見出し画像

タネの交換と自立分散型ネットワーク~タネは誰のものか~


<タネの交換と自立分散型ネットワーク~タネは誰のものか~>

種子法の2018年廃止と種苗法の2020年改正は農業界のみならず、多くの人々の間で議論を呼び、注目を浴びた。「タネは誰のものか」という問いは生物学や法学だけでは解決できない。

穀物の種子は保存がきく上に食糧であるがために、古代からずっと現代のお金のように交換され、取引されてきた。しかし、現代のお金との大きな違いは穀物の種子の寿命は短く、たった1年ほどしかない。つまり毎年蒔き続けなくてはその価値は失われる。毎年新米が美味しいのは古い種子の生命が衰え味が落ち、新しい種子の生命が新鮮で美味しいからだ。そのため古代文明は労働が常につきもので、富(種子)は労働なくして増えることはなかったし、労働から離れた富は存在しなかった。

「どうして種子法が必要だったのか?」という問いには穀物の種子寿命の短さと穀物ならではの性質が関係している。イネ科やマメ科など穀物と呼ばれる種子はその風土や気候の影響を受けやすい。その土地に適応した種子を毎年栽培し、保管することが種子法の目的だった。栽培者がいなくなれば失われるからこそ、守る必要があった。

税金をかけてまで、その種子を保管することは未来の栽培者を守ることになる。どういうことかというと、もしあなたが新たに農業界に参入し、穀物を栽培しようとしたとき、その土地に適応した種子がなく、他の地域で栽培されている種子を持ち込んでも、収量が安定しないのだ。最低でも3年、できれば7年ほどの自家採種を繰り返さなければ種子は適応しない。その間は収量が確保できず、苦しい経営が続くことになる。つまり種子法はいまの消費者だけではなく、未来の農家を守る法律だったのだ。

数十年前まで、コメといえばコシヒカリばかりだった。その美味しさからコシヒカリが消費者から喜ばれ選ばれたため、多くの栽培者が全国でコシヒカリばかりを栽培していた。しかし1993年の冷夏によるコメ不足がその状況を一変させた。そこの地域でも同じ品種を栽培してしまったがゆえに、すべての生産地で同様に収量が激減してしまったのだ。そのため海外からコメを輸入しなくてはならないほどだった。

コメ不足の経験から全国で同じ品種を栽培するのではなく、その土地にあった品種を見直し栽培することが奨励された。これはこの時期、地産地消というキーワード共にその土地の独自性をアピールことが経営的にも有利に働いたためだった。このころからその土地ならでは郷土野菜もまた活気付いていった。

そう、コメ不足の後のコメの多様性を担保し、その後一度もコメ不足に陥っていないのは種子法によって税金でその土地に適応した古い品種を栽培しつづけていたからである。ビジネスマンからすれば、そんな利益にもならない赤字だらけの税金の使い道を非効率と言うかもしれないが、赤字にはなるが守る価値があるものにこそ、税金をかける意味があるのだ。

種子法が成立する前、その役目を果たしていたのが百姓だった。江戸時代の百姓は自給自足のイメージが強いが、意外とそうでもなく生活にお金は必要なものだと考えられ、度合いは違うものの商売や日雇い労働、出稼ぎなどで経済活動を行なっていた。そのなかで百姓たちは自身の収量を増やすために、品種改良に努めると同時にタネの購入もしていた。

先人の蒔いた種を育てつつ、新しい種を蒔く。積極的にタネの交換をし、新しい品種を見つけ出し、育てていた。江戸時代の幕藩体制は鎖国から閉鎖的なイメージが強いが、実際の日本国内ではヒトもモノも情報も、そしてタネも積極的に交流していた。

全国の老農たちは村周辺、商売関係、趣味関係とそれまでの暮らしの身近なところからタネ交換のネットワークを作り始め、お互いの農法を伝え合い、オープンにする態度を貫いた。その姿勢は心学や朱子学などの影響が強い。彼らはタネや農法そのものの改良にとどまらず、心のあり方にまで意識が向いていた。

それまで地域周辺のみだった交換の限界を打ち破り、小さなタネ交換圏同士の横のつながりを生み、地域内のみならず全国的なタネ交換ネットワークを作り上げたことは無名の老農たちの功績だった。彼らは自身の自給・販売用の田畑だけではなく、試作田のネットワークまで持ち、改良に励んだ。こうして無名だが無数の優秀な農法を持つ老農が結びついて、江戸時代という気候変動が激しかった特別な時代を生き抜いてきたのだ。その原動力は支配者の命令でもなければ、科学者の提言でもない。百姓の生きる力と横のつながりを楽しむ姿勢だった。

現在の日本のイネの品種は神力(西南暖地)、愛国(関東)、亀ノ尾(東北)の三大品種がほとんど関与しているが、いずれも明治の初めに農民の手により発見され、育成されたものである。そのほか多くのイネの重要品種が江戸末期から明治の初めの頃に農民の手によって作り出された。その多くは発見者と年代がしっかりと分かっている。決して農事試験場が作ったというものではない。

法隆寺をもう一度作ることはできないが、イネやムギの品種もまたヒトは再びそれらを一から作ることができない。国宝や文化財に等しい存在なのだ。農とは文化的に言えば、生きている文化財を先祖から受けつぎ、それを育て、子孫に渡していく作業に他ならない。有生文化財として認定してほしいほどだ。そして、百姓が誰も特許のように独占しようとしなかったからこそ、その後優れた品種が誕生し、日本人を養ってきた。その歴史を百姓のみならず、私たち日本人は無視してはいけない。

「種子は命の源」のはずが現代政府によって「種子は企業の儲けの源」のように扱われて、種子の海外依存度が上昇する一連の政策つまり種子法廃止、農業競争力強化支援法、種苗法改定、農産物検査法改定が行われた。野菜だけではなくコメや果樹にまで波及してしまいそうな勢いだ。

民間の種子が圧倒的に増えた野菜では1951年から2018年にかけて価格は17.2倍になったのに対して、種子法で守られたコメは・小麦、豆は2~5倍に抑えられている。二次産業や三次産業に携わる人々が安心して働けるのは、生きていくために必要な食糧を安定した価格で購入できるからだ。食糧を輸入に頼ってしまえば、他国の政治や気候に命が左右されてしまう。硬貨や紙幣は交換できなければ、食糧になり得ないことを忘れてはいけない。

種苗法はタネの権利についての法律であり、登録品種に限った法律であったとしても、そのタネは先祖が代々繋いできたタネが元になっている。それをいきなり企業が「このタネは私たちのものだ」と特許を主張するのは百姓の自家採種の歴史を軽視しているばかりか、その横と縦のつながりを分断している。しかし遺伝子はそのつながりを示し続ける。タネは農家とその地域にとっての食文化とも結びついた共有資源であり、所有権の考えはなじまない。所有という概念すらヒトの、いや先進国の現代人の脳の中にしかない。自然界に所有という概念はもともとないのだ。

2023年現在の種苗法では「業(事業目的)」に限られていて家庭菜園においての自家採種は制限されていない。業はもともとは「道」や「ケ究」に近い意味だが法律用語では「ビジネス」という意味だ。「育成(後輩)」に限られていて、固定種や在来種は除かれている。つまり、自家採種してタネや苗、2年目の収穫販売を目的とした場合は違法となる。ただし、F1種を自家採種して同等の遺伝子を保つことはほぼ不可能。しかし、農家の自家採種の自由と権利をわざわざ規制することは本当に必要なのだろうか?そして、在来種や固定種とその自家採種の権利を守る法律も必要なのではないだろうか?

食糧安全保障の要である食料のその源はタネに他ならない。野菜のタネの販売元は日本の企業がほとんどだが、9割(重量比)が海外の畑でタネ採りが行われているの実態だ。タネが入ってこなくなれば、農もできない。

いま私たち家庭菜園家にできることは声を上げることだけじゃない。自らの手を動かしてタネを採り、仲間たちと交換して、横にも縦にもつなげていくことだ。現代社会が効率性のために専門性を高めた結果、横も縦もつながりを失いつつある。生物多様性はつながってこそ価値がある。私たちもまたつながってこそ、力を発揮できる。

農家は今後、企業からタネを買う時に自家採種の禁止の契約を押し付けてくる可能性があることを前もって知っておく必要がある。現在、自家採種をする農家が減ってしまい、その技術が継承されていない。そこに企業はビジネスの機会があると考える。畑を持たない小作農が歴史の中で不利な立場に貶められたように、タネを持たない農家は今後不利な立場に貶められる可能性がある。

農家が拒否できないように洗脳と催眠術をかけていく。「遅れた農業・農村」「都会並み」「大型化・産地化」「進歩・成長」など言葉を使って不安や恐れを抱かせる。やがて農家は目くらましにあい、自己喪失していく。現代人には都会人には真似できない技術を持ち、生きる百科事典のような百姓たちは自信なさげに隠れるようにして暮らしている光景に私は悔しさを感じる。本来は尊敬されるはずなのに、その凄さと価値が分からない人は田舎に来ても彼らに背を向けて、テレビやスマホの画面ばかりに目を向ける。あなたに必要なものはすぐ近くにあるというのに。

家庭菜園家も農家も植物を愛し、畑を愛し、農に携わる点で同志である。農法の違いは大した違いではないし、揉めるようなことではない。私たちは江戸時代の百姓同様、横のつながりをつくりあげていくことで、大企業やそれとつながる政府のいいなりにならないように草の根を広げていきたい。

現在、種子法に変わる条例が各都道府県で制定されている。条例の方が守る品種を各自治体に応じて増やすことが可能だし、地方政治の方が声を直接伝えやすい。しかしTPPのようにグローバル企業が地方自治体よりも強い権力を持ってしまえば、せっかくの条例も意味がなさなくなる。

アメリカ版の種苗法では特許法で特許が取られている品種を除いて、自家増殖は禁止されていない。EUでは飼料作物、穀類、ジャガイモ、油糧作物および綿花などの繊維作物は自家増殖禁止の例外に指定されている。さらに小規模農家はタネを使用するときの許諾料が免除される。

グローバル企業や大企業、そしてそれらと繋がった政治家たちは国民の無関心の隙をついて、ビジネスチャンスを広げようとする。彼らにとって無関心と無能力ほど美味しいものはない。分断された国民ほど操りやすいものはない。彼らの策略を見抜き、それに抗う唯一の方法はタネを採り続けることだ。自家採種は非暴力・不服従の活動そのものである。タネの交換という慣習は塩の行進にも勝ることになるだろう。

※農業競争力強化支援法8条4号
公的な育種の成果を民間に壌土することを義務付けた規定
はグローバル企業が開発する特許種子に貢献する法律
世界的な種子ビジネス


いいなと思ったら応援しよう!