追悼特集 石原慎太郎・ザ・スーパースター
(序章)勃起を忘れた日本人よ奮い立て!
《彼は勃起した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音を立てて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。
その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた。彼は今、リングで感じるあのラギラした、抵抗される人間の喜びを味わったのだ。》 (石原慎太郎『太陽の季節』)
石原慎太郎とは何だったのか。それは、チンポの人である。氏の生前から変わらぬ筆者の慎太郎評だ。
そのチンポは、まず戦後文壇という障子を突き破り、その衝撃は太陽族という若者風俗を生んだ。さらには、これをきっかけに石原裕次郎というスターを世に送り出すことになるのである。
文壇の寵児ではあきたらず、慎太郎チンポは次に政界へと突き進んだ。議員在職は25年。「日本は去勢された宦官のような国家になり果てた」。1995年、衆議院議員を辞職した際の捨てゼリフから見ても、慎太郎のチンポへの熱いこだわりがわかる。そしてその言は正しい。NOと言えない日本、その姿は、玉ごと竿をぬかれた宦官そのもの……とまではいわないものの、せいぜいがフニャチン野郎と映ったことだろう。
「友人たちと、あるいは大学の寮で、あるいは運動部の合宿で、エレクトした性器のボルテージを競いあった」(『真実の性教育』)という経験を誇りにする慎太郎にとって、それは許しがたいことなのである。
中央政界というユルマンに失望した慎太郎は、東京という世界都市の長という立場から中央に物申すことを決めた。2度目の挑戦でみごと当選を果たし、東京都知事は4期、足掛け13年務めている。
鈴木俊一都知事時代に建てられた都庁ビル、当時は税金のムダ使いと酷評を浴びたが、あの新宿副都心の空に突き立つチンポ型の塔は、慎太郎知事にこそ似合う気がする。しかも2本建てである。東京怒張、もとい都庁の2本の塔の先端は「東京から日本を変える」のスローガンのもと、中央政界をツンツンつついた。いまひとつの先端は東京に深く突き刺さり改革の律動を続けた。排ガス規制、カラス対策、新宿浄化作戦、不法滞在外国人犯罪一掃、朝鮮総連への課税……就任以来、慎太郎の腰は動く動く。中にはカジノ構想(実は慎太郎が元祖なのだ)やホテル税など空ピストンで終わったものもあるが、これだけの仕事をやりとげた都知事というのを筆者は知らない。
03年の自民党総裁選では、慎太郎自身が「純ちゃん」と親しく呼び、支持率も高かった小泉総理(当時)にあえて背を向け、宿敵・亀井静香の応援に立った。選挙を前にはやる亀井氏を慎太郎は、
「亀ちゃん、ちょっとチンポを早くおっ立てすぎじゃないの?」と諫めたという(「アサヒ芸能」03年4月17日号)。チンポの人・慎太郎らしい含蓄のある忠言ではないか。何気に「亀ちゃん」が掛詞(かけことば)になっているのもニクイ。こんなところにもチラリと小説家の感性がにじんでいる。
一方で慎太郎をタカ派と呼び右翼と呼ぶ人がいる。女性蔑視者とも。筆者も否定はしない。それが慎太郎なのである。何度もいうが、慎太郎はチンポの人なのだ。〇〇コはチンポに射抜かれてこそ価値があると頑なに信じている男なのである。もはやそれは哲学と呼んでいいだろう。
石原慎太郎よ、フォーエバー。
’(第2章)太陽族とは何か
石原慎太郎は1932年、神戸に生まれている。父親は汽船会社の役員で、転勤が多く、少年時代を小樽、逗子などで過ごした。
1955年、一橋大学在学中に書いた小説『太陽の季節』が芥川賞を受賞。一躍、流行作家に躍り出る。旧弊のモラルをぶち壊す、性とバイオレンスあふれるこの作品に大人たちは眉をひそめ、若者たちは熱狂した。慎太郎は、湘南の不良だった弟・裕次郎とその遊び仲間をイメージしてわずか2日で書き上げたという。
まだまだ日本が貧しかった時代、高校生の分際で外車を乗り回し、ヨットに興じ、ナイトクラブに入り浸ってナンパに明け暮れる主人公たちはどこか浮世離れしていて、そこがまた当時の若者にはかっこよく映ったのだろう。
ストーリーは、ナンパしてコマした女=英子に愛を告げられ疎ましくなった主人公が、その女を兄に金で売りつける。英子はけなげにも自分で同額を払い戻して、達哉のもとに帰ってくるが、達哉はより高値で彼女を兄に売り、英子はまた自分を払い戻す。これを繰り返しているうちに英子は妊娠、堕胎手術がもとで死んでしまう、といった、まことに反道徳的でエゴイスティクな主人公(裕次郎はこんなことやっていたのだろうか)で、晩年の慎太郎がその言動を耳にしたら激怒すること請け合いである。
『太陽の季節』は翌年、日活で映画化され大ヒット。続いて、慎太郎原作の『狂った果実』が裕次郎主演で映画化され、前作を超えるヒットとなった。こちらも一人の人妻を巡って兄弟がエゴむき出しで対立、その結果女を死にいたらしめるといった救いのないお話だが、トリュフォーやゴダールに激賞され、仏ヌーベル・ヴァーグに影響を与えたという。
なお、『太陽の』での共演がもとで長門裕之・南田洋子、『狂った』での共演で石原裕次郎・北原三枝がそれぞれゴールイン、芸能界のおしどり夫婦として知られるようになるが、
原作者・慎太郎は彼らの結びの神といえなくもないだろう。ちなみに、津川雅彦(芸名の名づけ親は慎太郎)は『狂った』出演時、まだウブな童貞で、水着姿の北原とのラブシーンでは勃起しっぱなしだったという。それを周囲の目に覚られないようかばってくれた北原に、本気で惚れてしまったが、すでに裕ちゃんとイイ仲だったと知り失恋を味わったとのことである。
また、太陽族映画のヒットとニュータイプ・ヒーロー石原裕次郎の誕生は、五社協定から締め出され、スター不足に悩んでいた日活の浮上のきっかけとなった。
太陽族映画ブームは日活だけでなく他社にも波及、56年、大映が、市川崑監督で『処刑の部屋』(むろん慎太郎原作)を発表している。主演はのちの川口探検隊こと川口浩。川口の父は、大映専務でもあった小説家・川口松太郎、母は女優・三益愛子という毛並みのよさ。芸能界に入る前はかなりヤンチャもやったらしい。ボンボンの不良上がりということで太陽族映画への抜擢となったのであろうが、いかんせん裕次郎と比べるとセンは細かった。もっとも反社会ということではこの作品も負けてはいない。なにせ、狙った女子大生に睡眠薬を飲ませてレイプ、監禁してしまうのだ。公開時、この映画をまねた事件が続出したという。
(第三章)『昭39』読者なら知っておくべき慎太郎10の顔
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【顔その1】 俳優慎太郎が唇を奪った女優
慎太郎は『太陽の季節』『狂った果実』に、1シーン、カメオ出演している。両作品のプロデューサーだった水の江滝子は、『太陽の』の主役を作者本人にやらせたかったそうだが、慎太郎が東宝と俳優、脚本の契約を結んでいることを知って、顔出し出演にとどめたという。このとき、水の江が慎太郎の代わりにスカウトしたのが、弟・裕次郎だったのだ。ということは、もしかしたら、裕次郎より先に、“俳優”石原慎太郎がデビューしていたかもしれないということになる。
記念すべき慎太郎主演第一作は56年の『月蝕の夏』(東宝)。筆者は未見だが、スチールを見る限り、アロハに水着にグラサンのいかにも太陽族映画。都会的かつ明朗健全がウリの東宝も“太陽族”に手を出さずにはいられないほどに、慎太郎は時代のトレンドだったというわけか。また、『太陽の季節』『狂った果実』同様、兄弟の相克(慎太郎の兄を演じるのは平田昭彦)も描かれているという。ここいらへんは、ティーン時代の裕次郎との関係が透けてみえるようである。
作中、慎太郎は司葉子相手に濃厚なキスシーンも披露。慎太郎によれば、撮影中、司サンは腕の中でガクガク震えていたという。彼女にとってもこれが公私ともども初のキス体験だったのだ。
司サンといえば、“金融族のドン”ともいわれた故・相沢英之元代議士夫人としても知られる。相沢氏とも仲がよかった慎太郎、雑談の折り、「そうそう、あなたの奥さんのファーストキスの相手って僕なんだよ」と言ってしまい、相沢氏に思いっきりムッとした表情をされたという(そりゃそうでしょ)。
俳優・慎太郎、他の出演作は以下の通り。
『婚約指輪』(56年・東宝)主演・原作。
『若い獣』(56年・東宝)。
『穴』(57年・大映)市川崑監督。慎太郎は青年作家役の他、挿入歌も歌唱。
『危険な英雄』(57年・東宝)主演。新聞記者役。
『接吻泥棒』(60年・東宝)慎太郎原作。本人役でカメオ出演。
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【顔その2】 映画監督デビュー!
今でこそ作家や音楽家が映画を撮ることは珍しくないが、慎太郎はそのパイオニアだったのである(戦前に今日出海が崔承喜主演で『半島の舞姫』を撮っているので、慎太郎が作家監督第1号ではない)。もともと、東宝の脚本部に就職が内定し助監督を目指していたというだけに(芥川賞受賞を機に退社)、もうひとつの夢がかなったということだろう。
記念すべき監督作品第1弾は『若い獣』(58年・東宝)。ボクシングに命をかける青年の挫折の物語で、主演は久保明、団令子のフレッシュコンビ。慎太郎は監督の他、原作、脚本を担当、レフェリー役でカメオ出演するほどの気合の入れようだ。
だが、パイオニアならでは苦労もあった。当時、映画界は、助監督を10年務め、運と才能ある者だけが一本立ちの監督になれるというのが常識の世界だった。そこへ流行作家とはいえ、ズブの素人が監督として入ってきたのである。助監督以下スタッフの反発はすさまじく、慎太郎監督に対する一切の協力を拒否。スタッフは外部から集め、撮影も東宝撮影所でなく貸スタジオを使用したが、そこは道路も近く車の騒音が激しいため同録ができないというような代物だったという。
撮影中もスタッフとのコミュニケーションが上手くいかず、一計を案じた慎太郎は親睦を兼ねた野球大会を提案、ビール2ケースを最高殊勲賞と打撃賞に寄付したが、いざ試合が始まると、慎太郎が一人で打ちまくり、2つの賞を自分で獲ってしまってシラケムードが漂ったという。スポーツ万能が思わぬ形で仇となったようだ。
63年には、『二十歳の恋』(L’amour a 20ans)という日欧5監督によるアンソロジー映画の日本版パートを監督(脚本も)を担当。他にはF・トリュフォー(フランス)、A・ワイダ(ポーランド)などそうそうたる監督が参加している。前述したとり、トリュフォーは『狂った果実』(中平康監督)に影響を受けており、慎太郎が、原作者だと名乗ると大いに驚いていたという。
日本編のストーリーは、貧しい工員の青年が密かに想う女子高生を手製のナイフで刺し殺し自分のものにするという、どう見てもストーカーが主人公の犯罪映画。いいのか本当に? ちなみに青年役の古畑弘二は劇団四季出身で、のちに怪獣映画『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』(65)でフランケンシュタインを演じている。
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【顔その3】 画家でもあった慎太郎
「フランス語は数を数えることのできない言語」と発言し、フランス語関係者から大顰蹙を買ったこともある慎太郎。確かに、いささか乱暴な発言であり誤解をまねく表現であったが、これも慎太郎がフランス語を知っているからのこその“暴言”だろう。
たとえば、99といえば、われわれは反射的に「9×10+9」とイメージできる。ところが、フランスの数の概念は特殊で、「(20×4)+10+9」となる。これは馴れないと混乱しやすい。
実は慎太郎、高校時代、1年休学しフランス語の習得と絵画に没頭していたことがあるのだ。フランス語では、主にランボーやヴェルレーヌら象徴詩の作者に傾倒した。絵画ではやはり象徴主義(サンボリズム)やシュールリアリズムに影響を受けたという。
絵の腕前もプロ級で、1992年、銀座の画廊で開いた個展では、40~100万という強気の値段設定ながら、初日でほぼ完売だったとか。
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【顔その4】 青春学園ドラマの父
慎太郎は、“青春学園ドラマの父”でもあった。1965年10月、日テレ系で『青春とはなんだ』(夏木陽介主演)(制作・東宝)が放送開始。布施明の歌う主題歌も含めて大ヒット。このドラマの原作者が慎太郎なのである(27話からオリジナル・エピソードが主流になり、クレジットは「原作」から「原案」になる)。
実は、ドラマが放映される3カ月前、日活で映画化され、こちらのほうの主演は裕次郎が務めているが、憶えている人は少ないかもしれない。まあ、裕次郎に教師役はあまりに似合わなかったということもあるだろう。
地方都市の落ちこぼればかりの高校に赴任してきた洋行帰りの新米教師がスポーツ(ラグビーorサッカー)を通し生徒や周辺の大人と心の交流をしていく、という基本パターンを踏襲する形で、『これが青春だ』(竜雷太主演)、『でっかい青春』(同上)、『進め青春』(浜畑賢吉)、とシリーズ化され、一時中断ののち、『飛び出せ!青春』(村野武範主演)、『われら青春!』(中村雅俊主演)が作られている。村野、中村は本シリーズ出演を機に人気俳優となっていった。なおシリーズ中、原作をもつのは、第1作の『青春とはなんだ』のみである。
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【顔その5】 ジャニ系の作詞もしていた!
ジャニーズ事務所知っていても元祖ジャニーズ(あおい輝彦、飯野おさみ、真家ひろみ、中谷良)は知らないという若者も多いようだ。しかし、このジャニーズがいなければ、今に続くジャニ系の系譜も存在しなかったといっていい。歌って踊れる男性アイドルの元祖でもあるのだ。
彼らの歌う『若い日本の歌』(67)は慎太郎の作詞。「若い世代が祖国を想う歌をつくりたい」という作曲家・いずみたくの要請で一気に書き上げたという。
あまり語られることがないが、副社長メリー喜多川の夫は作家で現上皇陛下のご学友でもあった藤島泰輔で、そのためか同事務所ももともとライトウィングな社風をもっていた。
当時、慎太郎は新聞社の特派員としてベトナムを取材し帰国したばかり。戦争で疲弊した知識人たちの祖国に対する無関心ぶりに触れ、同国の共産化を確信したという。
結局、このベトナム体験が、性と暴力の作家を愛国者に覚醒させる転機となり、翌年の参議院出馬、初当選として結実するのである。
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【顔その6】 豪快!ネッシー100万ボルト感電作戦
1973年、慎太郎はネッシー探検隊(正式名称「ネス湖怪獣国際探検隊」)の隊長としてネス湖に向かった。このとき英国メディアから「エコノミックアニマルの侵略者」呼ばわりされた慎太郎は激怒、「同国の探検隊バッシングの根底には白人優越主義が存在する」と持論を展開。要するに「英国人は、おらが宝のネッシーを日本人に発見されるのがガマンならずケツの穴小さく騒いでいる」ということらしい。
探検隊の仕掛人である興行師の康芳夫氏がアサ芸誌上(00年7月6日号)で当時を振り返っている。
「実は、そのときもっとも大きな仕掛もあったんです。見つからなかった場合、湖に百万ボルトの電流を流して、すべての魚類を浮かび上がらせようと考えたのですが、これも英国政府の圧力で許可が下りませんでした」。
いや、許可下りないのは当然だと思うが(笑)。
この3年後、慎太郎は環境庁長官に任命されるのである。
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【顔その7】キックボクシング伝説の試合に慎太郎コミッショナーあり
慎太郎、1971年には全日本キックボクシング協会のコミッショナーに就任している。当時、キック界は、“キックの鬼”沢村忠を絶対のスター選手とする目黒ジム系の日本キックボクシング協会(TBSが放映)と藤原敏男を擁する黒崎健時の目白ジムを中心とした全日本キック協会(東京12チャンネル、日本テレビが放映)に分かれていた。
慎太郎は就任のあいさつで、「スポーツである限り絶対に八百長は許されない。私はスポーツのコミッショナーに就任したのだ」と述べた。これは暗に沢村の試合にワーク(勝ち負けの決まった試合)があるということをほのめかした発言だ。同時に、全日本もテレビ局からブラウン管映えするスター選手を「作る」ことを要請され、候補としてボクシングからキック転向後、破竹の勢いの西城正三に白羽の矢が向けられていており、そういった流れを牽制するためのものでもあった。
事実、西城×藤原選にもブック(筋書)があると聞いた慎太郎は激怒、「そんな試合をやるなら、私はコミッショナーを辞任する。そして記者会見で、すべてをぶちまけてやる」と啖呵を切り、両者の試合は急遽、リアルファイトに。結果は、今では語り草にもなった西城の3Rにタオル投入のTKO負け。その後、彼は2度とキックのリングに上がることはなかった。この試合、先のコミッショナー発言がなければ、もう少し違った展開になっていたかもしれない。
ちなみに現在、慎太郎というリングネームのキックボクサーが活躍中だ。
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【顔その8】慎太郎流青姦のススメ
おなじみの「スパルタ教育」という言葉も慎太郎の同名著書から一般化したのを知っていた? で、慎太郎著『スパルタ教育』(72)だけど、戸塚ヨットスクールあるいは星一徹的スポコン教育礼賛の本かと思えば、目次には「戦争を悪いことと教えるな」「犯罪は仕方がないことだと教えるな」「子供の不良性の芽をつむな」など慎太郎節が炸裂。こんな楽しい(?)スパルタ教育なら進んで受けたいものだ。
で、極めつけは「母親は男の子のオチンチンの成長を讃えよ」という項目。《成熟していく過程を、母親もまたその手で、たくましさを増していく子供の部分に触れて確かめ、その成長を讃えてやるべき》。石原兄弟もそうやって育っていったのか?
同年、慎太郎は『真実の性教育』も上梓する。これがまた、チンポ的文化人・慎太郎のチンポ愛あふれる一冊となっている。
《乳房は端的に美しく同じようにエレクトしたペニスも美しいと思う》《エレクトしたペニスは、じつに簡潔でまろやかで、かつ荘厳なフォルムである》。
オナニーに関しては《自慰をはじめて教えてくれた友人は、乗組員にアメリカ大陸をさして教えたコロンブス以上に、偉大なる啓示を与えた人というべきかもしれない》。
そしてこの本のメインとして用意されているのが、「野外での性交を体験せよ‼」だ。
《なにかの機会に、それも夜ではなく、明るい陽光の下での性行為を体験する》《人間をかつての原始的な動物の本能に立ち返らせ、自分を解き放ち同時に敵に近寄らせやすい危険な形で行われることでもっとも高い歓楽をかもし出す》と慎太郎は説く。
なるほど。ぜひ都庁前広場を青姦プレイの解放区にしてほしかった。
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【顔その9】 宇宙戦艦ヤマトNOと言える地球人?
2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト復活編』に「原案」として石原慎太郎の名前がクレジットされている。
本作は1994年に制作発表されながら、西崎義展プロデューサーの覚せい剤逮捕で企画は一度中絶。97年には西崎氏のクルーザーから自動小銃と実弾が発見され、銃刀法で再逮捕されている。西崎氏は公判で武器所有の理由について「同船で石原慎太郎氏を尖閣諸島に送った際の護衛のため」と語っており、両者の関係の深さがうかがえた。
『復活編』は、西崎氏の15年ぶりの執念の結実ともいえる。そして、氏の生涯最後の大仕事となった(2010年没)。
オリジナルプロットを紹介しよう――。移動性のブラックホールが太陽系に接近、地球はついにヤマトを中心にした移住船団を組織、外宇宙へ脱出を決意する。幸い地球移民を受け入れてくれる星に到着するが、そこは19世紀のヨーロッパに支配されたアジア諸国のごとき植民地星だった。ヤマト移住をよしとしない宗主国たる恒星グループは植民地星に不当な圧力をかけてきた。植民地星解放のためにヤマトは立ち上がるのだ!
まさに宇宙を舞台とした大ロマンの大東亜共栄圏スペクタクル!
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【顔その10】 歌う!慎太郎
「裕次郎より俺のほうが歌は上手い」とはばからなかった慎太郎。かつても映画で挿入歌を歌ったりTVで裕次郎とデュエットしたりと自慢のノドを聴かせている。
本格的な歌手デビューは慎太郎58歳のとき、ペギー葉山とのデュエット曲『夏の終わりに』。しかもこの曲、歌唱の他、作詞作曲まで手掛けている。まさにマルチタレント石原慎太郎の面目躍如といったところ。
もっとも譜面の読めない慎太郎、「ウウ~」と鼻歌で作曲し、その録音テープをアレンジャーに渡して「ハイ、できあがり!」という潔さ。すぐさまアレンジャーから電話があった。
「あのう、一番と二番、曲が違うんですか?」
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(初出)『昭和39年の俺たち』2022年5月号