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目からビーム!176 「死刑囚」を生きる
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映画『生きる』。主人公の救いとなるのは、享楽でも諦念でもなかった。人間は、死を意識することなしに、「生きる」意味は見つけにくいのかもしれない。
日々を無為に過ごしてきた市役所の老課長がひょんなことからガンで余命幾ばくかの身であることを知り、煩悶の中に己の「生きる」意味を見つけ市民の要望だった公園の整備にまい進する。ごぞんじ、黒沢映画『生きる』である。初めて観たのは高校生のときだったが、還暦を過ぎ、人生の峠を越えた今観直すとまた違った感動があるものだ。
フランス大使に続きイギリスの大使がわが国の死刑制度に干渉してきた。「死刑存続する限り、日本は中国、北朝鮮、シリア、イランと同じグループだ」とまで言う。完全な上から目線である。
冗談ではない。日本は中国のように、政治犯死刑囚のいる国ではない。そもそも、凶器をもった犯人にも可能な限り警官が素手で対応し、逮捕後は弁護士をつけ司法の場に送る日本と、現場で有無を言わさず射殺するあなたたち欧米のやり方とでは、どちらが人道的か。
死刑を廃止するなら、日本も警官による“現場処理”に多くを頼るしかないが、それすら許さない空気が支配している。以前、警官に向かい石灯籠を振り回し拳銃を奪おうとした中国人の賊に対し、警官がやむなく発砲、賊が死亡するという事案があった。この警官のとっさの判断がなければ、銃が奪われさらなる犯罪を生んでいたかもしれないのだ。僕が彼の上司なら、「よくぞ一発で仕留めた」と肩を叩いて激励するところだが、なんと賊の妻はこの警官を民事、刑事両方で訴えてきたというのだから呆れる(両方とも無罪が確定)。おそらくこの国では年間の死刑執行数よりも警官の殉職者数の方が多いはずである。
推理作家の佐賀潜は検事時代、一度だけ死刑執行に立ち会ったことがあるという。執行を前にして、刑務官や教誨師に向かって静かに礼を告げる受刑者の真摯な態度に、なぜこの男を死刑にしなければいけないのか強い疑問に押しつぶされ、自分がこの場にいることを深く後悔したという。だが、それでも現行法の死刑制度は、あるべきだと佐賀は結んでいる。
思えば、佐賀の見た、この死刑囚の悟りにも近い静かな態度も死の懊悩と懺悔の先にあった境地だったのかもしれない。『生きる』の主人公の動の境地とそれはひとつである。凶悪犯罪者を最後は聖人として涅槃に送るという意味では、死刑にもまた神仏の慈悲があるのではないか。
むろん、心を整理する時間は必要だろう。残された時間のカウントも。その意味では、現行の死刑当日告知に反対する声にも一理あると思う。少なくとも、「その日」を知るか否かの選択の権利は受刑者に与えてもいいであろう。
『生きる』が撮られた時代にはなかった医師によるガン告知も今は当たり前になっている。
初出・八重山日報
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