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哲学で訂正していく考え方|東浩紀の「訂正する力」を読む
哲学は難しい。とある配信でそういっていたのは哲学者の東浩紀さんだ。いろいろな概念を国や常識という範囲を越えて、人々からの理解を得る。そして心の在り方が少しずつ変わっていき、やがては行動や態度に現れる。そうなるまでには個人差があり、それぞれ見合った時間がかかるからだ。
日本人は頑固である。これと決めたらなかなか変えられない。良きにせよ悪きにせよ、あくまで視点の問題なのだが。しかし、「効果」というものを考えたときに自分が決めたことは果たしてどの程度の意味があるものか理解する必要があるので、監視しつづけなければならない。
決めたということは、決めたことを促した材料があるということ。ここにひとつの概念である「時間」を織り込むとどうなるか。環境が変わり続けるのである。もともとあったものが無くなったり形が変わったり、あるいはどこからともなく知らない何かが現れたりするのである。
すると、自然に環境が勝手に変わっていくので、当初描いていた目的へ向かうべき行動や態度も改める必要が出てくるのである。人が物事を考えるということは、大体の場合は目的に向かう導線がズレていってしまう。だから適度な監視と訂正は、目的を果たすうえで必須なのだ。
日本において、国としての立ちまわり方をおおきく変えたイベントとして、直近200年以内には明治維新と敗戦というものがある。明治維新は国の運営母体の超大型アップデートであり、国の運営規格と外国との付き合い方を変更させた敗戦は、日本にとって大幅な訂正を促した。
普通に生活しているだけで、ただ生きているだけで、この世界はどうしようもなく蠢いている。ただでさえ難解な世界や自然の秩序のみならず、最近ではしれっとAIまで人の生活に関わり始めてきた。おまけに家計に浸透してくる金融分野での荒い動き。
これは由々しき事態であり、まごうことなき現実である。ならば、変えていくしかない。ゼロから何もかもを変えようとするのではなく、変えられるところから変更を少しずつ加えていくのだ。そうやって小さな訂正を加え続けて、よろめきながら進んでいくしかないのである。