久しぶりのお絵描き
昨日訪れた、地元の人にはジョイ本と親しまれているらしいジョイフル本田。
時々ペット館に、飼っているインコのエサを買いに行くのだが、昨日はクリスマスのオーナメントを見に行ってみた。仕事帰りにちょろっと大宮に立ち寄ってみるも、びっくりするほど置いていなかったのだ。というかお目当てだった雑貨屋さんが二箇所ほど、洋服屋さんになってしまっていた。
でもジョイフルもほとんど無かった。あまり売れないのだろうか。
二つだけ買った帰り、
すぐ近くの画材コーナーに呼ばれて足を踏み入れた。ここに分け入るのは久しぶりだった。
スケッチブックは、いくら買ったって描きやしない。描いてもいずれ破り捨てるので、過去に描いた絵はほとんど残っていない。
断捨離の時に、リングをくるくると外して捨てるのは結構大変で、もうそういったノートやスケッチブックではないものにしようと決めていた。
しばらくアレコレと眺めていると、そんな私にぴったりの黒色の手帳型スケッチブックを発見した。こういう手軽なモノの方がいいのかもしれないなぁ、と一冊手に取ってレジに向かった。
そう、もう描くことは無いだろうと思っていたのに、結局買ってしまったのである。
描きたいものが特に無い。
ずっとそう思っていた。それでも私はやっぱり描いてみたくて、銀座にあるアートスクールや川越の絵画教室に通ってみたことがある。
続かない。
やっぱり楽しめなかった。
私は県立高校普通科に進学したが、美術科と音楽科がある当時にしてはちょっと洒落た学校だった。
何故そこに決めたかというと、新しくて綺麗だったから。でも本当は、本当のことを言えば、美術科に憧れていたのだと思う。
小学生の卒業アルバムに書いた将来の夢は『画家』であった。恐れ多くもそんなことを書いてしまった。今でもその文字を書く瞬間だけ、切り取られたかのように覚えている。ただ脳裏に浮かんだだけであって、決してそんな風に思っていたわけではない。それなのに『えーい』と書いてしまったのだ。
誰にどう思われようが知ったこっちゃない。
それから、書いてしまったその言葉がずっと心に引っかかっていて、大人になってもそのひっかかりは拭えなかった。
でも、さすがにもう忘れかけていたのに、コロナ禍で時間ができたから、今までにないくらいの大片付けを始めた。
何度断捨離しても捨てられないものがまた出てきて、きっとそれだけ大切なものなんだろうということがわかるタイミングでもある。
その中の一つが、やはり絵の具や筆や水入れ、破り捨てられて薄くなった数冊のスケッチブックであった。
ん・・
何となしに近くにあったレポート用紙に、手に持っていたボールペンでトマトを描いた。庭のトマト。なかなか明けない梅雨の長雨で、全く色付かない緑色のトマトを描いて、絵の具色鉛筆で赤く塗ってあげた。
なかなかロックなトマトである。
レポート用紙だから、絵の具が紙にしみなくてこれはこれで気に入ったのだが、この写真だけ。実物はもう色褪せて、すっかり大人しくなってしまった。
真っ赤なトマトが今度はわたしの心に焼き付いてしまって、
少しだけ庭の紫陽花を描いてみたりしたが、どうも違うようで、またそのままになっていた。
これは何なのであろう。
抵抗なのか。
それとも執着なのか。
どっちでもいいのだけれど、先月自分のお誕生日にプレゼントしたヒヤシンスの芽がニョキッといい感じに出てきたので、今日は記念に成長日記を描きたいと思った。
根っこが
何故か片側だけ(T-T)
買った時点でたしかにちょっと傾いていて、何度か向きを直してみるも、ダメだった。
いいの、いいの
きっとわたしらしい。
久しぶりの鉛筆画。
とても楽しかった。集中して描く時間というのは、何とも心地よく、自分ではないような何かの介入というか、気がつけば"描かれていた"
そんな感覚を思い出すことができた。
私にとって描くということは、こういうことなのかもしれない。
だから描きたいもの、その"対象物"は無いと思ってきたのかもしれない。