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自給自足と半農半Xのゆくえ


<自給自足と半農半Xのゆくえ>

つくづく自然農は自給向きであり、半農半X向きだと思う。もちろん生業として経営農業としても成立することは可能だが、そのときは生業という言葉の通り、一生をかけて農に向き合う必要があるだろう。

近年、半農半Xという言葉が一人歩きして、ただの兼業のように扱われていることが多いように思える。とくに市町村や県が準備している補助金や助成金の制度をのぞいてみると、経営農業が主軸となっていることが条件のところが多い。

もともと「半農半X」という言葉を生み出し、ここまで広げてくれた塩見直紀さんの著書によると「自給」を主とした農ある暮らしをベースしながら、天職を全うする暮らしを「半農半X」と呼んでいることが分かる。役場の人たちは「半農半X」という言葉を使う以上、まずは著書を読んでもらいたい。

江戸時代に誕生し、現代まで受け継がれてきた百姓という職業にも近い。百姓は「百の職業」を意味することであるが、そこには必ず農が含まれていた。その農の規模やレベルは百姓それぞれに任されていて、季節や地域、年代によってさまざまであったことが農書を読み解くと分かる。

むしろ江戸時代後半の大農たちの多くは農は村人の食糧と年貢のために行われ、工業的な生産やその主原料の生産に力が入れられ、商業にも積極的に参加していたことが分かる。そのため明治時代に入ると大農たちがこぞってものづくり産業に参加していくこととなる。それは戦後の高度経済成長期に活躍する人々にも当てはまる。

失われた30年を経験しているとはいえ、いまだに先進国として世界経済に貢献している日本ではこれからも経営農業としての離農は続くだろう。それは時代の流れというものであり、そう簡単に変わりはしない。これからは第二次産業もほとんどが全自動機械化され、第三次産業にはAIや機械が担うことが多くなるに違いない。

しかし、第一次産業はその姿形を変えて、生き残り続けることになるだろう。なぜなら生身の自然を相手にできるのはやはり生身の人間だけだからだ。私は自然農をしているとき、原生林の山に篭っているとき、そう痛感することだらけである。

その姿形こそ、現代版百姓とも言える半農半Xだろう。その兆候は数十年前から始まり、グローバル経済が進めば進むほど、日本中に世界中に広がっていくことだろう。グローバル経済が綻びを見せるたびに、地方における半農半Xの暮らし方が注目を浴びる。

職業の「業」とは、現代法学において「収入を得るビジネス」という意味がある。しかし本来は生業(なりわい)や極めるものという意味だった。そのため農業はお金を得るための道具となり、道をそれることとなったようだ。

『老子』の「知足知止」とは足ることを知れば、世に辱めを受けることはないし、止(とど)まることを知れば、危うい目に合わないという意味である。しかし商いは飽きることなく、右肩上がりの経済成長ばかり求めることとなる。いつまで経っても物足りない。

百姓たちの口癖であった「天寿を全うする」とは天地の間でそれぞれの分限を果たし守りながら生きることであり、それを認識して無理せずに自然体で生きること。四季自然に順応した生活、環境と調和した暮らし、人と人のつながりを大切にした日常、これが人生の幸福を生み出すというのが東アジアの人生観である。

多くの現代人がこの考え方にたどり着くときの共通点は資本主義の現場に精神的もしくは身体的に疲れ果てたときや、グローバル経済の綻びに危機感を覚えたときなどである。そうして人々は都会にはない自然を求めて、何もない地方へと足を運ぶ。そして百姓の生き様に心打たれるのである。

自給に必要な分だけ農作業をして、あとは好きなことを仕事にして現金を稼ぐか、好きなことをして遊んで暮らす。それだけで、世界の情勢や政治の失敗に大きく巻き込まれることはなくなる。いざというときに、政府や大企業は動き出すのが非常に遅い組織なので、それに依存している現代人は共倒れのようにして自滅していく。

自分の人生を生きていくため必要なことが必ずしも職業として成り立つわけではない。また子育てや互助活動など、お金にならないにも関わらずコミュニティを維持するために必要なことはたくさんある。あなたにとって本当に価値あるものが必ずしもビジネスで成り立つわけではない。

田舎で半農半Xの暮らしをすると、そんな当たり前のことに気がつかされ、資本主義には物差しがたったひとつしかないことに愕然とするだろう。田舎にやってきても資本主具の物差しで生きていけば、気がつけば一人ブラック企業となり、自然の移り変わりに心を踊らせることもなければ、いつまでも物足りない暮らしが続く。

これだけ物流ネットワークが整備され、インターネットによって情報が拡散される時代において、田舎でも都会となんら変わらない生活ができる。お金は世界中から情報と税体躯品をかき集める。しかしお金があれば人生で必要なことの90%は得ることができるが、幸せに生きるために必要なものの90%はお金では得ることができない。そんなことに気がつけなければ、田舎で暮らしていく意味を見出せないだろう。

もちろん、現代社会で生きていくためにはお金は必要だし、経営術も必要だ。しかし現代の経営家たちは経費と収入のお金の管理はできるが、天然資源の最適な管理方法を知らない。逆に一次産業に携わる職人や自給自足型の暮らしをする人は天然資源の最適な管理方法は身体に染み付いているが、お金の収支のやりくりが苦手で、お金の収支のことしか頭にない人たちに利用されてきた。そして気がつけば土地はあるのに、補助金なしでは食っていけなくなる経営状況となってしまった。

どちらにもある程度精通していれば、野良仕事をしつつ、自律自営し、積極的に地域社会にも関わっていくことができる。お金も、時間も、エネルギーも、資源も最適な配分ができるおかげで、ひとりブラック企業になることもなく、資本の無限増殖に命をかける必要もなくなる。本当に必要で、本当に価値あることにそれらの資源を有効活用できる。

パーマカルチャーリスト(実践者)とは万能家であり、スペシャリストである。江戸時代の百姓とほとんど同じだ。あらゆる分野の知恵や技術を持っているが、たいてい一つか二つ最も得意とする分野を持っている。またその地域について深く精通しているという意味でも地域に特化した専門家でもある。

しかし、現代社会や資本主義の否定から自然農やパーマカルチャーの世界に足を踏み入れてしまうと浮世離れした孤立した存在になりかねない。現代の経済システムへの批判をしながらも、お金という道具をどれだけ幸福的に使いこなせるかは現代百姓の課題の一つだろう。

ここでオータムの三層の利他行動を適用するのもアリだ。8つの資源とエネルギーの3分の1は自分自身の生活必需品を得るために使い、3分の1を自己の発展と反省に費やし、残りを社会・コミュニティのために利用する。もちろん、厳密にする必要はなく目安で十分だ。

自分自身の能力を培うことで、バランスが取れて、調和した社会形成に貢献し、生命と社会の維持が可能になる。独りの自立よりも仲間との自立は効率性を高め、保険的な機能となり、交易という楽しさを生む。

先進国では一次産業の産物価格は二次産業や三次産業の労働賃金に比べて安くなり、収益性は低い。そういった職業を経験してきた人々が都市部から移住する際に、よほどの理由がない限り、一次産業で生計を立てようという気持ちにならない。先進国など豊かな社会では土地の生産力に頼らなくても、さまざまな職業で現金収入を獲得できる機会がある。インターネットの発達によってその可能性は農村部では確実に広がっている。

大規模化した単一栽培によって生産物が安い先進国では、たとえ農村部でも土地の生産物に頼らずに多様な職業で生計を成り立たせることができる。それはインターネットの普及によって、山奥まで可能になった。だから、強い動機がない限り就農する人はいない。

おそらく、これからの農業の現場には「作物を売らない農家」が増えていくことになるだろう。とくに中山間地域では兼業農家が増え続けている。農村ツーリズムが移住者によって始められるのは、田舎を訪れる観光客が移住者と同じような価値観や関心を持っているからだ。

食糧市場の動向ばかり見ていると、消費者の本当のニーズには気がつけない。彼らのニーズもまた多種多様であるし、それを満たす能力は地方に十分に備わっている。あとはそれをあなたが磨くだけだ。


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