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韓国人は誰もが詩人だ

恋する乙女のごとく
 
「恋をすれば誰でも詩人だ」。プラトンの有名な言葉です。実はこれは意訳で、より正確には「人は愛に触れたとき詩人になる」だそうですが、どちらも甲乙つけがたい味わいがあり、なかなかの真理だと思います。
 恋する人を想いうかべながらノートの端くれに下手な詩のようなものを書いては、ため息つくなどという体験は誰にでもあることでしょう。私など惚れっぽい性質なのか、今でもときどき詩もどきの駄文を書いたりしていますが。
 また、フランスの偉大な歌手エディット・ピアフを評して「彼女が歌えば、それが電話帳だって人々は涙を流すだろう」と語ったのはボリス・ヴィアンでした。
 恋をした人間は誰もがみな詩人――ならば、プロの詩人が熱烈な恋をしたとき、彼の心の中から一体どのような詩が生まれるのでしょう。さぞやきらびやかで繊細な言葉が、あたかも蚕が絹を吐き出すようにとぎれなくつむぎ出されるのではないでしょうか。そしてその彼の詩がピアフのような偉大な歌い手の口を通して歌われたときのことを想像してみてください。詩人の目には、電信柱にも花が咲きほころんで見え、歌い手の耳にはドブの流れる音さえせせらぎと聞こえるのかもしれません。とにかく、世界中、やさしい気持ちと輝きに満ちています。これが恋の気分なのです。

 韓国人は誰でも生まれながらの詩人です。ただし、恋の詩人ではありません。恨みの詩人、嘆きの詩人です。
「恥辱と侮蔑感で血が逆流するようだ」。新聞の見出しにこんなフレーズが躍るのが韓国という国です。「血の涙」「胸の張り裂ける音」程度の表現は日本絡みの記事で目にすることは珍しいことではありません。苦痛、悲しみ、怨嗟、恥辱、憤怒、そういった負の感情に関する語彙やフレーズが彼らの言語には実に豊富にあり、またひとつひとつがとても激情的です。
「血が沸いて肉が震えて言葉もない」
 これは、 朴裕河(パク・ユハ)世宗大学教授の著書『帝国の慰安婦』の出版差し止めと慰謝料を求めて訴訟を起こした元慰安婦の一人、李玉善(イ・オクソン)氏の記者会見でのセリフです。朴教授はこの著書の中で「慰安婦」は売春婦であり、「日本軍の協力者」であると明記しており、李氏を含む元慰安婦9人に名誉毀損で提訴されていました。朴教授の見識について何ら異論はありませんが、それはともかくも、「血が沸く」「肉が震える」、これら韓国流の憤怒の表現に、私などは大いに感嘆してしまうのです。実に詩的であり、よくも悪くも、聞く者、読む者の意識に強く刻まれずにはいられません。日本語の翻訳でさえこれだけのインパクトがあるのですから、原語のニュアンスはいかほどのものかと思います。
 そういえば、「日本人の肉を食ってから死にたい」という物騒なことを叫んでいた元慰安婦のおばあさんもいました。儒教社会における食人文化云々についてはさておいても、日本人にはない彼ら独特の発想やフレーズのユニークさには思わずうなってしまいたくなります。朝鮮の独立運動家・金九は自伝『白凡逸志』の中で、日本軍中尉・土田譲亮(実際は軍人ではなく行商人)を殺し、その生血をすすったと自慢げに記していますが、敵の肉を食い、血をすするというのは、彼らにとっての復仇の表現のひとつなのかもしれません。

反日という恋

 さて、次もなかなかすごい表現です。
「(日本人は)日帝の過去の犯罪史を示す血の痕跡を絹の風呂敷で覆い、自分らのいわゆる『文明』の宣伝に利用するつもりである」
 日本のNGO「軍艦島を世界遺産にする会」発足に関する、朝鮮中央通信2012年10月号の記事から拾った一節です。
 軍艦島とは、正式名称を端島(はしま)といい、長崎県に属す、海底鉱山の上にコンクリートで作られた人工島です。石炭産業華やかりし頃、多くの炭鉱労働者や技師、その家族が、面積として0・0063km2程度のこの小さな島に住んでおり、最盛期には東京を越える人口密度を有していたといいます。当時としては画期的な高層のコンクリート製団地(建設は大正5年=1916年)が建ち並んで、それらの建造物のシルエットが遠目に軍艦のように見えたところからその名がありました。1974年の閉山後は完全な無人島となっていますが、近年では離島マニアの間では超有名スポットとなっています。この軍艦島を日本の近代化に貢献した産業遺産としてユネスコの世界遺産に登録しようという趣旨のもと、軍艦島の元住人らが中心になって発足したのが、同NGOなのでした。朝鮮中央通信の記事はそれに噛み付いたものです。
 戦前、炭鉱労働者として多くの朝鮮人労働者が、軍艦島で強制労働されたというのが韓国側の主張で、日本はその負の歴史を隠し、自国の近代化の象徴という虚飾のもとに、世界遺産への登録をくわだてようとしているというのが記事の大まかな内容です。
 例によって朝鮮人労働者は奴隷のように扱われていたというのが彼らの一方的な言い分ですが、面積として日比谷公園の25分の1にも満たない狭い島の中で、奴隷もどきの非人道的な強制労働があったのなら、労働者の反乱が一度や二度起こっていても不思議ではないはずです。ツルハシやスコップ、はてにはダイナマイトといった、いざとなれば凶器に転用可能なものは彼らの身近にゴロゴロとあったのですからなおさらでしょう(但馬註・端島炭鉱は完全に機械化が進んでおり、ツルハシを使うような作業は実際にはなかったという)。ちなみに私の友人でこの島の出身者がいましたが、彼は祖父母からも朝鮮人強制連行の話を一度として聞いたことがないといっていました。鉱夫も技師も島民相手の商家もみな差別なく仲良く暮らしていたとのです。また当時の資料を読むと、島には駐在する警察官は二人。たったの二人で全島の治安を守っていたわけですからのどかなものです。その気で朝鮮人が反乱を起こせば、本土から鎮圧部隊が到着する以前に島を制圧可能ですし、島民を人質にすることによって彼らの要求を通すこともできたのではないでしょうか。ところが、記録に残る「事件」といえば、酔っ払った鉱夫同士のケンカが2件だけだそうです。
 炭鉱、朝鮮人労働者というだけの不確かな材料で、強制労働、奴隷というファンタジーを創作し、なおかつ「血の痕跡を絹の風呂敷で覆い」という激烈なフレーズが筆先からほとばしる韓国・朝鮮人の詩作能力に関しては、文章を生業としている私さえ思わずシャポーを脱がざるをえません。まさに彼らは、反日という恋にわずらう詩人であり、1を聞いて百に膨らませることを得意とする希代の講釈師といえます。

言語と痛覚

 ここで本職の詩人にも登場してもらいましょう。イ・ソクウ氏(漢字表記不明)は詩人でコラムニスト、博士号をもつ文芸評論家であり、小学校の校長先生という華々しい肩書きをもつ人物です。彼が忠清トゥディ(2012年7月26日付)という地方紙に発表したコラムから一部引用します。
《地震の恐怖の中に生きてきた日本人のDNAの中には平穏が保障される安全な土地を訪ねようとする欲望が潜在している。この欲望は他国を絶えず侵奪しながら良心の呵責を喪失した特性を持つ。道徳性を喪失した覇権主義がすなわち日本支配集団のイデオロギーだ。我が国はこの亡霊によっていつも私たちの土地の肉が裂ける傷を負った。日本に主権を奪われた庚戌国辱は1910年8月29日のことだ。》
 地震を初めとする自然災害の脅威と日韓併合の因果関係についての詩人の考察は実に斬新で、ひととき笑わせていただきました。「平穏が保障される安全な土地」、これはひょっとして朝鮮半島のことなのでしょうか?
 ちなみに、イ・ソクウ氏は、対馬=韓国領説の急進的信奉者で、「対馬島返還のためには対馬島の紛争化にせよ」とも主張されています。こういう人が小学校の校長先生なのですから、その教え子が長じてどのような対日観の持ち主になるかは想像に難くありません。平和だ、話し合いだ、憲法9条だ、のお題目を唱えていればオマンマがいただける日教組のデカンショ先生方とは心がけも気合いも大きく違うといえましょう。
「私たちの土地の肉が裂ける傷」――。韓国人は総じてこのような肉絡み、骨絡み、血絡み的な比喩を好む傾向にあります。彼らは日本を思うたびに、血が沸き、肉が裂けるのです。むろん、実際に肉が裂けたり血が沸騰すれば、大変な痛みを伴うことになります。
 韓国料理に欠かせないのが唐辛子ですが、あのカーーッとくる刺激的な辛さ(主成分はカプサイシン)は、一説によれば、味覚というよりも痛覚として脳に感知されるのだそうです。つまり、韓国の食文化は「痛みの食文化」であるともいえます。
 それと同じく、韓国人の言語感覚にもどこか痛覚と直結した部分があるような気がしてなりません。「胸が張り裂けそうだ」という言葉ひとつとっても日本人が口にするときよりも、韓国人の口から発せられる方が数段、実感的な響きがあるのは、おそらくは、彼らの場合、その発せられた言葉がまま痛覚となって脳に伝達されているからではないか、とさえ思えてくるのです。
「胸が張り裂ける」と口にしたと同時に、実感として心臓のあたりにある種の痛みをともなった信号が走るのです。よく反日デモの動画で、韓国の中年女性などが日本に対する罵倒の言葉を発しながら、興奮のあまりそのまま失神してしまう光景を見かけます。あれはまさに、言語化された怒りをフィードバックさせることによって、一種のトランス状態を作っていると考えられるのです。むろん、韓国特有のシャーマニズム呪術文化、朝鮮民族に先天的に備わっていると思われる霊媒体質的なものなども無縁ではないような気もしますが、ここではあくまで仮説の提示に留めておきます。要は、韓国人の言語は非常に体感的であるということです。

 日本人は韓国人のこういった言葉の特殊的な強烈性、「恨」のポエジーについつい圧倒されてしまい、「そこまで怒っているのだからわれわれの先祖はよほどひどいことをしたのだろう」と内省しがちですが、彼(女)らの口をついて出る「日帝36年の民族受難」も「肉の裂けるような痛み」も、本質的には、恋した乙女のノートに書かれた、「お星さま」や「いちご畑」といったフレーズ、あるいはハートマークや顔文字と何ら変わることはないのです。片想いのカレが「白馬の王子様」に見えるか「残忍な日帝」に見えるかの違いとでもいえばわかりやすいかもしれません。王子様に見えたカレも恋が醒めてみれば、ただの冴えない男の子というのもおうおうにあること。韓国国民も一日も早く、反日という不毛な恋から醒めてほしいものだと切に願います。
 もう一度、言います。韓国人は生まれながらの詩人です。彼らが朗読すれば、電話帳さえ恨みの慟哭になるのです。

単行本未収録

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但馬オサム
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