(単行本未収録)スキゾ・コリア歴史編(後)~擬(つ)くられた古代
古代朝鮮というお菓子の家
彼らの起源捏造も基本的にこの古代妄想と根を同じにします。先に挙げた、剣道や活花といった日本文化の起源の主張に始まり、最近では孔子やチンギス・ハーンまで朝鮮人の子孫だと言い張って中国やモンゴルから反発を買い、それに飽き足らず、「英語を含むあらゆる言語の源流は古代朝鮮語」「人類の発祥は古朝鮮」などという“大発見”を嬉々として雑誌に発表している教授もいるそうです。
韓国人のこの「古代妄想」は、有志以来、常に属国としての歴史しかもたなかった彼らが、せめて古代ぐらいには華やかな夢を託したいというSK願望の現われといえます。叱られた子供が、河べりに座って小石を蹴飛ばしながら、「あんなママは僕のママじゃないやい。僕の本当の家族はきっと遠くにいて、すごいお金もちで僕の言う事ならなんでも聞いてくれるし、欲しいものはなんでも買ってくれるんだ」などと無邪気な?空想に浸ってぶつぶついじけた独り言をつぶやいている姿にどこか重なります。その子が思い浮かべる、地球のどこかにあるという、ごちそうと玩具とお菓子にあふれ、なんでもわがままを聞いていくれる優しいママのいる「本当の家」、それが幻の高句麗帝国であり統一新羅帝国であり、古代朝鮮なのです。
韓国ではよく民族の歴史を「半万年(パンバンニャン)」という言葉で表現します。これは多分に「中国4千年」を意識した表現でしょう。5千年ではなく半万年というのは、1メートルというより100センチといったほうがなんとなく大きそうだ、という感覚と同じです。韓国では古いことは尊ばれ、韓国人の子供たちは朝鮮民族は半万年の歴史をもつ由緒正しい民族であると学校で教えられるといいます。
大英博物館には「人類の進化図」というレリーフがあるそうです。これによると、人類は、ネアンデルタール人から黒人が派生し、黄色人種に進み、最終進化の形態として白色人種が生まれたということにされています。白人こそはもっとも進んだ人類という認識で作られた人種的偏見の産物として、現在この進化図の内容は否定されていますが、面白いのは、白人が「自分たちは一番新しい人類だ」といって誇り、韓国人は「自分たちは一番古い人類だ」と誇っていることです。近年、VANKという韓国のNGO団体が、世界中の大学にある世界地図から、「日本海」という表示を彼らが主張する「東海」に書き換えようという運動を行っていますが、その前に大英博物館に掛け合って、「人類進化図」のネアンデルタール人と黒人の間に「朝鮮人」を追加させる――いやネアンデルタール人の前に朝鮮人でもいいのですが――運動でもおこせばいいのではないかと、これは私の提案ではあります。
「天皇」と「日王」
天皇の“ゆかり発言”に気をよくして、あたかも日本の天皇のルーツは朝鮮半島にあるということが証明されたかのように喜ぶ韓国の大衆とメディアですが、ならば、“ゆかり発言”以後、日本の天皇に敬慕や親しみ、ルーツを同じくする誇りを感じているかといえば、もちろん否でしょう。相も変わらず、メディアの報道ですら「天皇」とは呼ばず「日王」(イルワン)です。「皇」は中華皇帝だけに許される字であり、日本の天皇は皇帝の下の「国王」だというのが、彼らの主張で、これこそ万年属国の小中華思想のなごりといえます。
黒田正弘氏の著書『韓国人の歴史観』(文春新書)によれば、この「日王」という呼称が定着する以前、マスコミ用語として「日皇」という表現があり、そちらが主に使われていたそうです。その「日皇」が「日王」に格下げ(?)される最初の契機となったのが、1989年1月の昭和天皇崩御だったといいます。
韓国では、このときご大葬の礼に大統領が出席すべきかどうかが、大きな問題となりました。韓国の対日感情に大きな影響力をもつのがマスコミです。朝鮮日報は昭和天皇崩御(1月7日)の3日後の1月10日付きの社説で、政府の出方に釘を刺すような論調を展開しました。
《日王ヒロヒトの葬儀の隊列に韓国の大統領が列席するということは、ヒロヒトの罪科をわが国民の名で忘れ許すことを意味する。(中略)われわれが、死者に対する信義よりその罪を糾明しようという原則を固守するのは、日本との対等な関係定立のためである。韓国人は、これまで不自然に黙認されてきた戦犯であり、加害者として贖罪しないまま亡くなったヒロヒトの葬儀には、国民を代表する大統領を送ることはできない》。
結局、ご大葬には、各国が元首、あるいは王族が弔問使節として来日したものの、韓国は、盧泰愚大統領(当時)でなくナンバー2の姜英勲総理の出席にとどまりました。
韓国の対日観、歴史観、日本の元首に対する考え方がよくわかるとともに、彼らの死生観というものがこの短い社説の中によく現れています。彼らに、死者に対する無条件の尊崇の念というものはなく、過去を水に流すという考えもありません。
また、韓国人は、恨みという債権は、その対象が死しても子やあるいは孫が引き継ぐものと考えます。
その好例ともいえるのが、李明博氏の「日王土下座」発言です。
2012年8月14日、当時大統領だった李明博氏は「日王が訪韓したかったら、独立義士の墓の前で罪人らしく足を縛って跪いて謝罪しなければならない」という日本の天皇と国民に対する信じられないような冒涜的発言をして、日本中の怒りを買いました。韓国の独立運動家と今上陛下(現・上皇陛下)とはまったくの関係はありません。百歩譲って昭和の御世にそれらの運動家の弾圧があったとしても、その恨みを息子である今上陛下が引き継ぐという考え自体、およそ日本にはないものです。安重根の罪を安重根の子孫がかぶらないというのと同じ理屈です。
李氏はこの4日前の8月10日には、韓国大統領として初めて竹島に上陸し、大騒動になった矢先のことでした。度重なる李氏の暴挙に、どちらかといえば、それまで韓国には甘かった日本のTVメディアもはっきりと拒絶反応を示し、続く朴大統領の反日発言や告げ口外交もあって、国内の反韓感情は今もって収まることを知りません。
この李発言および竹島上陸がどれほどの重大事だったかのかは、ある韓流タレント雑誌の出版元の幹部が「あれを境に販売部数がガクっと下がった」とボヤいていたことが証明となります。韓流ドラマにハマるようなおばさん層は、政治や外交といった問題には無関心かと思っていたので、それは意外でした。逆にいえば、そういうおばさん層であっても天皇陛下を侮辱されたら日本人としての純粋な怒りが湧き起こるということです。
韓流ファンが嫌韓に走る理由
これは余談ですが、韓流に一度どっぷり浸かった人ほど、恋に冷めたときの反動は大きく、一気に嫌韓になると、これは当の元韓流ファンの中年女性複数から聞きました。というのも、マニアックな韓流ファンほど、お気に入りのタレントの最新の動向を探るためのツールとして朝鮮日報など韓国新聞の日本語ネット版を利用するのだそうです。そうすると、どうしても芸能情報とともに、その横の反日侮日的な記事も目に入るようになるだとか。反日的とまでいかないまでも、やれ「日本の自尊心をたたき折った」とか、「先進国らしからぬ日本の態度」とか、いちいちカンに触るような、彼ら特有のフレーズが飛び込んでくるわけです。「このままではキムチ宗主国の称号を日本に奪われる」、これは日本のキムチ消費量が韓国のそれを上回った」というニュース記事の中で見たフレーズです。自分たちの国の漬物が日本で親しまれているという話なのですから、素直に喜べばいいものの、何か日本がずるいことでもしているような物言いには一瞬目が点になりました。逆に日本ではさっぱりキムチが消費されていなかったとしたら、それはそれで、「健康食品としてのキムチの優秀性を日本に知らせなければならない」などと書きたて、上から目線で日本の「無知」「排外性」をなじることでしょう。
ウザい限りです。たいがいの韓流おばさんは、ここで「あの国はヘン」と気づくそうです。ここで後戻りするなら、まだ幸福かもしれません。幻滅の度合いも軽度ですんだのですから。
さらにもっとコアなファンは、韓国映画を字幕なしで楽しんだりファンミーティングでタレントと簡単な挨拶ぐらいできるようにと、韓国語を習ったりします。そうすると、映画の中でどれほど日本に対する侮蔑的な表現や言葉が、それこそ何の脈絡もなく登場人物の口から発せられるのかがわかってしまうのだそうです。劇映画の一場面だと思いますが、YouTubeにUPされている韓国の動画で、コックが日本人客用の料理に唾を吐き丹念に塗り込んでいるシーンを見ました。わずか40秒程度の短い動画に、「チョッパリ」という単語が3回、「ケッセキ」(=犬っころ。最大の侮蔑語)という単語が2回、はっきり聞き取れました。
▲日本人客の料理に唾を練り込む韓国人シェフ。
実際に韓国旅行へ行けば、そういった日本人に対するさまざまな悪意を実際の耳で、肌で感じるはめになります。韓国人は相手が日本人だと、聞き取れぬと思って、にっこり笑って握手しながら、「独島はわが領土です」などと言ってくるそうです。こんなことを何度か経験すれば、誰でももう、二度と行くものかと思ってしまうでしょう。まさに、知れば知るほど嫌いになる国、とはよく言ったものだと思います。そのとどめとなったのが、李明博発言なのでした。
「日王」トラブルは歴史的に見てこれが初めてではありません。明治元年、日本は新政府の成立とあらたに国交を始めたいという国書を朝鮮に送りましたが、文書中に「皇」、「勅」の字があり、朝鮮はこれを受け取れないと突っ返すという外交上の非礼を働きました。先にも言ったとおり、「皇」の字を拝すのは「清国皇帝」だけという理由です。この非礼に日本中が怒り、一気に沸き上がったのが征韓論です。
さて、「天皇」の呼称は認めないとした朝鮮王室ですが、日本が清を戦争で破り、朝鮮の独立を認めさせると、さっさと国号を大韓帝国に改め、国王・高宗は大韓国皇帝を名乗ったのですから、韓国人の面の皮というのはおそらくキチン質でできているのかもしれません。
それはさておき、あるときは、日本の天皇を「日王」と蔑み、戦犯だ、軍国主義の権化だと罵り、あるときは、そのルーツが朝鮮にあると誇り"ゆかり発言"に欣喜雀躍としてみせる。日本の天皇に対する韓国人の思いもかなりアンビバレントといえます。
中国の「天皇」観
同じ反日国でも、中国の日本国天皇に対する見方は明らかに違うようです。
2009年12月、当時、副主席時代の習近平が来日に合わせて天皇陛下との会見を強く希望し、それを受けた媚中派の小沢一郎を使い、外国要人が陛下と会見する場合、1カ月前までに文書で申請するという「1カ月ルール」を無視する形で会見をねじ入れたことがありました。これに関しては、次期主席と目された習が、やはり副主席時代に陛下との会見を実現させた胡錦濤に倣って、後継であることを強くアピールする狙いがあったといわれています。こういう形式を好むところが、実に中国的でもありますが、逆にいえば、中国の次期指導者が日本の帝に、継承を認めてもらうための柵封の儀式であったともいえます。つまり、あの横暴な中国にとっても日本の天皇は、それほどの存在なのです。日本の政治家や評論家にもそれを指摘する人がいなかったのは返す返すも残念なことだと思います。中国の首魁が朝貢に来た、というニュアンスの報道を大々的にしてやればよかったのです。
中国がどれほど天皇という権威を熟知しているのかは、以下の事実からもわかります。 89年の天安門事件以来、国際的孤立を余儀なくされていた中国は、起死回生の手段として天皇訪中を画策するのです。日本側でこれに動いたのは河野洋平、加藤紘一らの媚中・隷中派議員でした。こうして92年10月の初めてとなる天皇訪中が実現したのでした。で、同時に、それまで中国へ経済制裁を科していた西側諸国は「日本のエンペラーが訪問したのなら」と、一斉に制裁緩和の方向へ動いたのです。それほどに「天皇」という存在は歴史的、国際的に重いのです。それを、私欲のために軽々しく扱ってしまったのが、先に紹介したような隷中派議員です。
当時、中国外相だった銭其●(※王へんに探のつくり)はのちに「これまでで中国による最大の対日工作は天皇の訪中にいたる外交工作だった」と語っています。
天皇の権威を知りつつ、それを巧みに自国の外交に利用してしまう中国、「お前の母ちゃんでべそ」式の低質な悪口で溜飲を下げた気でいる韓国、日本にとってどちらが真に怖い相手かは言うまでもありますまい。
秀吉は韓国人?
文禄・慶長の役によって、韓国では現在も極悪人のごとき存在とされる豊臣秀吉ですが、彼の朝鮮出兵の本来の目的は明国にありました。明を平らげ、その勢いをかって天竺まで攻め入る、そんな途方もない構想を描いていたのです。そのためか、晩年の秀吉は耄碌して誇大な領土的野心を抱くようになったという見方も根強いのですが、彼の大陸浸出の背景に、アジアへ覇を伸ばそうとしていたスペインへのけん制の意味があったことも近年明らかになっています。明を勢力下に置く、最低でも朝鮮を弛緩地として確保する。スペインをロシアに置き換えれば、明治の頃の地政学的状況と酷似していることがわかります。常に朝鮮半島は日本の背中に突きつけられた短刀だったのです。
もっとも、他国の軍隊に土足で踏み込まれた朝鮮の人びとには迷惑至極だったのはいうまでもありませんが。
結局、朝鮮出兵は秀吉の急死によって幕を閉じます。決して韓国の主張するように、李舜臣将軍に秀吉軍が壊滅されたのではありません。最大の仮想敵であったスペインも英国やオランダと対峙せざるを得なくなり、アジアどころではなくなってしまったこともあり、日本は安泰を保つことができました。
もし、秀吉軍が明朝鮮連合軍を蹴散らし、中原を押さえていたら、当然、中国、朝鮮の歴史も変わっていたはずです。おそらく、今ごろ、韓国の歴史認識では、秀吉を韓国人認定していていたのではないではないでしょうか。「百済王家の血を引く秀吉(スギル)将軍が倭を平定後、朝鮮に独立軍を挙兵、憎っくき明軍を撃ち払った」そんな記述が教科書の一章を飾っていただろう、最近、私はわりと本気でそう想像するのです。
歴史をif(もし)で語るのは禁物とはいわれますが、歴史学の醍醐味とはifではないでしょうか。少なくともif(もし)で語る歴史の方が、wish(だったらいいな)で語る歴史よりも健全だと思います。もっとも想像力という点では、紀元前30世紀の古代朝鮮文明のスケールには到底及ばないのは、歴史を学問として向き合う者の限界かもしれませんが。
(追記)
フランス語で「歴史」はhistoire(イストワール)ですが、これは「物語」という意味もあります。民族の物語、それが「歴史」といえるかもしれません。ユダヤ人にとってのそれは旧約聖書ですし、日本人にとっての歴史の始まりは記紀であります。その他、あまたの神話や叙事詩という「民族の物語」が存在するわけです。
朝鮮にも檀君神話があるではないかといわれるかもしれませんが、あれは伝承によって自然に出来上がった神話というより、中世期に急ごしらえにつくった完全な創作物であるということは現在では定説になっています。たとえば、「神話」では檀君の父・桓雄は天神桓因の子としていますが、桓因とは何かといえば、帝釈天である。帝釈天はインドラという名でインド神話の重要な神格のひとつだが、大陸を経て朝鮮半島に仏教が伝わったのは三国時代の4世紀ごろであり、檀君の即位を紀元前2333年とする「神話」とではどう考えても辻褄があいません。エジプト原産だったニンニクが登場するのも無理があります。
檀君が登場する最初の書物が仏教が盛んだった高麗時代13世紀の『三国遺事』であるということが、ひとつのヒントとなるかもしれません。ちなみに、朝鮮最古の歴史書は同じく高麗期12世紀に編纂された『三国史記』で、17代仁宗の命を受けて金富軾が記したといわれていれています。おそらく、それ以前の半島の歴史はシナの歴史に組み込まれていたのでしょう。
仁宗はシナの歴史から離脱し、民族独自のイストワールを創造しようとした、その思いは理解できなくもありません。急ごしらえなのはそのためです。
シナの歴史からの離脱を試みつつ、一方で倭と見下していた日本が、自分たちより古いイストワール(記紀の成立は8世紀)をもつことは、彼らの古代妄想からも許せないことでしょう。そのコンプレックスが、彼らの歴史観を歪めてしまったのです。
歴史を「民族の物語」とするなら、完全な客観的歴史などありえないということになります。もし、百パーセント客観を目指すとするなら、それは歴史ではなく記録です。文系でなく理系の仕事となります。善悪も優劣もない冷徹な数字の羅列です。とかく(日本に対しては顕著に)善悪、優劣にこだわる韓国にはこれも受け入れらるものではありません。国際的なアカデミズムから無視さえ嘲笑されようとも、彼らの信奉する古代妄想教の教義に則った「歴史」を子々孫々に伝えていくしかないのです。
EUにだって統一した歴史観などありません。かの国と日本が歴史認識を共有することなど、どだいナンセンスな話なのです。