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火の使用と伝統的な焼畑農法


<火の使用と伝統的な焼畑農法>
現在、焼畑農法は森林破壊農法だと勘違いをされているが、伝統的に受け継がれてきた焼畑農法の実際は自然の摂理を巧みに活用した循環型農法である。

文化人類学者・福井勝義は焼畑農法を「「ある土地の現存植生を伐採・焼却などの方法を用いることによって整地し、作物栽培を短期間おこなった後、放棄し、自然の遷移によってその土地を回復させる休閑期間をへて再度利用する、循環的な農耕である」と説明している。

日本ではもともとは山間部に雑穀や焼畑をする農耕民がいた。畑という字は国字でもともと「火田」であり、焼畑を意味していた。もう一つの畑を意味する「畠」は「白い田」で焼いた後の畑を表し、それを伝えた人々こそ秦(畠)氏だったのではないかという説がある。

世界中の北方民族の農耕は多くは畑作であり、これらの人たちの日本列島への渡来によってアワ・キビ・マメ・ムギ・ヒエなどの穀物が日本へもたらされたときに焼畑も同時に持ち込まれたのかもしれない。

武蔵のサシは焼畑を意味する朝鮮語。武蔵の西部山地から甲斐へかけてサシやサスという言葉の地名が多い。指や差の字も同様だ。

東北ではカノ・カジノ、北上山地ではアラキ、中部ではナギ、ゾーリ・ゾーレと言うことが多い。近畿・中国地方ではカリハタ・カリヤマ、四国地方ではキリハタやハタと言っていたようだ。九州ではコバ、木庭・木場・古庭など地域によって言葉や漢字が違っている。

戦後間も無くの調査では日本海側の山地中心に約7万haもの面積で焼畑が行われており、雑穀や芋が栽培されていたことが分かっている。古い和歌にも火入れを詠んだ和歌があるが農民の生業は遺跡や書物に残りにくいため詳細は明らかになっていない。

江戸時代の農書の中には焼畑の記載は多く残っている。地域によって火入れの手順やその後の栽培作物、管理の仕方は変わってくる。山間地ではムギやソバの栽培と焼畑がセットで行われることが多かった。

佐渡では山を焼いた跡に大根で焼畑の後に作ったものに辛味がないという。東北や北陸では焼畑の後に大根やカブを作るところが多い。四国や近畿、中部山地ではサトイモが多く、エグ味がなくなるという。これらの作物は現代の農業でも火山灰が降り積もった地域で栽培されていることからも草木灰との相性が良いのだろう。

焼畑は朝鮮半島だけではなく中国にも東南アジアにも、台湾などの南方諸島にもある。そういった熱帯地域では焼畑とイモ類がセットで行われていることを考えると南方の人々の渡来によって伝わった焼畑もあるということだ。日本には大きく二つのルートからそれぞれの焼畑が伝わっている。

土は焼くことでカリウムやカルシウムなどのアルカリ性の草木灰が供給され、酸性から微酸性に傾く。また、樹木の日陰によってなかなか温度が上がらず分解が進まなかった有機物が栄養分の供給源となり、土に養分を補ってくれる。

酸性が緩和されるとセリ、ナズナ、ハハコ、ハコベ、オオバコといった食べられる野草が育つ。春の野焼きはアルカリ性が好きなワラビやコゴミ、ゼンマイにとって好都合だ。

またチッソやリンが熱によって植物にとって吸収されやすい形に変わり、土壌表面の雑草の種子を殺し、虫全体の総量を減らすことにつながる。焼畑の後の作物栽培には有利に働く。

雨が多い地域は植物の生育には好条件だが、雨水が栄養分を地下水に流してしまうため酸性によりやすい。そのため生まれたのが焼畑農業と水田農業だ。ヨーロッパで発達した農耕文明とはまるで違うため、環境破壊型農業のように見えたのだろう。雨の多い日本や東南アジアなどでは風土に根付いた適正技術である。

焼畑は狩猟採集の延長として発生したのではないかという説がある。樹木を焼き払うことによって森林に潜む獣たちを野に追い出して捕まえていた記録が残っている。これを巻狩という。その焼き跡に生えたものは食料として利用できるものが少なくなかった。ワラビはその代表例で、秋には根を掘り出してデンプンも利用した。

宮本常一の記録によれば焼畑習俗を持つ村には狩りを行っているものが多い。山間の村の祭りににはシカやイノシシの耳や鼻を備えたり、代用に餅を備えたりする風習がある。狩猟民族だけではなく木材を伐採し利用する人たちもまた焼畑によって食料を得たようだ。

土佐では雑木林を焼き払い、蕎麦・ヒエ・マメを作り、コウゾやミツマタを植え、焼いてから10年利用したのちに杉の植林していた。他の地域でも似たように山のすべての木を刈り取って焼き、2~3年は雑穀類栽培したのちに杉などの苗木定植して森林に還していく。西日本の焼畑は主に春に焼いて、雑穀栽培が行われる。

それに対して東日本では夏に行う。山形県鶴岡の伝統野菜・温海カブは夏の林業の伐採後に焼畑を行い、その直後にカブを直播し栽培、そして12月の雪が深く積もる前に収穫する貴重な食材だ。そして、雪が溶けた春にはワラビなどの山菜が採れる。これを数年繰り返したのちに、スギの植樹が行われる。同様なものが福井県の河内カブ、岐阜県の白山の麓の白峰には焼畑によるナナギダイコンの栽培が残る。またマメ科のハンノキを植えて地力回復を早める方法が伊豆七島や北上山地などで行われていた。

焼畑は狩猟、木工、放牧を生産手段とする民族の間で行われた。それが戦後に禁止されるまでずっと続いたことは見逃せない。火をうまく扱うことができれば、植生を変えることができる。それに気がついた人々が知恵と技術を伝承していき、焼畑農耕は築かれていったのだろう。そんな火の扱いを知る人々こそ「ひじり(聖)」と呼び、敬ってきたに違いない。

世界中にもひじりの知恵と技術を伝承する民族がいる。

アボリジニは火を使い、周囲の環境とのあいだに明確な接縁を持つ熱帯雨林や雑木林をつくり、土地を管理していた。アボリジニにとって火は土地に手を入れたり、快適に住めるようにするときに使う最も重要な道具であり、食料を増産する道具でもある。

火を用いた土地管理方法を「燃え木農法」と呼び、異なる植生や生物域において、火を使う頻度や強度について諸説はあるものの、その使い方は無秩序でも無作為でもなかった。

アボリジニの種族はそれぞれの文化に深く根ざす特有なパターンに従い、季節ごとに移動し、いく先々の土地で食べ物を収穫し、必要な作業を行なった。彼らの方法は行き当たりばったりのように見えるが、自然界から発せられる合図を頼りに決定されるタイミングで、収穫と手入れを行なったのである。

開かれた通路や敷地を作ること、成熟した樹木は巣作り用の穴やシェルターとしても分娩用としても利用できる大きな穴ができる。火はたんぱく質が豊富な草の成長を促し、カンガルーなどの草食動物を呼び寄せる。

荒地に生息できる植物の開花が促進され、花の蜜が増え、ラン、ヤムイモ、豆など幅広い食用作物の発芽や結実、塊茎形成が促進される。草木が残すミネラル豊富な灰が土壌を肥沃にし、煙は雨となって他の大地にミネラルを供給する。やがて植生遷移によって燃えにくい植生・熱帯雨林へと還っていく。

北米のネイティブアメリカンのユロック族は5月ごろにファミリーバーン(野焼き)を行う。標高の高いところから順に燃やしていき、火が一気に燃え移っていくことを防ぐ。雨の多い地域とは違って乾燥地帯ならではの工夫である。

乾燥地帯では自然火災が発生し、時に大規模火災へとつながる。先住民族はその夏の山火事の規模を減らすために事前に燃やしておく。数千年の歴史があったがアメリカ政府によって法律で禁止されてしまっている。

彼らは火をつける時に「good fire」と唱える。生態系に火は必要だと考えていて「動物のため、人間のため、木の妖精のために」火を扱う。残った炭が土壌を水質を浄化し、松の木が発芽し、アピオスなどの山菜が茂る。

自然火災が発生しやすい国では山火事の被害を防ぐため、一年間に広大な面積を燃やしてしまっている。地図を眺めるだけなら理にかなっているかもしれないが、あまりにも広い面積を燃やすと、燃えたサバンナ林と燃えていないサバンナ林の接点が失われてモノカルチャーが生まれてしまう。自分たちが関わることができる範囲で火を入れれば、つまり適正技術となれば、防災とともに食糧生産へとつながるのだ。

焼畑はこれまでの科学者によって記録されている農業形態の中でもっともエネルギー効率が高いことが分かっている。

肝心なのは森林の再成長にもとづく周期で世界中の記録によると最低でも20年が必要だとうう。熱帯地域では人口が増えすぎ、森林面積が減少し、利用頻度が増えているため持続可能なレベルから外れてしまったのだ。

自然遷移の律動の効果は回復期のゆっくりした地力の蓄積に依存しているということ。つまり、あまりにも頻繁に律動を起こすと土壌劣化の下降スパイラルに陥る。またある特定の方法ばかり頻繁に使用しすぎれば、短期的にはともかく、長期的には衰退につながるだろう。

焼畑も人口が増えすぎると、燃やす面積が増えてしまい、森林消失からくるデメリットが増えていく。そこに政治問題も関わってくる。政府が限られた森林を守るために保護区や国立公園に指定してしまうことで移動しながら焼畑をしてきた少数民族は行き場を失う。割り当てられた地区だけで焼畑を続ければ自ずと限界を迎えて、収量も次第に減らしていくことになる。環境破壊は決して方法だけの問題ではなく、人口問題に加えて政治問題が関わってくる。

適正技術には適正規模が欠かせない。そのため昔ながらの伝統的な農業は必ずしも持続的とは限らない。古代文明からずっと人々は土と向き合い、試行錯誤を繰り返したきた。現地の農民が直接自然と向き合うために責任を負われやすいが、実際のところ都市部に住む人々の暮らしや政治が引き金を引いていることもあることを忘れてはいけない。

焼畑というのはテクニックであって、それだけで環境破壊型農業と決めつけるのは勘違いだ。世界的には焼畑は環境破壊型農業と呼ばれている。確かにそういう一面があるのは間違いない。ただ世界各地で行われてきた伝統的な焼畑農業は決して環境破壊型農業ではなく、自然の摂理を生かした適正技術である。

家庭菜園の畑の畝の上でも似たようなことをすることがある。もちろん、毎回毎回やるわけではない。適正なタイミングと規模と作付け計画に沿って行わなければ、デメリットしかない。

テクニックというのは常にメリットとデメリットを抱えている。それを補うのが知識や知恵だ。それはときに昔ながらの教えであって、科学的な理屈はないかもしれない。

それでも伝わってきているのは、確かな理由があるからだ。テクニックと知識(知恵)を繋ぐのが思想。自然農がまるで宗教のように扱われるのは、この思想の部分が強く影響を与えているからかもしれない。

焼畑をするときは、必ずこの土地に住む神様と虫たちへお祈りを捧げる。この儀式が今の時代も伝わっていることだって、理由があるのだろう。思想をおろそかにした農は長く続かないばかりか、実りは少ないままだ。

火は人類の歴史上、最大の発明品と呼ばれるほど多くの役割を担ってきた。火の最も大きな貢献は食糧増産だろう。自然毒や寄生虫、病原菌を減らすことに成功した。穀物を食べることができたのも火が使用できたからだ。
小麦、コメ、ジャガイモなどどいった生では食べれないものを食料にすることができた。チンパンジーが1日5時間も生の食べ物を噛んでいるのに対して、ヒトは1時間で調理から完食まで完結できるようになった。消化に使っていたエネルギーが脳の発達に役に立ったという説もある。さらに創造性を生み出すことになった。

火は暖房、照明、狩猟、焼畑のような直接的な利用はもちろん、土器を焼いたり、調理や鉱石から金属を作る精錬、金属加工にも利用された。しかし、火の技術は人々の生活を豊かに便利にしてきたが森林破壊を起こすことで自然環境や景観を大きく変えてきた。

古代文明では焼成レンガが多く使われたため、それを作るための流域内の森林伐採が広く行われたことが、河川の洪水を生み文明を崩壊させたと考えられている。現代でも増えすぎた人口のために暖房や調理のために薪を使おうと思えば、一瞬のうちに自然災害を呼び起こすだろう。そういう意味で化石燃料や電気から手を離せなくなっているのも事実だ。

火を暮らしに取り入れたことは人類が持つ好奇心の表れ。おそらく彼らは火への接近・接触を繰り返す中で火を利用することを学んだのだろう。好奇心は恐れを乗り越えた。

現代でも火の恩恵は続いているが、少しずつ火はアウトドアのエンタータイメントとなってしまい、暮らしから離れていってしまっている。火を識るものは火を暮らしの中で扱い、生物多様性を生み出していくだろう。逆に火を識らないものは自然災害も人災も生み出していくだろう。ヒトは今、火をどう扱っていくのかについて考えていく必要があるだろう。


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