、好きなものについて語ったりしたことはまさに宝物だったといえます。
その一方で、現実的に見るとこの時点で既に私は人生において大きな周回遅れをしてしまっていました。それは大学受験です。学校に行けなくては学力が足りているわけがありません。しかもここからさらに数年しないと病名はわからないままだったのです。
正しい治療が開始されないまま、私は何故か興味も何もない父の母校で記念受験をさせられました。試験が終わり、暗くなった夜道を通ってぎゅうぎゅうの満員電車に乗って帰りました。私はそのとき初めて思ったのです。自分は一体何をやっているんだろうと。
診断されたことにより私は自宅で療養生活を送ることが許されるようになりました。父がいちいち何か言わないようにとあえて権威のある大学病院に行って診断をもらってきたことが理由だったと思われます。もうこれ以上父に自分の人生について口を出されたくありませんでした。このとき病気は治らないものだとわかりました。
その一方で父とは仲が良かったです。そう見せるのがうまかったのです。ひどく怒られたりしたあとも、その後機嫌が良くなったときには元通りにしなくてはならないという呪いにかかっていました。自分の人生をほとんど壊されたというのにわざと父とショッピングセンターに行って、欲しいものを買ってもらうという滑稽なことをしていました。当時は復讐のつもりもあったのですが、今となってはただ自分の心を傷つけていたのだと思っています。
このころから父は少し変わり始めます。ある年の墓参りで私を「菩薩のようだ」とか言ったのです。いきなりどうしたのだろうと思いました。菩薩というのは仏教の教えで悟りを求めて修行する僧のことを表しています。像では様々な装飾具を身に着けて優しく微笑み、慈悲を表しているものが多いそうです。全ての生き物の救済をするということでした。
自分の都合を押し付けたせいで一生を棒に振らせてしまった娘が未だ笑いかけたりと接してくれるのですから、過去を許してくれたように感じていたのでしょうか。けれども、私は父のこの言動によって怒りがふつふつと湧き上がるようになってしまいました。自分の本心に気が付いてしまったのです。
学生時代にされたことを冗談めかして「あのころのお父さんは怖かったね」とわざと話したりしました。医師による診断という権威が後ろ盾についたのが理由になったのだろうと思いますが、そのたびに父は黙り込むようになりました。そのうちに私もバイトを始めたりということがあり、元々別居していた父とはあまり会わなくなりました。
気付けば私の少ない友達はみんな結婚してしまいました。今となっては出産もして子育て中なのが当たり前の安定したコースに入っていて、みんな幸せそうにしています。私はどうなったかというと、やっぱりあの大学受験のスタンプを押せなかったところで人生はほぼストップしている状態です。少し進めたといえばバイトできたことくらいでしょうか。
恋愛もうまくできませんでした。人生でこなせていないイベントだらけとなってしまっています。私は道を踏み外して断崖絶壁の崖の真下にいるような状態でした。これではもう這い上がるどころではありません。既に諦めるしか道はないのだと思いました。
私は母と毎日ティータイムをもうけることにしました。病院帰りに買ってくるお菓子や、母が注文したお菓子などを紅茶を飲みつつ一緒に食べます。食べながらよく最近の動画サイトの更新を共有したりします。
「ねえこれ、見てよ。このインコこんなことおしゃべりするの」
「すごいわね。こっちは柴犬の動画だけど、見る?」
まるで子供のころみたいだと思う日もあります。実際にその年頃には父の存在でこんな平穏な時間は過ごせなかったのですから、そんなものなのかもしれません。もうこれでいいんだと思っていました。仕事ができなくても結婚ができなくて友達に取り残されたようでみじめな気持ちがあったとしても。そう考えようとしていました。
数ヶ月前、私は病院帰りで夕方にとある駅で電車を待っていました。気温は少し高かったものの風が通っていて涼しく、人はまばらでした。待っている最中に何となく辺りを見ていると、一つ前の車両の停車位置にどこかで見たことのあるような背中を見つけました。
不思議なことに同じ年代の人は同じような背格好だったり服装であることが多いです。私も祖父が亡くなったころによく似ている人を見掛けては涙腺が緩んだりしたものです。まあ、まさかそんなことはないだろうと私は目をそらしてスマホを取り出しました。電車が来たので乗車すると、ちょうど空いている席を見つけます。
なんとか座れてほっとしていると急いで乗ってきた男性が隣に座りました。持っていた荷物を床に下ろして、ぜいぜいと荒い息をしています。階段を駆け下りてきた人なんだろうと思いました。発車するとすぐにこっくりこっくりと頭を揺らし始めます。
(うわ、隣の席の人このまま床に落ちたらどうしよう……)
電車で眠くなったら横にいる人にもたれかかるか、後ろに頭をぶつけるかという人の方が多いと思うのですが、どうやらこの男性はいろんな方向へとバランスを崩してしまうタイプのようです。特に前方に傾いてしまうことときが危なく、あんまり床に倒れこみそうで心配になります。ちらりと横目で見るとその人は先程私が同じような背格好だと考えていた人本人でした。
(えっ? さっきの人だ。まさか)
途端、本当にその人だったのなら声を掛けたほうがいいのではと迷い始めます。横なら迷惑をかけてしまうとはいえ、人がいます。後ろなら壁があります。けれども前方だとそのまま床に倒れて勢いよく頭をぶつけてしまいそうで危険な眠り方でした。男性は途中の駅で一瞬起きて、周りを見てから座り直してまた寝るを繰り返します。
私はどうしたらいいのかよくわからなくなって、とにかく本当にその人物が本人かどうか見極めてからにしようと思いました。知らない人なら注意しづらいからです。こっくりこっくりとしている横顔をよく見てみます。けれども男性はこちらを見ず、視線が合わないのではっきりとはわからないままでした。
しばらくすると電車は乗り換え客の多い駅に停車し、前の列の椅子が一気に空きました。すると先程まで眠気にあらがえないでそのまま通路へと倒れこみそうだった男性がいきなり素早く動き、長椅子の端っこを確保したではないですか。すると必然的にこちら側の席に座っている私とは顔を合わせることになります。
(やっぱりか……)
私はがくりと肩を落とします。もはや父でしかありませんでした。まさかこんなところで会うなんてとつい気落ちしてしまいます。相変わらず眠くてたまらないようで、すぐに横の手すりにもたれて寝始めました。たまに座席からずり落ちそうになりますが、とりあえず今度は頭をぶつけることにはならなさそうです。電車が駅に着くたびに一瞬目が合うこともあったのですが、自分の娘にすら気付かないようでした。
(この人、さっきの状態で死んでたらどうなったんだろう)
私の思考は飛躍し始めます。
「自分の遺伝子を残したかった」という理由で私が生まれたわけですが、その人生をずたずたにしたせいでもう次の世代には繋がらなくしてしまったわけで「それって意味あったのかな……」と自分のことを度外視して哀れに思ってみたり。父のこれまでの人生の栄枯盛衰を思ってため息をついてみたり。
そのうち疲れているときに力の抜けた姿勢で電車に乗ったら狙われてしまうのではないかと危ぶむようにもなりました。今こんな状態で寝てしまっていることで、周りの人に変な人だと思われているのではないかと恥ずかしくなったりしました。その一方で私が働けなくなったせいでこんな年齢の人を働かせているんだということが申し訳なくなったり。「でもそれって本人のやってきたことのせいだし、やっぱり因果応報ということなんだろうか」と考え直してみたりと次の停車駅までに脳内はフル回転でした。
ちなみにその駅が最寄り駅となります。先に父が無事に降りたことを確認してから私も降りました。なんだかやたらと疲れていました。
家に帰ってから大急ぎで母に報告します。
「似てる人がいると思ったらさ、本人だったんだよ!しかも隣の席に座ってきて」というところまできて思わず笑い出してしまいました。ここから眠気で頭をぶつけそうで心配になってという部分になるのに、何故か笑えて笑えて進みません。
なんとなくジブリ映画「魔女の宅急便」で主人公のキキがトンボと自転車に乗って出かけて、途中急スピードで止まれなくなって道路から落ちてしまったのを思い出します。キキが二人とも無事だと気付いて笑いこけてしまうシーン。
――ごめん、だってとても怖かったの。ははは。
あの同じ駅の同じホームで同じ電車の同じ車両の隣同士の椅子に座っている確率ってどれくらいなんだろうと考えるとけっこう奇跡に近い事なんじゃないかと思います。これが普段から同じような時間に乗っていたりすることが習慣になっている間柄だったらわかります。
けれども私は病院に行くとき以外ほとんど電車に乗らないのです。何よりも眠気のせいで危ないんじゃないかという理由で興味を持っていなかったら、あの事態は成り立っていなかったのです。
「どうしてあんなところにお父さんが?」
「たぶん仕事が休みの日だから出かけていたんだと思う」
「そうだったんだ」
「前日に仕事で疲れているのになんで無理やりにでも行くかね……」
ため息をつきながら、母は父に電話をし始めます。そして数分話をして私の方に向き直ると「やっぱりあれ、お父さんだったわよ」と告げました。途端に再び堪えきれなくなり、吹き出してしまう私。実際に自分はどうしたんだろうと思うくらいで、もしかしたらあれは一生で一番笑った日だったのかもしれません。
スタンプシートのようにぽんぽんと、一つずつたまっていくポイントの景品を最後に全て受け取って終わりたい人生でした。女性として幸せになれるとされているコースを全て辿って生きてみたかったのです。けれども、どうやらもう私には無理なようです。更新されなくなったスタンプシートは既に私の人生には合わないものとなってしまいました。「普通」「人並み」とされている道にはもう戻れそうにありません。
私は自分が手にしているスタンプシートではもう参加賞しかもらえないのだろうとずっと知っていました。「大学受験」または「結婚」が押せなかった時点で、全て終わったと思っていたのです。けれども今回のこの天文学的確率の奇跡によって「私の人生にはこれからもまだ面白いことがあるのでは!?」と自分でもよくわからない感動を覚えました。生まれたときからではなく、今この瞬間が起点になっている人生のスタンプシートを新しく作ることはできないものかと考え始めました。
これまで父にされたことを許すつもりはありません。それでも私としてはどうしても伝えたくなる思いがありました。迷った挙句、ぱぱっとスマホに向かって一気にメッセージを打っていきます。
「電車の中での居眠りには注意してね。頭をぶつけそうだったよ」
「ありがとう」
久しぶりの父からのメールを見たとき、やはり少し複雑な思いが浮かんできます。言葉にはできないもやもやしたなんとも言えない感情がわだかまりました。けれども先程たくさん笑ったせいか、すがすがしいような感覚もありました。ずいぶんと大人になった今、私は父とも新しい関係性を作り始めたのかもしれません。
心の中でぽんっと最初の小さなスタンプが押されたような音がしました。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
フォロワーさんのお言葉に励まされたので再度公開いたします。自分的には気に入っている作品なので。もしこの話を読んで不快になってしまった方、いらっしゃいましたらすみません。だけど残念ながらこれが私の人生だったんです。これからもいろいろあると思いますが、何とか歩んでいきます。