(慶尚南道晋州市)日本人を〇せ!祭り?
論介(ノンゲ논개)というと韓国では独立運動のイコン柳寛順と並んで、知らない者はいない愛国女性義士なのだそうだ。
論介は1574年全羅道長水に生まれた。もともとの職業は妓生だったという。時は秀吉の朝鮮出兵のまっただ中、戦死した夫の仇を取ろうと誓いを立てた彼女は、加藤清正軍が占拠する晋州城に酌婦として入り込み。矗石楼での宴会中、隙をみて敵の武将を崖の上に誘い込んで抱きつき入水、みごと刺し違えたという。彼女とともに溺死した日本の武将は加藤十六将のひとり貴田孫兵衛こと毛谷村六助であると韓国では信じられている。
論介の伝説は、あまたの小説や映画、ドラマとなって今に伝わっているようである。
当然ながら、地元晋州市では、論介は大英雄。毎年、晋州城を中心に市を挙げての「論介まつり」が開催されている。
2011年の第10回「論介まつり」の目玉は、子供向けの論介体験イベント。子供たちに日本武将の人形を抱せ、海に見立てた2メートル下の青いエアーマットに向かってダイブさせるもので、要はこれは「日本人殺せ」ゲーム。さすがに国内からもやり過ぎだという声があったという。第一危険だしね。
論介の墓は僕が確認できたもので二つある。ひとつは慶尚南道の咸陽郡に、もうひとつはなんと日本の福岡県の田川群添田町の宝寿院(真言宗)という小さな寺院に。この寺院は、同地出身で論介の宿敵である毛谷村六助の墓所があるところで、つまりは、敵味方の魂が仲良く眠っているということになる。
「死ねば、みな仏」「敵ながらあっぱれ」ということか。女ながら、しかも妓生の身でありながら、みごと夫の仇を取り、愛国の義挙を示した論介への敬意の現れてであろう。ここいらへんは実に日本人的である。
とはいえ、論介の墓が日本に、それも毛谷村六助の墓の隣に建っていることを知った一部韓国人は激怒しているとのことだ。「なぜ、敵と一緒に祀られなければいけないのだ」「まるで論介が死しても夫と引き離され、日本の武将に犯され続けているかのようだ」と。おそらく、死者に対するこういった日韓の考え方の違いの溝は永遠に埋まることがないものと思われる。
毛谷村六助は実在の人物だが、彼が論介とともに溺死したとことを示す日本側の資料はない。彼の最期に関しては3つの説があるという。1、朝鮮から帰国後、故郷の毛谷村に戻り、日朝双方の戦死者の菩提を弔いながら62歳で天寿を全うした。2、戦死は事実だが、場所は晋州でなくオランケ(女真族)の地である。3、ここで紹介した論介伝説。おそらく、1が史実に近いのではないか。
毛谷村六助は、女仇討ちの伝説でも知られている。剣術指南役吉岡一味斎が闇討ちにされ、残された妻と二人の娘は仇討ちのため、あてどない旅に出る。姉娘のお園は女ながらも大力で武芸が得意だったが、妹お菊は仇に返り討ちされてしまった。六助はお園に助太刀し、みごと仇討ち本懐を遂げさせる。その武勇が世にとどろき、めでたく加藤清正に認められたという逸話が殉職され『彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)』という題名で歌舞伎や文楽の演目になっている。
論介伝説も毛谷村六助伝説もともに仇討ちがベースになっているのが面白い。論介の墓が故郷の長水でも、終焉の地である晋州でもなく、なぜ咸陽にあるのかは不明だ。