日々の判断の積み重ねが自分をつくる
地震に関する諸々のことを書いていいのだろうかと迷っているうちに2月も後半になり、自分自身への教訓と共に記録に残したいとも思っていたので、投稿することにしました。
2024年元旦の大地震は、私の住む新潟県にも大小さまざまな被害を残しました。
私は実家へ帰っていましたが、もし自宅にいたとしたら、そこは津波危険区域になるので逃げなければいけませんでした。
なので、近所の人、同じ学区の人が、どこへ、どうやって、逃げたのかを共有させてもらいたくて、会う人会う人に「リアル避難」の状況を聞いていました。
そんな中、小学校へ避難した知人から、こんな話を聞きました。
学校は長期休業期間だったからか、防火扉が閉められていたようなのですが、防火扉についている人が通り抜ける通路用のドアは押さえていないと閉まってしまう構造。
それを(たまたま)押さえてくれた小学生の子に対して
「みんなが通るためにそこを押さえていろ」
と言って先に逃げていった大人がいたらしいのです。
子供より先に逃げていく大人…衝撃。
他にも、学校の教務室に勝手に入ろうとしている人や、更衣室付近をウロウロしている人がいたそうです。
これはどれも、子供がその様子を見ていて別の大人に報告していました。
その場にいて見ていたわけではないので、この一件を教えてくれた人の主観的な見方が入っているかもしれないし、もしかしたら実際必要な理由があったのかもしれないので決めつけてはいけないのですが。
でもでも、普段だったら、理性的に判断すれば、そのような誤解を招くような行動は取らないのではないかと思うのです。
「緊急時だから、何でもアリ」
そういう意識が見え隠れしているように思いました。
災害時には、そこに便乗するかのように犯罪が起こりますよね。
不当な方法でブルーシートを高額で売りつけて逮捕された一件がありました。
性犯罪、不法侵入、窃盗…色々あると聞きます。
日頃、理性・理屈・建前で生きていたとしても、緊急事態が起こると人は気が動転したり高揚したりして、普段とは違う行動に出てしまうのかもしれません。
でも、普段とは違う行動にこそ、「その人の本音・本心」が表れているのではないかとも思うのです。
非常事態が起こった時に、どう行動するか。
そこに、理性・理屈・建前をあれこれ検討している余地はありません。
その瞬間に現れるのは、
「日々の小さな判断の積み重ねの結果築かれている自分自身」
ではないでしょうか。
日々の小さな判断が積もり積もって、今の自分の思考や在り方を作っているからです。
人に言われたことをやる人は、人に言われた通りにしようとします。
誰かの意見を聞いて決める人は、誰かの意見を求めます。
自分で考え判断している人は、自分で答えを見つけていきます。
自分を中心に物事を考えているか、周りのことも含めて考えているか。
不安や苛立ちを表に出すのか、抑えるのか。
感情に反応するのか、冷静に捉えるのか。
どうでしょうか。
自分の判断は何によって決定されているのでしょうか。
論理なのか、感覚なのか、自責なのか、他責なのか・・・
いざという時、一時の感情に飲まれたり、自分で判断することを恐れて周りに流されたりせず、自分の頭で判断できる人でいたいです。(私もまだまだ修行の身です)
最後までお読みいただきありがとうございました。