志位委員長だってネトウヨになれる!
ネット右翼の定義
相手にレッテルを貼って攻撃するのは、左派の常套手段である。古くは、反動、日和見主義、ファッショ、などが挙げられる。近年では、レイシスト、ヘイト、歴史修正主義者、キモいおじさんなどがそうだろう。これらの言葉は相手にぶつけた瞬間、問答無用のバリアを作る。つまり、対話を拒絶する効果がある(と彼らは信じている)。もっとわかりやすく言えば、バリアの向こう側にいる者を「レイシスト」と呼び絶対悪化することで、バリアの内側の自分を絶対善化することができるのだ(と彼らは信じている)。実に楽な戦法である。
ネトウヨ(ネット右翼)という語も、彼らがよくレッテル貼りに使う言葉のひとつだ。僕も沖縄の活動家に面と向かって言われた経験がある。右翼といわれるほど思想的バックバーンをもっているわけではないし、右翼呼ばわりはいささか面映ゆいが、そもそも顔と名前を晒して活動している僕が、はたして「ネットの右翼」なのであろうか。同様に、WiLL、Hanada、正論などを「ネトウヨ雑誌」と呼ぶのもおかしいと思う。あれらの雑誌の執筆者にネトウヨはいない。
いささか死語の感もあるが、「ネット弁慶」という言葉がある。「実生活では言いたいこともいえないのに、ネットの中ではやたらと威勢のいい奴」程度の揶揄のこもった言葉である。「ネカマ」というのはネットおかま。女性のフリをして書き込み、投稿をする輩(男)をいう。いずれもネットの世界の中で演じられるキャラクターを指す。
現実の家庭生活の中では、完全に関係が冷えきってしまった夫婦が、匿名のサイトの中で熱烈な疑似恋愛を展開していることもあるだろう。反対に、実の兄弟のような親友同士が掲示板の世界では親の仇のようにいがみ合っているというケースもあるかもしれない。
これがネット空間の面白さであり、怖いところである。ネット世界では、基本みなが匿名。年齢も、人格もひょっとすれば性別も自己選択がまかされているのだ。
「週刊金曜日」北村肇氏の思い出
昔、チャンネル桜の討論番組に呼ばれたことがある。僕の前に座っていたのが、「週刊金曜日」の北村肇編集長(当時)だった。ちょっと目のイッちゃっていた人だが、彼にしてみれば完全アウェイである討論に参加した、その勇気には正直敬意を表したい。
討論のトピックのひとつが、「ネット右翼」だった。
僕は思わず、「北村さんのような立場の人が、夜こっそりパソコンに向かって右翼的な書き込みをせっせとしている姿を想像すると、これこそ真のネット右翼だと思うのですが」と言いそうになったが、水島社長から「主題からずれる」とかお叱りを受けそうなので言わないでおいた。今からすれば、なぜ言わなかったのか、後悔しきりである。
左翼をやるというのも、思えば、ストレスの溜まることだろう。まして北村さんのような職業左翼ならなおさらである。僕なんぞ、100万円くれるといわれても「週刊金曜日」編集長の座に3日もついていたくない。
昼間かかえたストレスを、ひとり深夜、ネトウヨ的書き込み(サヨクのいうところの、排外的、差別的、反平和主義etc)することで発散、リフレッシュし、たっぷりの睡眠をとることで翌日ぶんの左翼チャージを完了するのである。
パソコンのブルーライトに照らされながら、「〇〇人を日本から叩き出せー」「靖国参拝しない〇〇首相はタヒね」などと打ち込む北村さんの横顔には、ある種の倒錯した色気すら宿っているかもしれないと想像してしまうのだ。
逆に、僕但馬が、匿名掲示板で「天皇制打倒」とか「憲法改悪阻止」とか書き込んでいてるかもしれないのだ。それを肯定も否定も誰にもできないはずだ。
もう一度いう、ネット世界とは、仮想の世間である。この世間では現実世界の一切の肩書から解放されるのだ。大学教授が奴隷に、工員が王様に、もうひとつの自分を演じる秘密クラブを想像してみてほしい。
北村編集長はむろん、山本太郎だって、いや、日本共産党志位和夫委員長だって、ネット右翼になれるのだ! いや、もうなっているかもしれない。
(追記)本稿を書くにあたり、ネット検索したところ、北村肇さんが2019年にお亡くなりになっていることを知りました。大腸がんに脳腫瘍まで抱えられていたという。67歳といえば、ジャーナリストとしてはまだまだ働き盛りだったと思います。改めて北村肇さんのご冥福を祈ります。