中国戦災孤児を育てたロボット博士
西村真琴博士といえば、昭和3年の御大礼博覧会に東洋初のロボット「学天則」を出展したロボット博士として有名であるが、彼の偉業はそれだけにとどまらない。たとえば、絶滅が危惧されていた阿寒湖のマリモの保護活動、アイヌ文化保護とアイヌ貧民救済運動、全国保育連盟の設立などなど。
魯迅とも親交のあった西村は大陸とも縁が深く、昭和10年11年には満州巡回病院一行の団長として大陸に渡り無料診療所を開設、この診療活動では約1万4千人を救療している。ボランティア活動は翌年の事変勃発後も続き、今度は北支巡回病院一行団長を務め、2千809人の診療にあたってる。まさに、和製「国境のない医師団」だったのである。
そんな西村博士の日支友好運動の中でやはり特筆すべきは、昭和13年11月の「民国窮民居士援護会」(のちに「隣邦児童愛護会」と改称)の設立と理事長就任だろう。これは戦禍に巻き込まれ孤児となった中国人児童を日本の幼稚園、小中学校で教育したのち、卒業後は母国へ帰して就職を斡旋するという、大東亜共栄の理想を具現する博愛的大事業であった。
戦災孤児といっても、国民党軍によって親を殺された子も少なくなかった。そもそも、中共が喧伝するような南京大虐殺なるジェノサイドを計画するような日本が、わざわざ中国の戦災孤児を救うというのもへんな話だし、孤児にしてもそのような残虐無比の鬼子の懐に進んで入りにいくというのも考えればおかしなことだ。ちなみに、この事業にあたっては天皇皇后両陛下から5千円の下賜金が交付されている。陛下もまた事変の一日も早い集結と日支の友好を願ってやまなかったのである。
翌14年、68人の孤児たちが来日。終戦まで67人が修学し無事帰国の途についている。残る一人、高津中学4年の孫徳成は日本に残っての進学を強く希望、東京第一高等学校を経て慶應義塾大学に進んでいる。
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