【時評】繭の日々は青色に沈む──『呪術廻戦』「懐玉・玉折」について
・はじめに
一時期「青春の終わり」というモチーフに惹かれていたことがある。
無論、それは今でも変わらない。そのモチーフは僕にとって特別なものだ。けれどかつて、高校生くらいの時にそこに感じていた切実さ、それ以外に生きる場所はない、とさえ言えるほどの危うさは、今はもうない。少年(少女)の限定的な時間であるところの「青春」が「終わること」。その寂寥や無情、あるいは希望を、僕は切実に求めていた。
そんな時期に出会ったのが、この『懐玉・玉折』だった。コミックス『呪術廻戦』の8・9巻にあたる部分のストーリーであるそれに、僕はただひたすらに魅了された。頭の片隅には常にこの物語のことがあったし、発する言葉のすべてには、この物語の文法が、気配が息づいていたようにさえ思う。
しかしそれは、形になる思いではなかった。当時の僕は、どうしてそれほどこの部分に惹かれたのか、正確に、客観的に分析することが難しかったのだ。そんな状態では表現など出来ようはずもない。そうして、僕と『懐玉・玉折』は、一定の、それこそ「アキレスと亀」のような宿命的な距離を保ち続けていた。
しかしコミックスにとって、メディアミックスの臨界点であるところのアニメ化が完了したことで、僕はこの物語に対して何ごとかを語らなければならない、と強く感じるようになった。つまるところ、これはそうした動機から発出したものである。そのため、厳密に言えばこれは時評ではない。そしてひょっとすると、感想でさえないのかもしれない。それは散文とでも言うべきものになるのかもしれない。
これはたぶん、屈折した青春についての散文だ。終わることによって、始めて価値を帯び、成立する時空間についての。
・「懐玉」──散る青春と静謐な繭の崩壊
『懐玉・玉折』は、そのタイトルの分裂が示す通り、二部に分かれている。「星漿体」天内理子の護衛を主目的とする前半と、それが失敗に終わった後を描き出す後半の二部だ。
後半は後の(刊行年次は前だが)『呪術廻戦0』や「渋谷事変」に対する布石としての向きが強い。だが前半は、奇妙な独立性を保ちつつ進行している。なぜか。
それは「青春」という言葉が指し示す時空間の閉塞性や、ある種の純潔性を表現するためだったのではないか、と僕は考えている。
呪術高専は山奥に位置しており、外界からは隔離されている。そしてその「隔離」はなにも空間にのみ存在するのではない。時間も人間関係も、何もかもがこのタームの重力圏に包摂されているからだ。
呪術高専には基本的に、呪術界の関係者しか存在しない。それは同級生も同様であり、そこからは徹底して「一般社会」が排除されている。それは取りも直さず戯画化された形の「青春」そのものだ。生の悪意。生の生活、生の世界。そうしたすべてを「周縁」として排除したうえで、若者たちをある時空間へと制約し続けるもの。そうした、繭のような実存として青春はこの世界に存在する。
繭の中から、外の世界を見ることはできない。それはどこまでも歪んだ、抽象的な象にしかならないからだ。だがそれには時限があり、いつか繭は崩壊する。
そうした時間的な限界を、ここにおける物語は自覚的に描き出す。青春なるものは、制御された現実なのだ、と。
悟と傑は、定められた目的、定められた時間に向かいどこか弛緩した空気の中で任務を進めていく。彼らの(設定的な)強さも相まって、そこからは現実の重みが剥ぎ取られている(冒頭、山奥のホテルで展開される一連のシークエンスも、そうした要素を強化するのに一役買っている)。
だがそれは、繭の外側に存在する途方もない悪意によって制御されたものでしかなかった。制限時間も、目的そのものも、すべて最後の瞬間に悟を殺すための計画であり、彼らの経験した物事すべては、そうした悪意の下部構造の上に成立した砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。
かくして彼らの青春は、現実が常にそうあるような唐突さで終わりを告げる。繭の崩壊。その後に展開されるのは、「終わり」そのものを克明にしていく過程についての物語である。
・「玉折」──「天上天下唯我独尊」
繭の外側に、悟は「天上天下唯我独尊」の境地を見る。世界すべてを快いものと捉えるその境地は、息をするような、心臓が鼓動を打つような、あるいは腹が減ったら食うような自然さで、自身の能力を発散することを許す。そうして彼は戦いに決着を着ける。
一方傑も、繭の外側で、否応なしに能力を発散させられることになる。だがそれは「天上天下唯我独尊」の視点からのものではなかった。彼はその能力によって、非術師(人類の大多数)を皆殺しにする道を選んだからだ。それは快・不快といった、ごく単純な基準をより重く、より生臭くした、正誤、善悪、論理の領域に属する選択である。
一見すると、これは中世日本における仏教説話のような、「天上天下唯我独尊」の無条件の肯定のように見える。それに至ったものは幸いであり、至れなかったものは「人類の敵」として滅びるしかない、というような。
だが「天上天下唯我独尊」は同時に、宿儺を規定するテーゼでもあるのだ。呪いの王である彼は無論人類の敵であり、作中において最も純粋な「呪い」だった。そして悟もまた、そうした純粋さをその身に抱え込んでいた。
アニメ2期の主題歌を担当し、原作のファンとしても知られるキタニタツヤは、盤星教ホールにおけるあのシーンを「分水領」と呼んだ。二人の決別を決定づけたものはここにあるのだ、と。僕もそれについては同意する。しかし僕は、ここで決定づけられたのは、決別であると同時に、また「人類の敵」の可能性でもあったのだ、と思っている。
悟はあらゆる価値基準に拘泥しなくなっていた。非術師を鏖殺したとしても、彼は忌避感も覚えなければ、倫理的責任を負うこともなかったはずだ。それはただちに、彼が「人類の敵」になることを意味する。すべての人間にとっての敵が顕現することを。
だが彼は、その最後に現実へと踏みとどまった。非術師を鏖殺することなく、むしろ、それを護るものとして生きることを決めた。そしてそれを選ばせたのは他ならぬ夏油傑だった。
彼は悟を、人類の敵ではなく、人類の守護者へと変えた。「敵」となる可能性を圧殺することで、彼を現実へと押し留めた。それは呪いたちにとっては窮屈な道としか写らない結果だろう。だがそこにこそ、『呪術廻戦』にとっての「人間」が、その賛歌がある。
この物語、特に「玉折」においては、現実に踏みとどまるためには、「青春」の外側で生き延びるためには、「能力」か必要であるということがある種の冷酷さを伴って描き出される。悟と硝子はそれぞれ教師と医者になり、その特異な能力を使によって青春を、繭を維持し、保護し、よりよい未来を紡ぎ出すことに希望を見出すようになる。一方灰原は、実力が足りていなかったために(身に余る任務を振られてしまった、という原因はあるものの)死んでしまい、七海は呪術界を去ることになる。そして傑は、その能力によって人類の敵となった。
悟が言うように、それは彼の身に余る役割だった。彼は「天上天下唯我独尊」の境地に至っていない。「敵」として屍の道を歩くには、あまりに多くのもの──「意味」や「理由」に拘泥し過ぎている。だがあの夏の後では、彼が青春の外で生き残るためには、そうするしかなかったのだろう。ただ一人で、「敵」としての才能にあまりに満ち溢れ過ぎた親友を遠ざけて生きていくためには。
「君にならできるだろ」と傑は言った。これは明快な対比になっている。「私達は最強なんだ」という、かつてのセリフとの。
ここで「私達」と言えなかったのは傑の強さだったのか、あるいは弱さだったのか。決意だったのか、あるいは逃避だったのか。それを決めることは誰にもできない。
かくして青春は終わった。だがここまで書いてきたように、その「終わり」は、ある選択を意味しており、そういう意味で「始まり」であるともいえる。そして何が始まるのか、ということを、僕らはもう知っている。
──『呪術廻戦』。これはその物語を始めるための物語だった。だがそれは必然ではない。悟も、傑もまた、主人公ではないからだ。終わりは終わりとして、始まりを内包した終わりとしてただ在る。
そうした「青春の終わり」の希望について描いたものとして、このささやかな物語は輝き続ける。恐らくは、あの懐かしい日々の空の色のように。
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