「青春の終わり」のモノローグ──新海誠『雲の向こう、約束の場所』試論

 この映画には、一つの予感が漂っている。
 それは青春でありながら爽やかでないもの。それは恋でありながら届かないもの。それは達成でありながら手に入らないものだ。
 それの名前は「喪失」。つまるところ、この映画は喪失についての物語だ。

 前作『ほしのこえ』も、次回作の短編連作『秒速5センチメートル』も、どちらも同じテーマをもつ。届かない思い、聞こえない声。繋がっているという幻想の中にしか居場所がないという悲しみ。その鮮烈で内省的なイメージを、モノローグに結晶させてフィルムに投影していたのが、『君の名は。』(意図的にダイアローグであろうとした『星を追う子ども』は除くとして、個人的には『言の葉』からだと思うが)以前の新海誠の作劇だった。
 そうしたテーマは人物を、状況を、台詞を変えて絶えず物語られてきたのだが、僕は、そのイメージが最も鮮烈に顕れているのは、この『雲の向こう、約束の場所』であると思う。
 このフィルムには、さながら酸素のように、喪失の予感が溢れている。だがその喪失とは、単なる恋の破局や、関係の断絶を超えたものだ。
 それは「青春の終わり」。モラトリアムを抜きにすれば、その瞬間子どもは否応なしに大人になるのであり、そこにもう少年(少女)としての特権や、陶酔や、その他あらゆるものは介在しえない。
 そういった喪失こそ、この映画で新海誠が語ろうとしたことではないか。本稿は、そうした仮説に基づいたものである。

 ──「いつも何かを失う予感があると、彼女はそう言った」。『雲の向こう、約束の場所』はこのモノローグから始まる。これはその後の展開を予感させるものでありながら、冒頭のヒロキの心理に対応したものでもあるが、なんにせよ、このモノローグを紡ぎ出した本人である現代のヒロキは既にいくつかのものを失っているのだった。
 時系列で言えば一番最後に描写されるはずの部分が、冒頭に配置されているというこの映画の構造は、「予感」を際立たせる。一般的なラブ・ロマンスにおける、男の主人公が最後にヒロインと結ばれるのかどうかを伏せるというある種のミステリー的な快楽は、ここでは丹念に排除されている。この冒頭の部分で我々は、既にヒロインが何らかの形で「失われて」しまっていること、そしてヒロキとは断絶してしまっていることを悟ることができる。そんな我々に、ヒロキはどこかうわごとのような調子で語りかける。──「今はもう遠いあの日。あの雲のむこうには、彼女との約束の場所があった」。
 彼女との約束。それは国境の向こうにある塔まで、自作の飛行機で辿り着くことだった。なぜ塔に行きたいのか。なぜその手段が飛行機なのか、といった問いは、ここでは意味を成さない。それは少年期に特有の憧れのようなもので理由はなく、その意味において塔と飛行機は一つの象徴なのだと解釈することができる。
 象徴。僕はこれは、「青春」の象徴なのだと考えている。
 『雲の向こう~』に限った話ではないが、初期の新海誠作品は、極端にモブの数が少ない。キャストの問題もあったのだろうが、そのことがそれら作品群にパーソナルな質感を与えていることは事実だ。しかし青春を構成する学園とは、つまるところ「大量に人のいる場所」であり、まとまりを欠いた衝動の集積に他ならない。
 しかしこの作品は、その「学園」を最大限排除しようと務めている。学校でのシーンは必要以上に描写されず、また描写されたとしても、それは主人公であるヒロキと、親友のタクヤ、ヒロインのサユリのみである。学園を抜きに青春を物語ること。学園を抜きにして、子どもたちを大人にすること。そのためには、どこかで何かが「学園」に取って代わらねばならない。
 「学園」なるものの空白を埋めるもの。僕はそれが「塔」と「飛行機」だったのだと思う。象徴としての青春。三人だけで成立した青春。その純粋なイメージはこの作品のテーマを支え、強化している。
 だがその二つから、サユリの昏睡によってキャラクターたちは隔てられる。
 サユリは夢を見続ける。終わることのない並行世界の夢を。誰もいないその世界には、無数の世界の存在を示す塔が建ち並び、その果てにはあの「約束の場所」がある。
 サユリの夢について、この映画は多くを語らない。並行世界の情報を受信している、ということが説明されはするものの、なぜあの形なのか、それにどのような意味があるのか、並行世界研究者の娘とはいえ、なぜ彼女がその受信機に選ばれているのか、ということは、他の多くのことと同じように、やはり語られない。
 これに関しては考察の余地があるのだろうが、僕はこれもまた一種の象徴であるように思う。それもテーマ上の象徴であるだけではなく、ヴィジュアル上の象徴でもあるのだ、と。
 このフィルムに映し出される世界は、ひたすらに美しい。現実的でありながらその現実を超越した、濃密で隙のない光彩が画面を埋め尽くしている。そしてそれは、夢もまた同様だ。サユリの夢は、そうした世界の景観を俯瞰することを我々に許す。
 「異界」の風景。それはアニメーションにのみ許された虚構だ。だがそれが、現実を映し出すのと同じ密度で描写されれば、我々は現実の方を異界と思うようになる。そういった効果がここでは発揮されている。
 そうした美しい風景の俯瞰、という視点は、サユリの台詞の中にも表れている。
 ──「世界は本当に綺麗なのに、私だけが、そこから、遠く離れちゃっている気がするんだ」
 世界が美しいこと。それが自明だとしても、その景観の中に入り込めないという断絶には何の影響も及ぼさない。この断絶感は他の場所にもみられ、二人の声がシンクロする場面では、
 ──「まるで、深く冷たい水の中で息を止め続けているような、そんな毎日だった。僕だけが/私だけが、世界に一人きり、とりのこされている、そんな気がする」
 と語られる。
 しかして、ヒロキはそうした断絶の向こうにある約束の場所に向かおうとする。その手順を巡る世界観に対する考察は一先ず置いておくとして、彼はタクヤと、眠り続けるサユリとともに塔へ向かって飛び立つ準備を進める。約束の場所は、目前まで迫っていた。だがそれは達成でありながら、同時に喪失でもあった。
 「約束の場所」は、そこに辿り着くと同時に「約束の場所」ではなくなる。塔は彼らの時間の中で役割を失ってしまう。
 飛行機に積み込まれたシーカーミサイルはそうした、塔をめぐる認識の中に位置づけられるがゆえに、現実の暴力の象徴と言うよりはむしろ、塔≒青春の破壊のための象徴的なアイテム、つまりは象徴としての青春のオプションのようなものであると言える。
 約束の場所である塔を爆破すること。青春を爆破すること。それは一種の儀礼だ。叙情ではなく、現実の手続きとしての行為なのだ。
 儀礼の、儀礼としての「青春の終わり」が、ここにはある。
 一般的に、青春の終わりとは卒業式のことだ。義務教育の体系には含まれていないのでここで触れることははばかられるようにも感じるが、高校の卒業式の終了と同時、我々は青春なるものから解放される、ということに、世間ではなっているようだ。
 だが卒業式とは、マクロな儀礼であり、決してパーソナルな領域までその効力を及ぼすことができるものではない。換言すれば、それは「みんな」のためのものであって「ぼく」のためのものではない。
 だからこそ、この儀礼は必要だったのだと僕は思う。青春の象徴を、同じ象徴によって破壊し、終了させること。それこそが大人になるということであり、子どもでなくなるということなのだ。僕はこのフィルムはそういうことを語っているように感じたし、だからここで語られる言葉のすべては、青春なるものに実感をおぼえることのできなかった僕の胸を強く打ったのだ。
 サユリは夢を喪失することで現実へと帰還する。それはラブロマンス的なカタルシスではなく、やはり儀礼の一様相に過ぎない。これもまた「青春の終わり」であり、ここにおいてすべては過去のこととなったのだ。
 最後に、ヒロキはこう締めくくる。
 ──「約束の場所をなくした世界で、それでも。これから、僕たちは生きはじめよう」。
 青春の終わりが何をもたらすのか、僕は知らない。それが希望なのか絶望なのか、終わりなき日常なのか、破綻した非日常なのか、僕は知らない。
 それでも、これから僕たちは生きはじめよう。それに続く言葉を、僕たちは多分、探し続けるしかないのだろうと思う。なにせ、青春は終わったのだから。
 そうした「終わり」を──「喪失」を見つめるこの映画は、僕に多くのものをもたらした。これは極めて重要で、貴重な作品だったのだ。

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